第6回 哲学カフェ

なぜ楽しい時間は速く過ぎるのか?

2016年9月10日(土)

記録ご投稿



■  日 時: 2016年9月10日(土) 13:00~15:00
   場 所: カフェ・サンラファエル

     (名古屋市西区名駅2-11-8 ファーストビル大樹1階)

      地下鉄「名古屋駅」1番出口より北へ徒歩5分

テーマ: なぜ楽しい時間は速く過ぎるのか?

進 行: 井下賢一

参加費: 飲食代実費(440円~)

定 員: 13名

申 込: テーマ決定が遅くなり申し訳ありません。

     なるべく事前にお申込みください。

     (定員に達し次第、締め切ります。お申込みがない方は席に余裕がある範囲で

     先着順でお受けします。)

主 催: なごテツ

共 催: カフェフィロ

備 考: ① 100円程度のご寄付をお願いしています。(強制ではありません。)

     ② 写真撮影と対話の録音をさせて頂いております。NGの方はお申し出ください。

 

《ご案内》

楽しい時間は短く退屈な時間は長く感じたりします。若いときよりも年を経たときの
方が速く感じたりします。突然の出来事のときは、周りがとてもゆっくり動くように
感じることもあります。時間の進み方が違って感じられるのは、なぜなのでしょう
か。そして、違いを感じながらも他者と時間を共有できるのはなぜでしょうか。
時間の進み方についてともに考えていきます。初めての方も歓迎です。どうぞお気軽
にご参加ください。


~記録~

―開催報告―

なごテツ 第6回 哲学カフェ なぜ楽しい時間は速く過ぎるのか?

日時: 2016年9月10日(土) 13:0015:00

会場: カフェ・サンラファエル(名古屋駅東口)

進行役: 井下賢一        参加者: 12

 

今日のテーマは「なぜ楽しい時間は速く過ぎるのか?」です。

今回はテーマを皆様にお知らせするのが遅れました。そのせいか、いつもより若干参加された方が少なかったような。申し訳ございません。また、参加していただいた方々、ありがとうございました。

実は、このテーマ、最初に時間に関する内容を考えていたときに浮かんだのですが、他の哲学カフェでも扱ったことがあるテーマだということがわかり、どうしようかと悩んでいる間に遅くなってしまいました。

でも素敵なテーマだったものですから、やってみたいですね。ということで、どのように進んでいったのかをお伝えしたいと思います。

 

最初に、時間について昔の法学の恩師から教えてもらったということで、社会的時間と文化的時間という話で始まりました。社会的時間は過去から流れている時間(聞き間違っていたらすみません)、文化的時間は、人生の中での大きなよろこびのあったことのように、自分の周りにあって積み重なっていく時間、重層的時間ということを語っていただきました。

また、浦島太郎のように、亀を助けて竜宮城にいったあとの楽しい時間はあっというまに過ぎているのに、刑務所のようなところに入るととても長い時間のように感じるのではという意見。

電動歯ブラシの話もありました。普段の歯磨きはあっという間なのに、電動歯ブラシで3分間磨くとなると意外と長くて、早く終わらないかなと思うとのこと。

このようなことに対して、意識すると時間は長く感じるのではという意見が出ました。

 

この路線で決まりかと思いましたが、嬉しいことに、別の観点で、難しいテストをやっている時は意識しているけれど時間が短く感じるのではないかという意見がでて、面白い例で、カウントダウンするときは時間が長く感じるが、カウントアップするときはあまり感じない。という事例も添えてくれました。確かに、カップラーメンを食べる前の3分は長い。

このようなことから、時間が欲しいと思うと短く感じ、そうでないと長く感じるのではという意見がでました。

 

別の例で、学生時代が昨日のように感じる、ゴルフではスコアの良い日は1日が短く感じる。睡眠も、朝すっきりと起きた時は短く感じ、そうでないと長く感じる。などなどが続きました。

 時間が長い、短いはその体験の評価の部分もあるのではないでしょうかとの意見が出ました。

それに対し、調理の仕事をしていると調子にかかわらず12時になるとわかる。ということです。どうも、時間には感情とは抜きの時間もあるようです。

 

この流れの中で、原始人のように時間という言葉がないときは時間という感覚はなかったのでは?という問いが発せられました。これにより、原始人の感じ方についての話題がしばらく続きました。

1日の中に朝昼晩があり、獲物がいつ頃どこに行けばいるというようなものはあったので、今みたいに細かい時間の感覚はないが、大きな時間の感覚はあったのでは。時間という概念は現代人のように自由がある場合にでてくるのであって、原始人のように生きるだけで精一杯の場合はないのではないか。

 

このように続いたあと、参加者の体験談が語られました。

赤ちゃんのときの記憶があり、天井から吊ってぐるぐる回るおもちゃをお父さんが回してくれて、それが止まったらまた回してくれると言ったのになかなか来てくれなかった、その時間が長かったのを覚えているとのこと。

こんな小さな時のことを覚えているということと、親が話していることが理解できたということが驚き。ちょっと本質でないところに気持ちが行ってしまいましたが。

 

他にも、夏休みのように楽しいことが長く続くと早く感じなくて、早く学校に行きたかったので途中から長く感じたとの経験談も続きます。

 

歳を取ってくると1年が昔より短く感じるという話が出ました、それは、新しいく体験することが少なくなるので刺激がなくなるからなのではないかという意見がでました。それに対し、昔の時間が短く感じるのは部分部分を編集した時間になっているからではないか。

オリンピックのように長い期間、その時のために頑張ってきて、メダルが取れないと、その期間が長く感じるが、メダルが取れると、あっと言う間のように感じる。過去の時間は編集されるのではないか。という意見です。

また、情報が多いと長く感じる。少ないと短く感じるのではないかとか、年齢によって時間は変わり18歳は1/18、40歳は1/40に感じるとの話を聞いたという意見も。

 

このあと、時間の概念の話へと続きましたが、ここらで時間切れ。

いつもの如く、場所を変えての懇親会へと話は続いていきました。 

(作成: なごテツ世話人 荒井豊)


~参加者からのご投稿~

[ご説明] 哲学カフェでのやりとりを多くの皆さまと共有する場として開設します。

       イベント終了後2週間程度を目安に、参加者の皆さまからのご投稿を募集します。

       当日の感想や、後で気づいたことなどを気軽にお寄せください。

       参加者同士のさらなる対話の場としてもご活用ください。

[ご注意] 「ホームページ」欄は、ご記入なしで構いません。

       「名前」は匿名や変名でも構いません。(後で変更はできませんので、ご注意ください!)

       ご投稿はなごテツが発行および許諾した印刷物や電子媒体で複製・転載する場合があります。

       あらかじめ、ご了承の上、ご投稿をお願いします。

哲学カフェ終了後、約2週間が経過しましたので、ご投稿の受け付けを終了いたしました。

今回も多数のご投稿をいただき、大変ありがとうございました。

コメント: 9 (ディスカッションは終了しました。)
  • #1

    Mn3 (月曜日, 19 9月 2016 13:14)

    ことばが誕生する以前にも「時間」の概念は、あったのかどうかについて。
    脳の視覚野と言語野を繋ぐ部位が事故により損傷してしまったある人の話です。視覚野と眼球に付随する神経に傷はないことから、患者は目が「見えてる」筈です。
     しかし、テーブルの上に置いてあるコップを医者が指差して「これはなんですか?」と問おても患者は「わかりません」を繰り返すばかりだったそうです。
     ここから考えると、見る=言語認識、ということが言えそうです。言葉と概念の結びつきを感じます。
     しかし一方、今度はことばを発しない生後6ヶ月の正常な赤ちゃんを被験者にしたものです。テーブルにコップを置いておきます。棒のようなもので水平にコップを動かしていきます。そしてコップをテーブルの淵まで持っていき、テーブルとコップが接することのない状態まで棒で押してゆきます。当然このままではコップは落下しますが、赤ちゃんには分からないようにトリックでテーブルと接していないのにコップは今まで通り水平に動いていきます。
     すると、なぜ重力に逆らってコップが水平に動いているのだ、と言わんばかりに赤ちゃんは注視し始めるそうです。
     ここから考えると、ことばで「重力」とか「落下」という概念を知らないはずの赤ちゃんも何らかの概念を持ち合わせている、と考えても良さそうです。
      
     「右」や「左」にあたることばを持っていない未開部族の例を今回のカフェで挙げました。そこで「獲物を追っていく中で仲間に指示を与えなければいけないとき、伝達の必要なとき『右』『左』のことばが生まれたのではないか?」という発言を聞きました。
     確かに、ヒトとヒトが会う約束をするとき、そこで太陽の位置や影の長さなどを伝達しあう必要から「時刻」の言葉や概念が生まれたのかもしれません。

     また「概念までゆかなくとも『感覚』はあったのでは?」という発言を聞きました。
     たしかに動物に、ある行為と電気ショックをセットで与えると、そのある行為を避けようとします。動物でも『ショック・・・いやだ』のような感覚=概念はあるのかもしれません。
     それに私は睡眠中に見る夢は『見る』というよりも『認識する』に近いのでは?と思ってきました。そこで動物にもレム睡眠波が発生していることから、動物も夢を見ると昔からいわれていることを思い出しました。動物も認識する、これって概念、或いはpre-概念と言えないでしょうか?

     結論として言葉はなくとも概念は生じるor概念が生じると同時に(ヒトの場合は)言葉も生じる。
    よって原始人も時間の概念or pre-概念を持っていた、と言えそうです。

  • #2

    からす (月曜日, 19 9月 2016 22:45)

    時間とは定規である
    測れる物差しがあれば様々な計算が成り立つ
    三角形の一片の長さと角度が判れば建物の高さが計算できるように
    目には見えない心の状態も測定できる気がして
    何かが判るのではないかと考え続けてしてしまう
    時間は測定できる
    面積や仕事を進めた量も記録できる
    どんなにデータを集めても
    数値にできない感情は数値にできないまま
    パターンを集めれば参考にはなる
    そんなことを考えていると
    気がつくと時間のことは考えていない
    まあそれも楽しいので問題ないのでしょうか。

  • #3

    Mn3 (火曜日, 20 9月 2016 21:02)

    自分の死期を悟った時、わたしたちは自分の人生は長かったか、それとも一瞬であったと感じるか?
    また、どちらの方が幸福な人生と言えるのだろうか?
    その時、脳裏に去来するのはどんな光景だろうか?
    恥ずかしながら、多分わたしの場合は、子供の頃の幸福な風景だと思う。子供の頃、あんなに時間というものを意識しなかったのは、子供の頃あまりにも幸せすぎたからではないかと今になって思う。大人になってから実は、あの幸福感を取り戻そうと無駄な努力を重ねるから、大人の時間は早く過ぎ去ってしまうのではないか?
    ここで、自分のこれまでの人生を肯定的にとらえた人、と否定的に感じた人では時間の流れる速さに差が生じるという興味深い実験結果がある。というのは嘘です。すみません。でも、統計をとると差があるような気がします。
    人間は何歳頃から自分も死ぬ存在だと気づくものだろうか?
    その時から自分の時間がカウントアップではなく、カウントダウンの人生が始まることに気づくのだ。それを気づかないふりをすることから、人のあらゆる精神的な宿痾が生まれる気がする。
    神性が宿るのは大人よりも子供の方がふさわしい、と私は思う。子供の存在は唯一の希望であり、また恐怖である。それは、そこに私たち大人は時間の断絶を見い出すからではないか。
    世界で子供に神をみる宗教性をもった民族はわりに多い。昔からひとは無駄な努力を重ねてきたということだ。何故なら、どんな子供もすぐに人生をカウントダウンするようになるからだ。人類の生の歴史は死の序曲で祝福されている。それとも死の凱歌なのか。
    時間が逆に進んだら、という神経症的な願いが、基礎となって相対性理論がうまれた、のではない。
    時間よ止まれ、という夢想が、結実してブッダは悟りをひらいた、のでもないだろう。
    ただ、死者に涙。理由もわからず、みどり児の笑顔。

  • #4

    からす (水曜日, 21 9月 2016 21:11)

    肯定的な考えと否定的な考えはいつのまにか心の中に入り込み
    心の中に森を形づくっていく
    森は刻々と姿を変えていき
    ほんの小さな出会いが風景を一変させる
    どの瞬間を切り取るかで心など如何様にも見える
    素直な存在でもないので本心は隠されている
    自分で自分を意識することはとっても難しい
    ポジティブに見える姿はただの思考放棄でしかないことが多い
    自分が肯定的と思っていることは
    本当に肯定的だと思っていることなのか
    肯定的だと思い込もうとして自分を騙しているのでは?
    否定的に考えていることを信じたくないために覆い隠しているのかも
    逆もまたしかり
    心の時間の過ぎ方はもっと単純かもしれない
    楽しいと早く過ぎ、忙しくても早く過ぎる
    つまらないとなかなか過ぎず、暇だとなかなか流れない
    肉体的にか精神的にそれなりの負荷をかけて運用できていれば
    心は満足してしまうのではなかろうか

  • #5

    Mn3 (水曜日, 21 9月 2016 23:39)

    人間は万物の尺度である、という言葉がある。人間と比べて他の生物はどのくらいの時間の進み具合を感じているものなのだろうか?
    むかしある学者が(心拍数)×(個体の寿命)=(一定値)のような式を表していた。そして「心拍数が高い生き物はそれだけ時間の流れを味わっているのです」のようなことも言っていた。同じ1秒でもヒトにとっては一瞬だがハチドリにとってはそれなりに長い時間だと感じてるということか。
    しかし、時間の流れは脳で感じるのであって心臓で感じている訳ではないのでは?心臓の事情が脳の時間を感じる回路に影響はしても、やはり主は脳なんではないのか?
    同じ1秒でも処理する情報量が多いと時間の長さも長く感じることはあるだろう。1秒間に翼を動かす動作を沢山必要とするハチドリにとってはヒトに比べ長い時間と感じられるのだろう。
    だから同じ一生でも、波瀾万丈の人生を送った人にとっては人生は一瞬の夢のごとし、ということか。
    それにしても、地球が太陽の周りを100周まわると、殆どの人間は土に還る。そして地球のサイズ。太陽の放射するエネルギー量。重力の大きさ。原子の大きさ。化学作用のスピード。その他もろもろの物理定数。これらが時間の流れのスピードを決めていることに違いない。それらを定式化したという話は、寡聞にして聞かない。
    宇宙人がもしいるとしても、地球人とのコミュニケーションは難題を極めるだろう。

  • #6

    からす (木曜日, 22 9月 2016 19:08)

    人間は万物の尺度である
    面白い言葉だと思います
    人間のために測定しているのであれば
    尺度は人間専用のものとならざるを得ない
    その尺度はすべて人間がつくったものとなるので
    必要性を感じた人間こそが尺度である
    とても西洋的で人間本位の言葉にも感じる
    では時間はどうなのだろうか?
    地球が太陽の周りを一周する時間を観察し
    使いやすいように尺度をあてはめたもの
    該当する気もするが星の巡りは人間とは無関係である
    重さの単位のgや長さの単位のmの正解は
    仮説の中にしか存在しない
    しかし時間の正解は人間の理論の中にはなく
    星の巡りに正解を求める
    人間が存在しなかった時代にも存在していたのだから
    該当しないような気もする
    でもその周期に刻みを入れて尺度としたのは人間である
    観察者がいなければ存在しない
    「人間は万物の尺度である」にイエスとなりそうな気もしますが
    私に感覚は拒絶したがっているので
    ノーと言える言葉を探し続けてみたいと思います。

  • #7

    Mn3 (木曜日, 22 9月 2016 21:53)

    私は物理科を卒業してる。が、相対論を履修してない。
    これは、ルーブル美術館に行ったけどモナ・リザの周りは混んでたので通り過ぎた、だけどルーブル美術館に行ってきました!みたいなモンである。合掌。
    なぜ言い訳から始まったかというと、これから自分でもよくわかってないことを書いてしまうからだ。
    橋元淳一郎、ご存知でしょうか?
    「時間はどこで生まれるのか」「時間はなぜ取り戻せないのか」「時空と生命」などの著作で知られる物理学者だ。彼の理論のエッセンスをここにあらわします。
    時間の流れ→エントロピー増大の法則→生命の主体的意思→時間の流れ→エントロピー増大の法則→生命の主体的意思→時間の流れ→エントロピー・・・・∞
    これだけで、何の説明もなしで理解できたでしょうか?
    では、不肖Mn3が説明らしきことをのたまわせて頂きます。
    まず、時間が過去から未来へと流れてゆく。それ故、そこではじめてエントロピーが増大してゆく。熱力学の第2法則です。水にインクを一滴たらすと、だんだんと広がってゆく。その逆はない。というやつです。いいですか?そんな自然界で、この全てを砂漠化してゆこうという力に抗うものがでてきた。(あくまで比喩ですよ)エントロピー(乱雑さ)を主体の意志の力で減少させるもの。水と炭素化合物と酸素からきっちりとした構造をつくりだすもの=生命体、が生まれた。そして次に現代物理学の白眉、量子力学によるとミクロの世界(どんなマクロなものも分解してみれば、この世界のステージまで降りてゆきます)、では不確定性原理が支配しています。そこはΔxΔp=hの世界。位置の不確定さと運動量の不確定さが常に存在する世界。一言で言えば時間のない世界。よく通俗書にあるように原子核のまわりに電子が雲のように広がっている、あの感じです。なのに人間が測定すると(人間でなくとも良いのですが、説明上そうします)、その瞬間位置や速度が生まれます。位置や速度から時間も表記できますね。そう、つまり生命の主体的意志が時間を生んだ。わかりにくければシュレーディンガーの猫の場合を思い浮かべてください。余計わかりにくいかもしれません。で、ここで時間が生まれたので、最初の説明のエントロピー増大則に繋がり、めでたく(?)エンドレス・サークルとなります。
    どうでしたか?1/100もわからなかったでしょう?
    ちゃんと理解したい方は橋元淳一郎の著作にあたって下さい。多分、消化不良を起こすと思います。私の責任逃れです。
    時間の流れを物理的に考察するとこうなります。

  • #8

    からす (金曜日, 23 9月 2016 11:49)

    それでもそこに星はある

  • #9

    Mn3 (金曜日, 23 9月 2016 20:03)

    人間が測定してはじめて電子の位置が現れる。一方、人間がいようと居まいと星の存在は、揺るぎない。ミクロの常識がマクロでは通じず、その逆もしかり。
    ミクロの世界に片足を、マクロの世界にもう片足をのせた人間は二つに引き裂かれようとしている。
    この力は思考力、或いは理性の力と呼ばれ、人間を苦しめている。
    ならば、このパラドクスは永遠に解かれないのか?
    理性を超えたちからを手に入れたとき、積年のパズルも解かれるだろう。
    ただ、そこには人類はいない。
    何者かに進化した後継者がこの問題を解いているだろう。



第6回 哲学カフェ なぜ楽しい時間は速く過ぎるのか?

2016年9月10日(土)

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