第21回 哲学カフェ

合理的とは?

2017年10月14日(土)

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カフェ・サンラファエルさま

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日 時: 2017年10月14日(土) 13:00~15:00

場 所: カフェ・サンラファエル

    (名古屋市西区名駅2-11-8 ファーストビル大樹1階)

     地下鉄「名古屋駅」1番出口より北へ徒歩5分

テーマ: 合理的とは?

進 行: 高橋秀和

参加費: 飲食代実費(440円~)

定 員: 13名

申 込: キャンセル待ち受付中

     staff☆nagotetsu.sakura.ne.jp(☆を@に変換してください。)

定員に達しましたら締め切りますので、なるべく事前にお申し込みください。お申込みがない方も席に余裕がある範囲で先着順でお受けします。お早めにいらしてください。

共 催: カフェフィロ

《ご案内》

  なにかを行おうとする時には時間や労力、お金を有効に利用することを考えたくなり、 本屋の中で書架を眺めてみればハウツー本が大量に並んでいます。 中身を覗いてみれば失敗しない方法が書かれているようです。 では失敗しないことが合理的なのでしょうか? しかし失敗をしないように効率的な方法を追求することで よく判らない事態になってしまうこともあります。 魚を効率良く捕まえる→合理的 たくさん捕りすぎて魚がいなくなってしまった・・・。 子供の頃から成功の連続で大人になった→合理的 挫折経験がなく失敗からの立ち直り方を知らないまま大人になってしまった。 目の前の出来事の合理的な方法を考えることはかんたんなのですが視点を変えると答えは二転三転してしまいます。 今回は合理的について合理的とは思えない哲学カフェで皆様と考えてみたいと思います。

 初めての方も歓迎です。どうぞお気軽にご参加ください。

~記録~

~参加者からのご投稿~

コメント: 11
  • #11

    Mn3 (日曜日, 22 10月 2017 13:00)

    今までに比較しようがない場面として「地球外知的生命体がコンタクトを求めてきたら」というのがあります。
    この時、地球の存亡をかけてどう対処したらいいのか?
    その対処を決めたとして、その合理的根拠はどこから来るのか?
    全くはじめてのケース。
    恐らく地球上の歴史を参考にするしかないでしょう。
    大航海時代、白人が黒人と初めてコンタクトした、その結果。
    科学的に圧倒的に差があると思われる二者の邂逅。
    では進退窮まるのか?
    戦史を紐解くと、ベトナム戦争の例があるではないか?
    まあ「なんで戦争すると決め込んでんだ!」とか「高度に発達した文明なら戦争などしないだろ」
    とかツッコミどころ満載のシュミレーションではありますが。
    神(超高度文明側のこと)の意図は人間ごときに理解することは不可能、との宗教的見解からレシストはできないとする立場もあるでしょう。
    「そのときが実際に来たら考えればいいのでは?仮定の状況が分からなさ過ぎるでしょう」という立場もあるでしょう。
    でも考えておきたいテーマではあります。
    SFの作品の数だけストーリーはあるようですが。
    恐らく地球では遠くない未来、シンギュラリティ(人類の総体の能力をAIなどが超えてしまう)を迎えるでしょう。
    もし異星人が「将棋で勝負しよう」と言ってきたらAIより強い人類は存在しないのですから、地球の命運はAIが握ることになるのでしょう。しかし異星人の側も同じこと。異星のAIvs地球のAI?だが地球のAIに勝機はあるのか?
    そしてシンギュラリティを迎えた未来の地球、AIが地球の運営を任されているのではないかと思ってしまうのですが、あとはイデオロギーの闘いです。
    それまでに人類がどれだけ哲学を発達させることができているか次第でしょう。(なぜだ?)
    AIの究極形にはその成果が込められていると思います。
    あくまで私見ですので(当たり前です)もっと楽しい「ファースト・コンタクト」のストーリーがあるでしょう。
    でも合理的なストーリーとなると余り楽しくないものとならざる負えないのではないでしょうか。

  • #10

    からす (日曜日, 22 10月 2017 09:57)

    合理的かどうかを判断するためには比較が必要
    たったひとつしかないのならば比較対象がないので定義から外れそうです
    人生のように比較が困難なことに当てはめるのは難しそうですが
    使用されていることはありそうです
    学校の試験のように答え合わせができるものは向いていそうですが
    これもどこにスポットを当てるかで意味を替えれてしまう
    良い点数をとることを目標としたとしても
    必要としている点数が100点なのか70点なのか40点なのか
    現状からの労力が多いか少ないかは判断材料にするのか
    比較する集団の平均点や最高点などのどこを対象とするのか
    もっと根本的な定義も多々ありすぎてしまう
    特定の個人が特定の学校に入学するためにはとしてしまうと
    今度は同じ条件で比較することができなくなってしまう
    点数化できれば合理的との相性が良いかと思われますが
    意外と難しいのかもしれません
    効率化とは誰でもできるようにカスタマイズされた工場などで
    多数の人が同じ作業をしてデータとして検証できるなどの
    特殊な環境下に向いているものなのでしょうか?



  • #9

    Mn3 (土曜日, 21 10月 2017 04:32)

    少し前の農村では口減らしのため老人は山へ捨てられたそうだ。
    犠牲になる嬰児も多かったろう。
    これは合理的と言って良いだろうか。
    農産物が劇的に増加しない以上仕方のない措置だった?
    では村を絶やさないというのは何故絶対目的と化していたのか?
    命はとにかく後世に残していかねばならないものなのだろう。
    命とはなんと残酷で不思議なものか。
    最後に山に捨てられるという受難を控えている古の人たちの人生観はどういうものだったのだろうかと思う。
    最後に呆けて老人ホームに捨てられるという現代人と比べてしまう。
    命の問題がもっともシリアスなのは命がもっとも苦しみを生み出すから。
    そのいのちが行う合理的なことは、命を絶やさないというもっとも何の根拠もないことだ。
    非合理の極みとすら思える。
    あらゆる合理的、には背後にこの命というものが持つ非合理が隠れてる。
    そして、仏教の一派では最終的な安寧は解脱にあると喝破している。
    ならば自死も合理的な生き方の一つではなかろうか。
    とにかく生きる、という非合理的なことをベースにあらゆる問題は派生し、合理的な生き方を我々は模索する。
    人生は喜劇をもとに悲劇を演じている。
    我々は観客であるとともに出演者でもある。
    いくら観劇料を払い、いくら出演料をもらえるのか。
    合理的な答えはまだない。
    それは一人ひとりが、一から積み上げていくしかないものだから。
    そして解答ができた頃には、はや鬼籍に入らねばならない。
    不条理としか言いようのない。
    そこには非合理というものはない。
    合理的であろうはずもない。
    あらゆる宗教は、この人間は合理と非合理に引き裂かれている存在である、ということに根ざしている。
    そしてそこに救いがあるかどうかは死んでみなければわからない。
    それは死後の世界があるかどうかなどどいう非合理的な合理的なこととは一切関係はない。
    精一杯合理的に、非合理的に生きようではないか。

  • #8

    からす (金曜日, 20 10月 2017 16:24)

    結婚とは合理的なのか?
    道理に合って無理のないことを合理的とするならば
    たくさんの方々がドロップアウトしていく結婚というシステムは
    合理的ではないと判断できると思う
    しかし合理的な結婚は存在するであろうことが
    この問題を難しいものに変えている気がする
    合理的とは?と考えるときにはこの疑問が付きまとう
    合理的な結婚が成立するのならば結婚は合理的ではないのか?
    自分が結婚したことが合理的であったと判断するためには
    結婚自体が合理的であると信じたくなる
    家の存続のため、経済的に有利だから、お互いの感情の結果など
    合理的な結婚は存在すると思われる
    しかし結婚しなくとも伴侶を見つけて子をなして集団を存続させ
    経済的に有利な状況を作り出すことは可能である
    結婚というシステム自体ルールが定まっておらず
    集団や宗教が変われば定義すら変わってしまう
    定義が変わっても成り立ってしまうシステムは合理的といえるのか?
    それが同じものを指しているならば合理的な気もするが
    はたして同じものなのだろうか・・・

    結婚は合理的なのか?
    合理的な結婚は存在するのか?
    複数の人がパートナー関係を結ぶことを結婚と呼ぶことは合理的なのか?

  • #7

    Mn3 (木曜日, 19 10月 2017 23:50)

    精神には危険な力がある。そう思ったことがない人はいるだろうか?
    今まで勝負事で祈ったら勝った、とかゲンを担いだらうまくいった、とか好きなものを断ったら効果が現れたとか。
    生命というものは物質でできているにも関わらず、どこか物理法則を超越した神秘的な存在だと感じたことはないだろうか?
    だからサイコキネシスというものは、そういった生命の神秘をあらわした思想である、とは言いすぎだろうか?
    精神力には現代科学が手を付けること能わずといったところ、言い換えれば科学が最後に残したフロンティアである部分が存在する。
    いつか科学が精神のダイナミズムを解明出来る日は来るのだろうか?
    科学とは違ったアプローチも可である。
    宮本武蔵の五輪書、世阿弥の風姿花伝、オイゲン・ヘリゲルの日本の弓術、柳生宗矩の兵法家伝書などはそんな例であろうか。
    しかし精神力に過度な期待をしがちであることは戒めなければならない。
    精神力の力だけに頼るようでは負け戦になる、との見方は合理的であろう。
    太平洋戦争下の日本では「日本は神の国だから神風が吹いて必ず勝利する!」とか「大和魂をもってすれば如何なる戦局も打開できる!」といったことが声高に唱えられた。
    そこに少しでも口をはさもうものなら「貴様それでも帝国臣民か!」と問答無用の暴力がおこなわれただろう。
    翻って現代、超常現象とやらに「非合理的!」となす人が多かったのはその反動だろう。それだけ戦前、戦中の暴力がひどかったということだろう。
    だがその為、精神力を科学的にアプローチしようというスタンスがキワモノ扱いされているのは何とも残念なことだ。
    ただ、精神の力に着目するようになったら、それは科学が合理的に行われてきたからなのか、それともまた「そんなたるんだ精神で戦争に勝てるか!」という世界が再び現実になったのか、のどちらかだろう。

  • #6

    からす (木曜日, 19 10月 2017 14:00)

    精神論との違いはなんなのだろうか?
    願えば叶う、やればできるなど
    到達したことへのはしごがないのにポジティブに考えること
    以外にも能力があり、経験も実績もある人の上に立つ人が使いたがる
    便利な言葉でもある
    「黙って俺についてこい」などの使用例がみられる
    しかしこの後には無数のバリエーションがあり
    稀に到着点へのプランを持ち、的確に導く実力者もいるが
    ほとんどの場合には無策であることを隠ぺいするために使用される
    強力なライバルがいなければなんとかなってしまうケースもあるが
    自然消滅など失敗につながるケースも多い
    では合理的に行えば成功へと繋がるのか?
    合理的なプランを組み立てられるのならば可能性は高いが
    残念ながら合理的なプランを立てられる人がいる可能性が低い
    (合理的なプランというものが存在するならば)
    成功したから合理的だったと考えることも可能ではあるが
    運の良し悪しの範疇に収まるケースも多そうです
    実績を元にそれなりに見えるデータを並べれば
    合理的であるかのように見せることは可能であるが
    辻褄が合うかどうかはデータしだいとなり
    信じたいと思っている人にしか成立しない仮説となってしまう
    しかし人間には全ての出来事を把握することは不可能と考えるならば
    プランのない精神論はもっとも合理的に近いのかもしれない

  • #5

    Mn3 (水曜日, 18 10月 2017 22:30)

    超常現象に対する合理的な態度とは?
    ちょっと前の世代では「超常現象?そんな馬鹿な、非科学的にも甚だしい!」とするのが流行だったようだ。
    一方、公害が日本全国で人々を苦しめ、3.11では原発がメルトダウンするというショッキングな経験を経た私たちの世代では科学に盲従できない。だから「現代科学に説明がつかないというだけであって、超常現象というものを頭から否定するのはそれこそ非科学的、非合理主義だ」というのが多数派であろうか。
    では「お前はどうなんだ?」と言われれば私は「楽しめばいい(超常現象を)。ただし騙されないようにね。」といったところか。
    多くの場合、超常現象はそれが超常でもなんでもないと一番よく分かっているものによって報告される。
    つまりトリックを仕掛けたものが超常現象の第一発見者であり第一発明者なのだから。
    では現代科学で説明のつかないことはないのか?と言われれば「無数にあるでしょう」。
    ダークマター、ダークエネルギーをはじめとする宇宙の謎。
    意識を生じさせる元となりうるのかという脳の不思議。
    説明がつかない数々の進化の謎。
    言葉が先か、思考が先かという言語学の大問題。etc......
    ただ現代科学で説明がつかないことは何か?ということを追うよりは超常現象に流される方が努力がいらないぶん容易ではある。
    だから科学が発達すればするほど超常現象ウォッチャーの数を増大化しかねない現実がある。
    超常現象に対する合理的な態度とは?改めて思う。
    超常現象とは少し次元を異にするが、「宇宙人がわれわれにコンタクトをとってきた!」
    とNASAが発表、Natureも記事を載せて大々的に(当たり前だが)センセーショナルを巻き起こす、というのはどうだろう?
    そんなときは来るのか?そのとき合理的な態度とは?
    超常現象については想いを巡らすだけでも、なんか楽しい。
    合理的に楽しむこと、簡単のようで簡単でもないようで、ただ時間だけが過ぎてゆく。
    時間の謎。これが最も私には不思議に思われることのひとつで………

  • #4

    からす (火曜日, 17 10月 2017 10:27)

    合理的という言葉には切り捨てるような冷たい響きがある
    これはなぜなのだろうかと思う
    正しいけれど情に反する状況を合理的と呼んでいるが
    敵を多く作りそうな判断は合理的?
    しかしそんな状況を表す言葉も見当たらないので妥当なことなのか
    たぶん迷信とか風習、仕来り、掟などの古いルールへの
    有効な攻撃手段として使われてきたことが根っこな気もする
    進歩的=正しい=合理的
    古い理不尽なことからの離別を合理的として
    心を引き裂かれるような状況だけでなく多くの血が流されるような
    判断するには心を閉ざすか、閉ざす必要が最初からない人たちにより
    姿を与えられて普及した錦の御旗のような便利な言葉
    互いに譲歩できる妥協案を探すことこそ合理的な気もしますが
    話し合う時間を無駄として相手事切り捨てる
    そんな使われ方は合理的なのだろうか?

  • #3

    からす (月曜日, 16 10月 2017 11:09)

    効率的とは?と考えた時には2つの面がある気がします。
    ポジティブな意味の合理的とネガティブな意味の合理的
    しかし合理的な人としたときにしっくりこない
    もし合理的な人という存在がいたとするならば
    その人を合理的と判断できるのは余程注意深いひとなのだろう
    ほとんどの人には特別には見えない目立たない存在とされると思う
    合理的な判断というものが存在するならば
    目に見える現象になる以前に判断をして行動をしているはずなので
    他の人が判断しなければと認識する頃には対応すべきことは終了しており
    なんら行動する必要もなくなっている筈である
    悪口として合理的なと言われるような事態は合理的とはいえないので
    そんな事態は回避され、むしろ温厚な人柄とされるのではなかろうか
    もしかするとそれすらも回避して誰かを温厚な人にして
    自分は表には現れないようにして認識すらされないかもしれない
    いずれにせよ敵をつくるような行為は合理的とはいえない
    相手との関係など時間が経てばどう変化するか判らないので
    敵とか味方に分けてしまうのは合理的ではない
    もしかするとその人の周りでは争いごとがないのかもしれない
    合理的な人とは程遠い私では想像すらできない存在
    神の視点を持たなければ成り立たない仮説ですが
    存在したならばと考えてみました。

  • #2

    Mn3 (日曜日, 15 10月 2017 20:53)

    試合を一週間後に控えているボクサーが摂るべき、合理的な食事のメニューというものがあるだろう。
    宇宙空間に滞在している宇宙飛行士がとるべき、合理的な食事のメニューというものもあるだろう。
    では、人はボクサーになるべきか、それとも宇宙飛行士を目指すべきか、合理的な目標の定め方は存在するだろうか?
    少し解りにくければ理系と文系に置き換えてみるといい。理系の人に合理的な勉強法、文系の人に合理的な勉強法があるだろう。
    では、あなたは合理的に文系、或いは理系になることを選択しただろうか?
    「理科は見るだけでも嫌で文系の科目の方が好きだったから。」
    なるほど。ではどうして理科は見るのも嫌だったのか?
    「解らないから。」
    どうして解らない?
    「解らないものは解らないとしか言いようがないでしょ。」
    解るまで勉強しようとは何故しなかったの?
    「そんな気になれない。」
    どうして?
    「嫌いなものは嫌いなの。」
    "理科"を"歴史"に置き換えても通じるようなはなしだ。
    たいてい「どうしてなの?」と問い詰めてみると、最後には「なんとなくとしか言いようがない」
    ということが多い。
    自分は合理的に選択したと思っても「どうして?」と問い詰めてみると最終的には「なんとなく」
    となる。
    きょうの昼食のメニュー、きょう着てゆく服、曇り空での傘を持ってくかどうか、等など。
    目標を合理的に定めることがないから、逆に目標に向かって合理的に行動できるのではないか?
    もっと言えば、人間の存在そのものに合理的な意味がないからこそ、目標に向けて合理的に努力する姿は美しいのではないだろうか?

  • #1

    ヤスミン (日曜日, 15 10月 2017 07:03)

    みなさま、昨日はありがとうございました^^
    「合理的」という言葉が「効率的」と混同して使われることが多いのだな、という発見や、みなさまそれぞれの感じるところをお聴きできて、とても楽しかったです。

    ・辞書的な意味では↓
    【合理】・・・その考え(方法)が、論理的に正しいと判断されること。理屈には合っていること。
    また「合理化」となると「(自分の行動を)もっともらしく理由づけすること」ともありました。
    【効率】・・・その事をするのに消費した労力や時間からみた成果の程度。

    ムダを省く=効率的=合理的(正しいこと)

    と認識されているのかも。。。?

    でも、そーとは限らない、ムダの中にも豊かさがあるのでは?ムダのようでも長い目で見たら合理的だったと言えることもあるのでは、というご意見もあったように思います。
    なので、「正しさ」も、観る範囲(時間も含め)によって変わるということを、あらためて感じました。

    個人的には、「多様性」「調和」「自然の理(ことわり)」というキーワードが響きました♪
    自然の「理」に「合う」行動が「正しい」。。。すなわち「合理的」なのではないか?というのが、昨日の私の収穫です^^

    ・・・次回のテーマも素敵ですね!ぜひ参加したいです・笑

[ご説明] 哲学カフェでのやりとりを多くの皆さまと共有する場として開設します。

イベント終了後2週間程度を目安に、参加者の皆さまからのご投稿を募集します。

当日の感想や、後で気づいたことなどを気軽にお寄せください。

参加者同士のさらなる対話の場としてもご活用ください。

[ご注意] 「ホームページ」欄は、ご記入なしで構いません。

「名前」は匿名や変名でも構いません。(後で変更はできませんので、ご注意ください!)

ご投稿はなごテツが発行および許諾した印刷物や電子媒体で複製・転載する場合があります。

あらかじめ、ご了承の上、ご投稿をお願いします。

10月14日(土)の哲学カフェ終了後、ご投稿の受付を開始します。

それまでお待ちください。

第21回 哲学カフェ

合理的とは?

2017年10月14日(土)

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