第13回 テツドク! 

~日常の経験と哲学書の一節を出発点に、対話で考える~

アリストテレス『ニコマコス倫理学』

(第四巻) 人柄の徳
2017年2月17日(金)~18日(土)

<2日連続>

記録ご投稿



喫茶モノコト~空き地~さまの入り口
喫茶モノコト~空き地~さま

■ 日 時: ① 2017年2月17日(金) 19:00~21:00 (開場18:45)

  ② 2017年2月18日(土) 15:00~18:00 (開場14:45)

場 所: 喫茶モノコト~空き地~

(名古屋市千種区内山3-28-1 ちくさ正文館2階)
JR・地下鉄「千種」4番出口より東へ徒歩2分
/地下鉄「今池」12番出口より西へ徒歩4分

題 材: アリストテレス『ニコマコス倫理学』(光文社古典新訳文庫)

テーマ 分別のある怒りとは? 真の友人がもつ徳とは? など。

紹介役: 菊地建至さん(探Q複数の視点で考えるカフェ / 金沢医科大学)

参加費: (1回2,000円/2回通し3,500円)+飲食代実費(400円~)

定 員: 15名程度

申 込:  staff☆nagotetsu.sakura.ne.jp(☆を@に変換してください!)

定員に達しましたら締め切りますので、なるべく事前にお申し込みください。お申込みがない方も席に余裕がある範囲で先着順でお受けします。お早めにいらしてください。

主 催: なごテツ

共 催: カフェフィロ

備 考:  ①お申込み時に、お名前、連絡先とともに、両日とも/1日目のみ/2日目のみ をご明記ください。
     ②写真撮影と対話の録音をさせて頂いております。NGの方はお申し出ください。

 

《ご案内》

 いい具合に怒ってる?

 理想の友となるような人の人柄の徳って?

 そういう人が具体的な場面でしそこなうこともあるんじゃないの?

     *     *     *

 日常の経験と哲学書の一節を出発点に、対話で考えるテツドク!

 2日連続で、アリストテレス『ニコマコス倫理学』の中から、人柄の徳について書かれた第四巻のいくつかの文章を読んでいきます。分別のある怒り、真の友人がもつ徳などについて、菊地建至さんからのミニ講義を受けながら、参加者の皆さまとともに対話を通して考えていきます。

 事前準備の必要はありません。1日のみのご参加も、初めての方も歓迎です。どうぞお気軽にご参加ください。

イベント・チラシ

~記録~

(1日目)

(2日目)

―開催報告―

なごテツ 第13回 テツドク!

アリストテレス『ニコマコス倫理学』(第四巻) 人柄の徳

日時: 2017年2月17日(金)19:00~21:00/18日(土)15:0018:00

会場: 喫茶モノコト~空き地~(千種駅東)

紹介役: 菊地建至さん        参加者: (17日)12名/(18日)13名

 

 なごテツ始まってもうすく1年。記念イベント的な開催となった「テツドク!」の始まりです。

最初が金曜日の夜からということもあって参加者人数もどうかと思っていましたが、そのような心配は主催側だけ、今日も哲学好きの皆様が集まって下さいました。

初めての方もちらほら、お誘い合わせのうえの参加もあって席を追加するほどとなりました。参加していただいた皆様、ありがとうございました。

 

さて、内容はアリストテレスのニコマコス倫理学の第4巻から抜き出した題材をテーマとしたものを2日間語り合っていくこととなりました。

 

幾つかの徳について語り合う予定で、なおかつ時間があればクリティカルシンキングについてもと考えていましたが、実際には2日間で「怒り」と「気前の良さ」の2つの徳についてで対話が盛りあがり時間いっぱいとなりました。

 

ナビゲーターの菊地さんが、さまざまな観点からの解説を加えていただくことで、アリストテレスの語る徳の内容が、現代の私たちとの関係で理解が深まっていくことが感じられました。

 

参加者から発せられる身近な話題や疑問、意見が整理され納得が深まっていったようです。

 

ゆったりと時間が流れていく中で、あっという間に時間過ぎ、終わった時に参加した方々の満足した顔が印象的でした。

哲学の面白さを発見できた、そんな2日間となりました。

     *     *     *

題材本の訳者様・出版社にはイベント開催にご理解をいただき、訳者様からはメッセージまで頂戴いたしました。

紹介役の菊地様には、今回のイベントを快く引き受けてくださり、ご多用の中、遠路、金沢からお越しいただきました。

会場の喫茶モノコト~空き地~様には、参加者の皆様が哲学カフェを楽しめるようご配慮いただき、ちくさ正文館様には、題材本を上下巻揃えて多数平積みでご用意いただき、会場に花を添えていただきました。

参加者の皆様には、告知期間が短かったにもかかわらず多数の方たちにご参加いただきました。帰り際の皆様のご様子を拝見して、世話人たちも手応えを感じているところです。

また、お名前は控えますが、今回のイベントのきっかけを作ってくださった方がおられます。その方には、菊地様の送迎をお申し出いただき、広報にもご協力いただくなど、大変助けていただきました。

今回のイベントが無事開催できましたことを大変喜んでおります。

ここに書ききれませんが、皆様に陰に陽に多くのご支援・ご協力いただき、大変感謝しております。

これからどうぞもよろしくお願い申し上げます。

(作成: なごテツ世話人 荒井豊/井下賢一)


~参加者からのご投稿~

[ご説明] 哲学カフェでのやりとりを多くの皆さまと共有する場として開設します。

イベント終了後2週間程度を目安に、参加者の皆さまからのご投稿を募集します。

当日の感想や、後で気づいたことなどを気軽にお寄せください。

参加者同士のさらなる対話の場としてもご活用ください。

[ご注意] 「ホームページ」欄は、ご記入なしで構いません。

「名前」は匿名や変名でも構いません。(後で変更はできませんので、ご注意ください!)

ご投稿はなごテツが発行および許諾した印刷物や電子媒体で複製・転載する場合があります。

あらかじめ、ご了承の上、ご投稿をお願いします。

イベント終了後、約2週間が経過しましたので、ご投稿の受け付けを終了いたしました。

コメント: 5 (ディスカッションは終了しました。)
  • #1

    Mn3 (土曜日, 18 2月 2017 01:41)

    日本の神は、どこか母性的。
    如来、観音、思わず彼女ら、と呼びそうになる。
    彼女らは人とともに悲しむ雰囲気がある。
    一方、西洋の神は文字通り「怒れる神」。
    天にまします我らが父よ、と呼びかけるように厳しい「父」だ。
    西洋は怒りが貫く文明、
    東洋は慈悲の溢れる文化、と感じたりする。
    とすると、日本は元来怒りから遠いところにあると考えていいのだろうか?
    西洋に比べて日本は残虐性があまり少ないのではと思うのだが。
    だからあまり怒ることが上手ではない。
    それだから第二次大戦のような、国の怒りをあらわす場面では、
    うまく制御ができなかったのでは、と思ったりする。
    なんか思いつきで書き連ねたので「なんてムチャクチャな文章だ!」ってあまり怒らないでね。

  • #2

    Mn3 (日曜日, 19 2月 2017 15:19)

    『ニコマコス倫理学』の第一章のタイトル 
    「お金や物品のからむ人間関係における中間性としての気前良さ」 
    というのがいきなり難しい。どういう意味なんだ?
    言い換えると
    (お金や物品のからむ人間関係における中間性)=(気前良さ)
    と言ってるのだろう。
    更に言い換えると
    (お金や物品のからむ人間関係における偏りなさ)=(気前良さ)
    更に
    (お金や物品のからむ人間関係におけるちょうどいい具合)=(気前良さ)
    そして
    (お金や物品のからむ人間関係におけるちょうどいいカンジ)=(気前良さ)
    にたどり着く。
    ちょうどいいカンジとは?
    ①(財貨の)取得の総額と贈与の総額がその人なりにバランスよく取れていること。
    ②a) 取得に関し、財貨を取得すべきところから、取得すべき額だけ取得し
     b)贈与に関し、しかるべき相手に、しかるべき額を与え
    ③b)のほうがa)よりも重要で本質的⇒徳にかなう
    よって
    第一章 (徳にかなう)=(気前良さ)
    こんな感じでどうでしょう?

  • #3

    からす (月曜日, 20 2月 2017 18:55)

    被災地におけるボランティアで
    被災者からお礼の品を受けるか否かは誰の名誉の問題なのか?

    被災地に限らずボランティアは無償行為と定義されている
    おそらく名誉ある行為とされているので謝礼を受け取ることは
    行為を卑しくするとされてしまっているのでしょう。
    世間でそう認識されてしまったことは仕方がないのですが
    受け取ってはいけないという声はあまりに自己満足と感じてしまう。
    請求するかどうかは別として(市場価格1万円を実費3千円請求は良いのでは?)
    差し出された物を拒否することは相手の気持ちを踏みにじることにならないのか?
    特に相手が目上の方であり、なおかつ高齢の方であればなおさら
    受け取らなかった場合の寂しげな表情と感謝の言葉を伝えた時の安堵の差が大きい。
    飲み物であればのどが渇いていたことを伝えたり、
    お金であればお昼に使わせて頂きますと具体的な感謝の言葉を添えると
    とても喜んでもらえることが多い。
    受け取らないことで相手の心の負担を増やすことが正しいとは思えない。
    では自分が食べれない物を頂いた場合にはどうすべきか?
    お金ならば幾らまでなら受け取るべきなのか?
    また受け取るにしろ何度か断るべきなのか?
    相手の生活に支障がでる可能性がある物を受け取るべきなのか?
    その場にいなければ答えなど無意味かとは思うけれど
    汚れの取れていないコップに注がれたお茶を
    笑顔で飲み干せる程度の覚悟があるならば
    どう選んでもそれ程道から外れたことにはならないか思う。
    受け取るべきではないと人から言われたので受け取らない
    その選択も誤りではないと思う。
    どちらも選べずに右往左往して一貫性がなくても良いと思う。
    どの選択が自分の徳を高めてくれるのか。
    どの選択が相手の徳を高めることになるのか。
    答えは出ないので急がずに考えて続けていくことになるのかと思いました。

  • #4

    からす (水曜日, 22 2月 2017 21:14)

    対話の中で寄付と税金についての話が出ていました。
    現在でも寄付は税金の控除の対象となるという話だったと思いますが
    これはなかなか心のゆれる状況を作り出すことになります。
    なにか心の琴線に触れる活動に出会ったとします。
    調べてみると確かに良さそうだと
    しかも税金の控除となるので節税にもなる
    うまくマッチングすることもあります
    しかし控除の対象となる寄付を受け付けている団体は意外と少ない
    控除の対象として問題ないと判断された組織しか受けることができない。
    もちろん対象となっていれば問題ないのですが
    集めたお金をギリギリまで相手に届けたい良心的な団体は
    お金も人員も足りないので組織化できずにいることもある。
    最低限の手数料でお金を集めようとしてカードも使用できず
    自動引き落としもできない団体は控除の対象外となってしまう。
    よく似た体制をもつ私利私欲の団体もあり仕方がないかもしれない。
    良いと思った団体は税金の控除を受けれず
    よく似た活動をしている大きい団体なら税金の控除を受けれる
    どちらを選ぶべきなのか?
    最初に良いと思ったところに寄付すべき?
    しかし認められる実績も組織もない団体に寄付して結果が出るのか?
    大きな組織の方が確実なのではないのか。
    寄付をするつもりでいたのだから税金の控除は別問題なのに
    どうせ寄付するのであれば控除があるに越したことはないとも考えてしまう
    これは浅ましいことなのか?
    限られた予算、不足する情報は更に心を揺らしてしまう。
    そもそもそんなことで迷うのが間違っているのか?
    しかしここで考えないと私利私欲の団体に利することにもなる可能性も高い。
    考えても考えなくても良い方にも悪い方にもなりえる
    答えが出せずに寄付事態をやめてしまう選択もある
    誰かに決めて欲しい、せめて考え方とかヒントが欲しい
    こんなことを考えてしまうのは徳とは縁遠いことなのかな?

  • #5

    Mn3 (土曜日, 25 2月 2017 10:26)

    『ニコマコス倫理学』の第四巻 第一章 p246 の
    『贈与には、相手のためになることをすることと美しいことを為すということが付随するが』⑴
    p248 の『徳に基づくもろもろの行為は美しいものであり、美のためになされる。』⑵
    における《美しいこと》《美しいもの》《美》とはどういう意味だろうか?
    単に、本文中に見受けられる《醜悪》の反対の言葉なのだろうか。
    ⑴は「贈与は、相手のためになることをするという美しいことなのだが」
    ではない。
    あくまでも『相手のためになることをすること』
           と
         『美しいこと』
    は並列されるべきものらしい。
    徳のそなわる気前の良い人は『自分自身のことを顧慮しない』(p249)、つまりその態度は自然なのだろう。
    しかしp246では『[積極的に]美しいことを為すことのほうが、徳にふさわしい』
    とあるように《積極的に》というニュアンスがあることから、
    徳のある人も、努めて、意識的に美しいことを為してるかのようにもとれる。
    美しいことを為すようになるには、努力が要るのだろうか。
    それとも自然に徳が備わり、気がついてみれば美しいことを為していた、という感じになるのだろうか。
    ⑵の《美しいもの》はもろもろの行為の別の表現であり、例えば人を思いやる行為であったりするのだろう。
    ⑴の《美しいこと》と⑵の《美》----(A)は同じニュアンスを感じる。
    あえて言えば(A)は「神を喜ばせるようなこと」とでも言えばいいのだろうか。
    とすれば霊感あらたなる人のほうが、気前が良いということになるのかな。


第13回 テツドク! 

~日常の経験と哲学書の一節を出発点に、対話で考える~

アリストテレス『ニコマコス倫理学』
(第四巻) 人柄の徳
2017年2月17日(金)~18日(土)

<2日連続>

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