第15回 哲学カフェ

新鮮とは?

2017年4月8日(土)

記録ご投稿



■ 日 時: 2017年4月8日(土) 13:00~15:00

場 所: カフェ・サンラファエル

     (名古屋市西区名駅2-11-8 ファーストビル大樹1階)

      地下鉄「名古屋駅」1番出口より北へ徒歩5分

テーマ: 新鮮とは?

進 行: 井下賢一

参加費: 飲食代実費(440円~)

定 員: 13名

申 込:  staff☆nagotetsu.sakura.ne.jp(☆を@に変換してください!)

定員に達しましたら締め切りますので、なるべく事前にお申し込みください。お申込みがない方も席に余裕がある範囲で先着順でお受けします。お早めにいらしてください。

※定員に達しました。キャンセル待ちも含め、受け付けを終了いたしました。 

主 催: なごテツ

共 催: カフェフィロ

備 考: ① 100円程度のご寄付をお願いしています。(強制ではありません。)

   ② 写真撮影と対話の録音をさせて頂いております。NGの方はお申し出ください。

《ご案内》

  街中で新入生や新社会人の姿を見かけるようになるこの季節。フレッシュな初々しさを感じられる方も多いと思います。新たな環境や人との出会いに新鮮さを感じられたり、今まで想像もしなかった考えや文化に触れることで感じられたりすることもあります。しかし、ただ新しいこととは異なるようです。新鮮とはどのようなものなのでしょうか。皆様とともに考えていきます。

 初めての方も歓迎です。どうぞお気軽にご参加ください。


~記録~

―開催報告―

なごテツ 第15回 哲学カフェ

《新鮮とは?》

日時: 2017年4月8日(土) 13:0015:00

会場: カフェ・サンラファエル(名古屋駅東口)

進行役: 井下賢一        参加者: 17

  

今日のテーマは「新鮮とは」です。学校には新入生、会社には新入社員の姿が多く見られる季節。新鮮という言葉があちこちで使われる季節ですね。

さて、本日の哲学カフェはどんな展開になるのでしょうか。

 

最初に新鮮を色で表現というこで、意見を求めました。さまざまな色が出てきましたが、どうもこの色だから新鮮、新鮮ではない、ということではないのではないようです。

 

以下、参加者から出てきた意見を並べていきます。

  • ほかにも新鮮なものというと、新鮮な食べ物、新鮮な空気といった使われ方をします。
  • 採れたて野菜、とったばかりの魚という使い方(ただし、生きているものには使わない?)
  • レゴランド、観光といった非日常的なもの、日常と違う感覚。
  • 流行、流行っているものに使う。
  • 新鮮というのはプラスイメージ。
  • 初めて飲んだコカ・コーラは飲めない。後に美味しく飲めるようになる。
    新しくても嫌なものはある。
    ショックというイメージ。新鮮というよりもショックを受ける。

  • 宣伝の影響で良いイメージを持つ。
  • 最初はよく思わなくても関心をもって良いイメージを持つと良さを見出す。
  • 関心があるものが新鮮と思う。

  • 自分以外の対象に対して新鮮と思う。
    ただ、新鮮な空気も1時間もすれば新鮮とは思わない。とても主観点なもの。
  • 時間が経つと価値、良さが劣化していくという前提で新鮮という言葉が使われているのではないか。
  • 価値が新しさに付随している。

  • 普段の自分の感覚とは違う新しさ。
  • 昔すでに経験していることでも時が経ってみると新鮮と感じる。
    新しいと言いながら昔感じたことがあるという矛盾。
  • 普段自宅で食べているものをお店で食べると新鮮。日常とは違う感覚が新鮮。
  • 新鮮なものが新鮮でなくなる。新鮮で無いものが新鮮になる。
  • 主体が変わることで新鮮と感じる。客体が変わることでも新鮮と感じる。
  • 新鮮とは新発見ではないか。

  • 新鮮は全く知らないものには使わない。
    全く知らないものには価値判断できない。
  • ショックはあるかもしれないが、良さそうという感覚が無いと新鮮とは言わない。

  • プラネタリウムと満天の星空のように、ワクワクする、モノそのものから受ける印象が違う。
  • 自分の枠内だと新鮮に感じないが、それを超えると新鮮。
  • 主体が受け取る刺激の量によって新鮮、新鮮でないが変わる。

  • 目隠しして飴の味を当てると全く違う、いかに目の情報に依存しているかが分かる。
    同じ飴でも目隠しすると違ったものに感じられる。
  • 私達はそのもの自体ではなく、これはこういう物という思い込みの感覚を感じているのではないか、これはこういうものと思うからそう感じる。
  • ありのままの姿を感じようとしない。
  • その枠の中は皆同じと思う。刺激がその枠をはみでると、別のものとして感じて新鮮と感じる。
  • こういうものだという前提をうまい具合に崩された時に新鮮。
    ある枠組みが外れた時に新鮮と感じる。

  • 同じものでも立場が変わると見方が変わる。
  • 未分化なものが対象を対象として意識すると新鮮。
  • 普段見過ごしているものに焦点を当てると新鮮。

などなど、さまざまな意見がありましたが、今日も定刻で終了となりました。

 

 

皆様ご参加いただき貴重なご発言を大変ありがとうございました。

(作成: なごテツ世話人 荒井豊)


~参加者からのご投稿~

[ご説明] 哲学カフェでのやりとりを多くの皆さまと共有する場として開設します。

イベント終了後2週間程度を目安に、参加者の皆さまからのご投稿を募集します。

当日の感想や、後で気づいたことなどを気軽にお寄せください。

参加者同士のさらなる対話の場としてもご活用ください。

[ご注意] 「ホームページ」欄は、ご記入なしで構いません。

「名前」は匿名や変名でも構いません。(後で変更はできませんので、ご注意ください!)

ご投稿はなごテツが発行および許諾した印刷物や電子媒体で複製・転載する場合があります。

あらかじめ、ご了承の上、ご投稿をお願いします。

イベント終了後、約2週間が経過しましたので、ご投稿の受け付けを終了いたしました。

コメント: 21 (ディスカッションは終了しました。)
  • #1

    からす (日曜日, 09 4月 2017 17:53)

    新鮮とは?
    色々な使い方がされると思われますが
    とりあえず食べ物で使われる言葉なのだろうと思います。
    目の前に新鮮なキャベツがある、レタスがある。
    これは使い方に問題がなさそうです。
    新鮮な鶏肉がある、新鮮なニワトリがある。
    なにか違和感を感じます。
    どちらも食材と考えれば問題ないのに
    ニワトリとすると食材ではない可能性があるので引っかかるのでしょうか?
    新鮮な刺身、新鮮なマグロ、新鮮な鯛、新鮮な鰯、新鮮なサメ
    サメも種類によっては食べれるのですが違和感を感じます。
    食べれる価値がある物に新鮮という言葉は使うのでしょうか。
    反対の言葉を考えていると「ひね」なんでしょうか。
    ひね生姜、ひね米など古いけれど食材になるものかな?
    それとも価値のない腐敗?
    新鮮ではないけれど十分食べれる食材を意味する言葉は思いつきませんでした。
    新鮮なコオロギ、新鮮な青虫、新鮮な蜘蛛
    これも大いに違和感を感じるものの前に「カメレオンの餌の」と付けると
    使用に問題はなくなるのを感じます。
    自分が食べれるものでなくても問題はないようです。
    新鮮な牧草や新鮮なミミズなどにも応用が利きそうです。
    果物と新鮮な果物
    「新しいことが価値のある物に使うこと」が答えのひとつなのでしょうか。

  • #2

    すずめ (日曜日, 09 4月 2017 21:08)

    当日のメモ書きを投稿します。(問題のある表現を含む場合は削除をお願いします。)

    “新鮮”という言葉のイメージ
     色に例えると、水色、白、赤、若葉色(うす緑)、ピンク(桜色)、紺
     においや味に例えると、しょうが、わさび

    ・その土地に今まで無かった、新しい、初めてのものが登場。→ 新鮮さを感じる。
     例.レゴランド、USJ

     レゴランドに新鮮さを感じない という人も居た。(「数あるテーマパークのひとつ」という捉え方)


    ・新しい(今までに無い)大きな変化をもたらす何か。バブルをもたらす何か。

    ・マイナスの方向(悪い方向)への変化は、「新鮮」とは言わない。
     (例えば、侵略とか)

    ・マイナスの方向でも“おかしさ(面白さ)”があると、新鮮に感じられる。
     (ロンドンバスの運転手と乗客がケンカして、運行ストップとか)

    ・受け止め方、感じ方に驚きがあるもの

    ・客体に変化がなく、主体の受け止め方が変化することによる“新鮮”(例.新鮮な体験)
     新たな気づき

    ・客体側の状態による“新鮮”(例.新鮮な食べ物(野菜、魚、肉))

    ・上記2つが入り混じったもの(具体例?)

    ・(プラス方向の新規性がある ということの他に、)関心があるもの
     (→ 関心が無ければ、プラス方向の新規性であっても新鮮さを感じない
       という趣旨の発言でしたっけ?)

    ・流行の最先端で、普及が進んでいないもの。普及が進むと新鮮でなくなる。
     (例.ウェストポーチの付け方 など)

    ・2度目なのに 新しい。久々の再流行など。再発見。

    ・時間性、空間性 (すみません、内容を忘れました。補足できる方、補足をお願いします。)

    ?「旬のもの」と「新鮮」の違いは?
     (ボジョレーヌーボーの例で話をされていたと思いますが、詳細内容を覚えていません。)


    ・「新発見」というキーワードを使うと、“新鮮”をうまく説明できる。

    ・新規性があり、プラスの価値を生むものであっても、最初は受け入れられないものがある。(例,ウイスキー)
     受け入れられない間は“新鮮”とは言わない。(“珍奇”とか)

    ・期待の範囲内の新規性を備え、プラスの価値があるものは、“新鮮”と呼ばれる。
     期待の範囲を超えると、“新鮮さ”の度を超える?

  • #3

    すずめ (日曜日, 09 4月 2017 21:55)

    当日、時間の都合で言えなかったのですが、
    “新鮮”の反対の概念として“熟(じゅく)”があると思います。
    “熟(じゅく)”には、「果物や作物などがうれる。十分に成長する。物事に十分なれる。(by コトバンク)」などの意味があります。
    “新鮮”には、“未熟”をプラス思考で受け止めた言葉としても使われます。
    (例えば、新入社員、新入生などの未熟さを“新鮮”と表現したりします。)

  • #4

    Mn3 (月曜日, 10 4月 2017 00:22)

    そう言われれば、食品は新鮮⇒熟成⇒腐敗のプロセスを辿りますね。
    新鮮なものは誰が見ても食べると美味しい、とわかります。
    しかし、熟成したものは食べられるのか単に腐っているのか識別に迷う場合があります。
    カビが生えたチーズなどはいい例で、それを美味しく食べるのが〈おとな〉=〈いき〉ということでしょうか?
    新しくて価値がある、のではなく古そうだけれど価値があるというやつでしょうか。
    そしてそのほうがなんか食通っぽい。それには人生経験が必須。
    フグの卵巣は猛毒ですが、ある地域では卵巣を特殊な方法で塩漬け、ないし糠漬けにして無毒化し美味しく食べるということです。
    この〈いき〉な食べ方をするのはかなり覚悟が要りそうです。
    わたしは〈いき〉でなくとも良いから新鮮なマグロの刺身をいただくだけで十分です。
    新鮮な食材は美味しいというだけでなく、安全という信号でもあるようです。
    日常で最も熟成と腐敗の境目を見極めていただくものとしてわたしは「アボカド」が身近です。
    鮮度のいいアボカドはまだ固くて美味しくない。熟成させ腐る1.5歩手前ぐらいで食べると美味しいです。
    この場合まだ食べれないアボカドは〈新鮮〉というよりは〈未熟〉ということになりますが、
    食べて安全ということ以外にあまりメリットはなさそうです。
    ただ時間さえかければ〈未熟〉も〈熟成〉に変わりうるのでそういった意味で価値を内在している、内包していると言って良いでしょう。
    〈未熟〉は未来に価値があり〈成熟〉はいま現在価値があるもの。
    わたしたちは未来に価値をおくように思考習慣がつけられているため、〈未熟〉と〈熟成〉したアボカドでは前者のほうが値が高くともそれ程違和感はないかもしれません。
    ではなぜ現在よりも未来のほうに価値があるとバイアスがかかってしまうのでしょうか?
    ひとつには経済における生産力はほぼ必ずプラス成長していってる。
    歴史は進歩していると信じられている。
    いま現在〈未熟〉なものも時間さえ経てば〈熟成〉したものになるという『安全』な世の中が続いているということ。
    といったところでしょうか。
    非常時や危険、戦争状態においては〈未熟〉なものより〈熟成〉しているもののほうがダイレクトに価値が認められるでしょう。
    新鮮を中心にその前段階と後段階についての考察でした。

  • #5

    からす (日曜日, 16 4月 2017 11:54)

    新鮮の反対の概念が「熟」と聞いて
    とても納得できるところと違和感とを感じて面白いです。
    うまく言葉にできないのですが
    「変化のない日常生活に飛び込んできたさわやかな風」
    新鮮にはこんなイメージもあると考えていたので
    この場合には熟が反対の概念になるのかな?などと考えていました。
    気分的な表現の新鮮の場合はどちらかというと対義語は閉塞感
    対するは解放感で新鮮はその表現のひとつ
    新鮮には変化への前向きな気持ちが含まれるのでしょうか

  • #6

    Mn3 (日曜日, 16 4月 2017 13:45)

    新鮮の対義語としては「マンネリ」というものもあるようです。
    思考停止をして、今までの風習や慣習に唯々諾々と従いなされること。
    ただ伝統とマンネリとは同じ踏襲路線でありながらも、微妙に意味が違います。
    前者には良い価値が、後者には批判されるべき面が伴われます。
    いったい何が違うというのでしょうか?
    この伝統を維持しながら、マンネリを排すために、ブランドではマイナーチェンジがしばしば行われます。
    ブランドのお約束のロゴというかマークのおおもとは維持し、大きさを変えたり、表記の仕方を変化させ、次々と新作を発表、コマーシャルします。
    不思議なことに、私たちは新作に「新鮮さ」を感じます。
    マイナーチェンジがみそで、フルモデルチェンジをしてしまうと旧作との比較対象とならないため具合が悪いのです。
    このように「新鮮さ」を感じる変化には、旧作(必ずしも商品とは限らないのですが敢えてこのように表記しますが)との比較可能なほどの、同じ枠内でのちょっとした変化があるようです。
    そこから〈いき〉につながる、新鮮さというものになるのかな。
    ただ新鮮さを感じる主体は、新鮮さを感じさせる客体よりも立場が上か同等、というようなこともありそうです。
    だから自分がそうしていなくとも、誰かの格好が「新鮮」だと感じるだけで自分もそういう格好をしていると同等のセンスをもってると表明していることになる。
    評論家とアーティストの関係もそんなことがあるかな。

  • #7

    すずめ (日曜日, 16 4月 2017 21:22)

    そうですね。
    ブランド品のマイナーチェンジは、「新鮮」であると同時に「成熟」でもあります。
    逆に「成熟」を感じないマイナーチェンジは、如何に新鮮であってもイメージダウンになるかもしれません。(なぜなら、実績(歴史)の積み重ね(即ち成熟)がブランド価値を作るという側面があるから。)

    そういう意味では、「(主体の感じ方による)新鮮」と「成熟」は対義語にはならないのかもしれません。

    追記)「アボカド」の例ように 「客体の状態による新鮮」については、「成熟」と対義語になると思います。

  • #8

    Mn3 (月曜日, 17 4月 2017 21:01)

    なるほど。
    「新鮮」と「成熟」はベクトルが反対のように見えても、共に良い価値を伴うという条件のもとで、"両立可能"なのですね。
    新鮮な視点による考察ですね。
    そういえば、ヘルマン・ヘッセの本のタイトルで『人は成熟するにつれて若くなる』というのが、あったなぁと連想されました。
    上手に年齢を重ねてゆくというのは、なかなか難しい。
    成熟だけでなく新鮮さを伴った年のとり方、ほんとに理想ですね。
    日々自分はマイナーチェンジを遂げて生きているか?
    自問自答するまでもなく私は失格ですが。
    ところで、〈新鮮さ〉をあらためて捉え直すと、
    「自分の世界観を揺さぶられる体験」というのも、蛇足ではありますが、皆様の考察に付け加えさせてもらえないでしょうか。
    赤ちゃんは見るもの聞くもの、初めてのものばかりですが、「すべてが新鮮だ!」とは表現できないでしょう。(もし、しゃべれればというありえない仮定のはなしではありますが)
    脱線しますが、ヒトは何歳くらいから「新鮮」という言葉を使えるようになるのでしょう?
    もちろん「自分の世界観を揺さぶられる体験」という意味で。

  • #9

    すずめ (月曜日, 17 4月 2017 22:40)

    > 脱線しますが、ヒトは何歳くらいから「新鮮」という言葉を使えるようになるのでしょう?
    > もちろん「自分の世界観を揺さぶられる体験」という意味で。

    「退屈を知ったときから」ではないでしょうか?
    (早ければ2歳、遅ければ4歳くらいかな?)

    「日常が退屈になったときから」となると、もっと年齢が上になってからかな?
    (8歳から10歳くらい?)

  • #10

    Mn3 (火曜日, 18 4月 2017 00:27)

    はからずも「新鮮」の対義語らしきものが出てきましたね。
    〈退屈〉。
    楽しい時間は早く過ぎ去り、退屈な時間はなかなか進んでくれない、
    と私たちは了解しています。
    また子供の頃、一日がとても長く感じ、成人すると一日はあっという間、
    ということにも異は挟まないでしょう。
    では子供の頃は退屈で、大人になると楽しくて仕方がないのでしょうか。
    むしろ逆ですね。子供時代ほど楽しかった時期はない。
    だから不思議なのは退屈を知らなかったと思われる2~4歳ないしは8~10歳以前の時間認識感覚は、一日をとても長く見做していたと思われることです。
    しかし、そう言えば私も子供の頃、退屈を感じていた休日の記憶が仄かに思い出されるので、
    子供時代=楽しくて幸福、という美化には注意が必要かもしれません。
    退屈な時間がなかなか消化できない一方、新鮮な印象をうける時間はあっというまに過ぎてゆく。
    ならば新鮮な印象というものも、鮮度というものはそんなにもつものではない、という常識に従い、すぐに劣化、してしまうのも故なしとしない、か。
    言い換えると楽しい時間はすぐに終わりを迎える。

  • #11

    すずめ (火曜日, 18 4月 2017 22:51)

    ちょっと脱線します。
    > 子供の頃、一日がとても長く感じ、成人すると一日はあっという間、
    > ということにも異は挟まないでしょう。
    > では子供の頃は退屈で、大人になると楽しくて仕方がないのでしょうか。
    > むしろ逆ですね。子供時代ほど楽しかった時期はない。

    大人は、“退屈”なのではなく、“忙殺”されているのだと思います。
    「忙殺」もまた、「新鮮」とは対極にある精神状態です。

  • #12

    すずめ (火曜日, 18 4月 2017 23:03)

    ・私は毎日“新鮮”な野菜をたくさんおいしく戴いています。
    ・私は山に住んでおり、毎日“新鮮”な空気をいっぱい吸っています。

    これらは、“新鮮”な体験でしょうか?

    毎日毎日同じことの繰り返しです。そう考えると、あまり新鮮な体験とは言えないのではないでしょうか?

    でもね、私の感覚だと これらは“新鮮”な体験なのです。
    毎日毎日同じように野菜を食べ、空気を吸っているのですが、その度にね、“新鮮”な感動を味わっているのです。
    「あ~、毎日毎日“新鮮”な空気ばっかり。もううんざりだ。たまには濁った空気も吸いたい!!」なんて、思わないでしょう?

    だから、毎日毎日“新鮮”な空気をおいしく戴けるということは、それだけで気分をリフレッシュできる“新鮮”な体験なのです。
    美味しい野菜はね、毎日食べても全然飽きないですよ。

  • #13

    Mn3 (水曜日, 19 4月 2017 21:00)

    きっと誰もが一度は「私は何故、生まれてきたのだろう?」「(私が)生きる意味とは?」と自問するでしょう。
    でも生きてゆかねばならない。しぜん毎日を忙しく働いて生きてゆく、忙殺。結果的には冒頭のような疑問は忘れ去られてゆく。仕方のないこと、誰が悪いわけではない。またそうして苦しみから解放される。
    しかし世の中には、この疑問にどっぷりと浸かって、死ぬまでを修行に捧げる人もいる。街で托鉢僧を見かけると、辛いのはどちらだろう、と思ってしまう。
    彼らの中では時間はどのように流れ、どのように一日を感じてるのだろうか。
    #12 からすると"すずめ"さんは郊外の自然豊かなところにお住まいでしょうか?
    新鮮な野菜、美味しいですよね。もっとも私はスーパーのものしか食べませんが今は新物のキャベツや馬鈴薯なんか、美味しいです。"すずめ"さんはもっと美味しいもの食べてるんでしょうね。
    私たちは現代文明の長所と引換えに、生きてゆくのに欠かせない食べ物、なかでも新鮮な食べ物を失ってしまったのでしょうか?
    これには大きく分けて3つの立場があるでしょう。
    1)現代文明は、昔ならある時期しか食することのできなかったものを、むしろ一年中、そして産地から遠すぎるようなところでも、冷蔵、流通の発達で食べることを可能にした。現代文明が食を犠牲にしてるというのは妄想に過ぎない。
    2)たしかに取れ立ての食材を美味しく食べることのできるライフスタイルは失わざるを得なかった。しかし会社で疲れて帰ってきてもコンビニへ行けば、調理してある料理を安価にいつでも食べることができる。功罪なかばといったところではないか。
    3)現代文明は自身を肯定するCMがなければ人々をつなぎとめてゆくことができない。薬品(ホルモン剤、農薬等)漬けのまがい物の食品、発ガン物質をも含んだ食品。近年での狂牛病騒動。もはや生物としての人間の限界を越えた状況を作り出しているのではないか。

    といったところか。
    私自身としては無難に2)の立場です。食品については1時間や2時間で語り尽くせない重いテーマなので、自分の立場というのもあってなきがごとし、です。というか〈新鮮〉から話題がそれていったきらいはありますが。

  • #14

    すずめ (木曜日, 20 4月 2017 07:30)

    私が新鮮な野菜を毎日美味しくいただけるのは、農業技術と物流システムの発展のおかげです。現代文明に感謝!!
    閑話休題、
    “新鮮”には「主体の新鮮(新鮮な体験など)」と「客体の新鮮(新鮮な野菜など)」があるというお話でしたが、私は、この2つはもともと同じだったのではないかと思っています。
    つまり、“客体の新鮮”を味わう経験が“主体の新鮮”だったのではないかと。
    これが転じて、客体に新鮮さを備えていなくても、主体が新鮮さを感じれば「新鮮だ」ということになり、今の言葉の使い方になったのではないかと。

  • #15

    Mn3 (木曜日, 20 4月 2017 22:03)

    〉#14
    申し訳ございません。都会人(鳥?)である"すずめさん"のことをわたくし、勝手に田舎暮らしと決めつけてしまいました。反省。
    #14の後半はそうだろうな、と思います。
    主体と客体に関しては小林秀雄の一文を思い出します。
    たしか『美しい「花」がある。「花」の美しさといふ様なものはない。』でしたか。
    新鮮な野菜がある。野菜の新鮮さという様なものはない。と言い換えてもいいでしょう。
    皆さんはどう思われますか?
    〈「花」を見て何を感じるか?美しさを感じる。或いは季節の移ろいを感じる。〉
    という文はおかしいでしょうか?美しさも移ろいも、私たちは感じることができる。つまり美しさも移ろいも"あり"ます。
    しかし〈ある〉という言葉を〈存在してる〉という意味のみしか使ってはいけないとすると小林秀雄の文章になります。なぜなら一体何処に美しさが『存在している』のか?答えよ!
    となってしまうからです。
    美しさは花に内在してるのでしょうか?それを美しいと感じる有機体がいて初めて感じられるものです。では脳のどこかを調べれば美しさが発見できるでしょうか?無理です。
    主体(人間)と客体(花)の共犯関係として初めてそこに〈美しさ〉が生じるのです。
    それを純粋に、『存在するなら場所を示せ!』と言われても答えようがありません。
    存在するものは空間に一定の体積を占める、というのが存在=ある、の定義とするなら、〈円の直径にある数字を掛けると円周になる。そんな数として π(パイ)がある〉では『一体π(パイ)は何処に体積を占めてるのか?』となってしまう。π(パイ)は存在しないのでしょうか?
    〈この冷蔵庫は食材の新鮮さを長時間保ちます。〉では『一体新鮮さとは何処に体積を占めてるのか!』となり世の中に新鮮さはなくなります。
    そもそも何か(客体)が空間に体積を占めていると認定するには誰か(主体)が認識して初めて有効とされるわけで。ということは純粋な『存在』ですら主体、客体の共犯関係があって初めて認められるものです。そういった物質も人間の概念もそんなに相異はないのではなかろうか?
    とここまで書いてきてググった結果、小林秀雄の一文はなんでも能の『花』についての深遠なる考察であるらしい可能性がでてきた。全く見当はずれなことを連ねてしまったようで……。いまさら書き換える気力もないので。この辺で。

  • #16

    すずめ (木曜日, 20 4月 2017 23:16)

    いえいえ、都会暮らしの方から見れば、私は田舎者だと思います。でも、田舎暮らしと言えども現代文明の恩恵に与っていることにはかわりなく、農業技術と物流システムに助けられて生きています。
    閑話休題、
    「新鮮な食べもの」は、その物理的性質で新鮮さを測ることができます。例えば、含有水分量とか、雑菌繁殖率とか。形は無くても、物理的特性で測れるような性質を持っていれば、それは「客体の持つ性質」ということができるのではないでしょうか?
    一方、「テーマパークで遊んだ経験」とか「洋酒を初めて飲んだときの気分」とか そういう“新鮮さ”は、客体(テーマパーク,洋酒)の物理的性質では測ることが出来ないので、「客体の性質によらない新鮮さ」なのだと思います。

  • #17

    Mn3 (金曜日, 21 4月 2017 22:02)

    問題なのは、主体に関係なく客体に客観的な「新鮮さ」が備わっているか否か、ということですね。
    例えば石鹸などは含有水分量とか、雑菌繁殖率とかは測定の結果問題なしと思われますが、新鮮とは言いません。石鹸は恐らくどんな主体にとっても食べ物ではないためでしょう。食べ物かどうかは主体の性格によるので、草食動物には新鮮な牛刺しも食べ物とは言えず、草食動物にとって牛刺しには「新鮮さ」はないと思われます。
    では人間にとっての焼きたてのビスケットは新鮮と言えるでしょうか?あんまり言わないですね。ビスケットは人間に食される以前生き物だった経歴がないからでしょう。
    では以前、生き物であり現在、含有水分量とか、雑菌繁殖率とかの測定にパスするものであれば「新鮮さ」はあるでしょうか?中国人や韓国人にとって、処分したばかりの犬肉には「新鮮さ」はあるかもしれませんが、日本人にとって犬肉に「新鮮さ」はないでしょう。言うまでもなく今、殆どの日本人にとって犬を食べる習慣はないからです。(残酷さはあるかも)
    まとめると、
    〈少し前、それは生き物であり(今は生きてない、しかし例外あり)、それを食べる習慣(文化)があるもの(主体)にとって、それには新鮮さが生じている〉と言って良いのではないでしょか。
    新鮮な鶏肉がある、とは言いますが、新鮮なニワトリがあるとは言わないのは、生きたままのニワトリを日本人であるならば食べる習慣がないからでしょう。
    新鮮な刺身、新鮮なマグロ、新鮮な鯛、新鮮な鰯という言い方に問題がないのは、新鮮なマグロの刺身のことをしばしば新鮮なマグロと呼んでるからがひとつ。刺身に関しては例外的に活け作りというものがあり、生きたまま日本人が食べる文化があるというのもひとつ。だから新鮮な白魚の躍り食いというのもあります。そういう文化です。
    新鮮なサメとなかなか言わないのは、恐らく一生のうち一度もサメの刺身を食べずに過ごす日本人が多数を占めるためと思われます。
    新鮮なコオロギ、新鮮な青虫、新鮮な蜘蛛と言わないのも、これらを生で食す習慣が日本人にないから。アフリカの部族には上記が許される習慣があるケースもあるでしょう。カメレオンはそれらを食べる習慣(本能)があるから、彼らにとっては新鮮なのでしょう。
    と書き連ねましたがどうでしょう。

  • #18

    すずめ (土曜日, 22 4月 2017 08:35)

    ・対象が食べもの もしくは 食材
    ・時間の経過とともに鮮度が低下するもの(低下速度が速いもの)
    ・一般に鮮度高いほど食べものとしての価値が高いもの

    こういう対象に対して、「新鮮な」という形容句を使うのだと思います。

    でもこれだと、「新鮮なケーキ」という言い方もできてしまいます。
    やはり対象は、「食材」に限定した方が良いのでしょうか?

    「新鮮な牛乳」
    「新鮮な生クリーム」
    「新鮮なホイップクリーム」

    「新鮮な牛肉」
    「新鮮な挽き肉」
    「新鮮なミートペースト」
    「新鮮なハム」

    加工食材に対して、どの程度まで「新鮮」という言葉を使うことができるでしょうか?

    追伸) もう2週間経ちますね。

  • #19

    Mn3 (土曜日, 22 4月 2017 15:15)

    元来「新鮮」とは新しい肉や魚のことを指していう言葉だったのでしょう。
    そして同じようなニュアンスを持つものに対して順次拡張して言うようにもなったと考えられます。
    だから比喩として、「新鮮な野菜」「新鮮な卵」「新鮮なミルク」「新鮮な空気」「新鮮な色」「新鮮な印象」「新鮮な体験」「新鮮なアイディア」「新鮮な曲調」等などと使用範囲が広がっていったと思うのです。
    「新鮮なカスタードパイ生地」は、ぎりぎり言うかもしれません。(?)しかし"すずめさん"ご指摘のように「新鮮なケーキ」とはあまり言わないでしょう。
    一体何に対して「新鮮な~」を適用できるのかできないのかは、"すずめさん"や"からすさん"はじめ皆さんの考察の通りだと思います。
    ただ、新鮮な肉や魚が持っている「新鮮さ」とは一体どんな属性であったのか?
    直感的には分かるのですが、それを言葉で説明すると何になるのか。そこにこだわってしまいました。新鮮な肉や魚にあり時間とともに失われてゆく「新鮮さ」「鮮度」の正体とは。
    ヒトの進化の過程で身につけた、食べると美味しいと感じるその「新鮮さ」を、もっと言葉で説明すると何になるのだろうか。
    命の痕跡とも言うべき何か。
    実は面倒なことに「鮮」の羊は元来[羊が3つで1字](←入力できませんでした)という文字だそうで、意味は肉の新しい独特な臭い、だそうです。「鮮」の魚も[魚が3つで1字]という文字で、やはり意味は新しい魚の独特な臭いだそうです。2つ合わせて「鮮」は新しい肉や魚の持つ独特な臭い、という意味だそうです。
    今まで生きていた生物の肉や魚の独特な臭いとは、イメージではマトンのもっと強い匂いでしょうか?それが時間が経つと薄れてゆくのでしょうか。それとも腐敗臭になるのでしょうか。
    (鮮という字が誕生した頃の)古代中国、肉や魚は切り取ると塩漬けにしたり燻製にしたりして保存食にするから、生肉と違い時間が経ったものは逆に無臭に近いイメージなのだろうか?
    解らないです。
    現代の私たちが「新鮮」という言葉から受ける爽やかなイメージとは違って、古代中国、本来の「新鮮」という言葉から受けるイメージは、現代人からすると余り受け入れ難いものなのかもしれない。
    などと2週間経つ今頃、言って話をややこしくしてしまうのだろうか。(Uさんも語源、字の成り立ちについて言っておられましたが、同じ内容でしたでしょうか?すみません。はっきりとは聞きそびれましたので)
    繰り返しますが、「新鮮な~」は比喩としていろいろ使えるようになっていますので、絶対に正しい間違いという比喩はないと思います。なので加工食材についてはボーダーライン上ということでどうでしょう。

  • #20

    すずめ (日曜日, 23 4月 2017 00:58)

    > 新鮮な肉や魚が持っている「新鮮さ」とは一体どんな属性であったのか?

    語源から考えると、それは「におい」つまり、「化学的変質の進行率」であった
    ということがわかって、“新鮮”な気持ちになりました。

    Mn3さん、からすさん、いろいろと意見交換ができて楽しかったです。ありがとうございました。

  • #21

    Mn3 (日曜日, 23 4月 2017 03:29)

    〉Mn3さん、からすさん、いろいろと意見交換ができて楽しかったです。ありがとうございました。

    こちらこそ、いろいろありがとうございました。
    今回はじめて意見を伺わせていただいた"すずめさん"
    ハンドルネームのとおり繊細で緻密な哲学的考察でしたね。
    機会があればまたコメントの応酬ができれば、と思います。
    再見。


第15回 哲学カフェ

新鮮とは?

2017年4月8日(土)

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