第23回 哲学カフェ

節目とは?

2017年12月9日(土)

記録ご投稿


投稿受付中のイベント

お申込み受付状況:

事前申込みを締め切りました。キャンセル待ちを締め切りました。

 


カフェ・サンラファエルさまの入り口
カフェ・サンラファエルさま

NEW ■ 第23回 哲学カフェGoogleカレンダーに追加

日 時: 2017年12月9日(土) 13:00~15:00

場 所: カフェ・サンラファエル

    (名古屋市西区名駅2-11-8 ファーストビル大樹1階)

     地下鉄「名古屋駅」1番出口より北へ徒歩5分

テーマ: 節目とは?

進 行: 寺井哲治

参加費: 飲食代実費(440円~)

定 員: 13名

申 込:事前申込みを締め切りました。キャンセル待ちを締め切りました。

共 催: カフェフィロ

《ご案内》

 節目とは  年賀状が話題になる季節になりました。新しい手帳を探している方もいらっしゃるかもしれません。 やはり、元旦には改まった気持ちになりませんか。そして、来年は、平成最後の年になるという話もありますね。 このように、過ぎてゆく時間の中に、繰返す節目があります。  一方、一人ひとりの時の流れには、就職、結婚といった岐路があります。 その時、何を見て、何が見えたでしょうか。今回は、皆様と節目について考えてみたいと思います。  初めての方も歓迎です。どうぞお気軽にご参加ください。

 

~記録~

―開催報告―

なごテツ 第23回 哲学カフェ

《節目とは?》

日時: 2017年12月9日(土) 13:0015:00

会場: カフェ・サンラファエル(名古屋駅東口)

進行役: 荒井豊        

  

 さて、なごテツの今年最後の哲学カフェのテーマは「節目とは?」です。 時期も年末ですので、何かと終わっていく1年に思いを馳せる時期ではないでしょうか。 そういう意味では節目ともいえますね。 普段、あまり意識しない節目。 さて、どんな展開となっていきますでしょうか。 以下に対話の内容を記載します。

 

・節目は竹が伸びる様子、年輪とは違う

・時間軸に意味をもたせると節目ができる。子供の成長。区切り     

・会社を辞める。一つの節目。再構築。

・18歳になると免許が取れる。選挙権がある。能力を平均値でみて節目にしている。

・節間には、成人や結婚というように出来事を一般化する機能がある

・子供の時は親が決めた節目、おとなになると自分で節目を決める

・主体的な決断をすると節目になる

・成人式などの儀式によって意識の転換を行う、社会から認められる

・1つの節目、入社式、迎えるものと迎えられるものでお互いを認めあう

・結婚式、成人式、節目を越えることで義務を意識付けさせられる

・節目とは過去を振り返って使う言葉なのではないか

・社会的に求められる区切り

・節目=過去を振り返っての分岐点

・節目の前と後で何かを変わる時に使う。失恋のように大きく自分が変わるとき

・今度の元号の変更。元号の変更により1つの時代の評価がされる。

・元号は評価する時代の区切り、1つの性格を表す。

・期間に意味を持たせたいので節目をつくる。

・節目は、何か新しいことを始めようと思える。

・人生の節目、分岐点に自分の人生を振り返って未来を考えた。

・節目の前後は何かと考えるもの。

・ちょっと写真のテクニックができるようになったことを節目として使っている。  自分を前に進めるた           めに使っている。

・思い入れがあることが節目に意味を持たせる

・計画的に人生を生きようとする人は節目を作る

・人生ギャンブルで生きるときは節目を意識しない。

・なにも振り返らずにたんたんと生きれたらいい。

・節目は赤ちゃんが歩けるようになることは大きなイベントだが節目とは言わない。

・日々主観的にその日のことを一生懸命やっていると節目がないのでは、客観的になると節目に気付く。 ・終わらせて節目を作るというのはあるのでは。

・結婚、子供が生まれる、親の死で多くの場合は人生が変わる。

・最近は節目を感じなくなってきた。豊になってきて食べるのに困らなくなったから。

・年賀状、1年の節目、社会との繋がりを感じる

・節目にまつわる商業主義を感じる。

 

などなど、実際には体験談も交えて様々なお話が行き交いました。 節目には特定の期間に意味を持たせて区切るという性格があるようです。 2時間があっという間に過ぎて終了。

 

今回は、哲学カフェのあとで忘年会もありましたが、話題は尽きることなく続きました。

 

(作成: なごテツ世話人 荒井豊)


~参加者からのご投稿~

[ご説明] 哲学カフェでのやりとりを多くの皆さまと共有する場として開設します。

イベント終了後2週間程度を目安に、参加者の皆さまからのご投稿を募集します。

当日の感想や、後で気づいたことなどを気軽にお寄せください。

参加者同士のさらなる対話の場としてもご活用ください。

[ご注意] 「ホームページ」欄は、ご記入なしで構いません。

「名前」は匿名や変名でも構いません。(後で変更はできませんので、ご注意ください!)

ご投稿はなごテツが発行および許諾した印刷物や電子媒体で複製・転載する場合があります。

あらかじめ、ご了承の上、ご投稿をお願いします。

コメント: 13 (ディスカッションは終了しました。)
  • #13

    からす (日曜日, 31 12月 2017 23:42)

    1年の締めくくりが近づき
    1月1日はどうやって決めたのだろうかと考えてしまう
    意味があってのことなのだろうけれど
    合理的な意味があってのことなのだろうか?
    暦の基準になる日だけに節目としては申し分ないと思うだけに
    普段は考えることもなく過ごしてしまう
    色々な理由はありそうだけれど
    必要なので決めることになったのかと思う
    節目の存在も無ければ無いで問題はないけれど
    なんとなくあった方が良い気がするから
    そんな理由で良いのではなかろうかと
    あると思うだけで気持ちの置き所になるのだから意味はある
    理論的ではない答えに落ち着いてしまいました

  • #12

    Mn3 (土曜日, 23 12月 2017 00:19)

    春夏秋冬と季節が移りまた再び春が来たら、同じ時間に戻らないのは何故だろう。
    時間が運動と不分離のものと考えられるものならば(事実そう考えて妥当だろう)、地球は太陽の周りを楕円運動し、また同じ地点に戻るのである。
     であれば時間もまた同じ時点にどうして戻らないのだろうか。2017年の冬の次にはどうして2017年の春にならず、2018年の春になってしまうのだろうか。
     それは太陽もまた銀河系の中心の周りを回っているからか。それでも地球は螺旋を描きながら銀河系の中心を回るだけではないか。また地球は同じ地点に戻ってくる。
     だが、その銀河系は宇宙の中心から直線的に離れてゆく。よって地球は螺旋を描きながら、より大きな螺旋を描いてゆくこととなる。地球は二度と同じ地点に戻らないのである。
     これが地球上では時間が螺旋を描きながら進んでゆき、二度と同じ時を刻まない理由なのだろうか。
     宇宙が膨張から収縮に転じるとすると、時間の矢も過去→現在→未来から未来→現在→過去に逆転すると考えられていたから、あながち的外れな考察でもないだろう。
     時間の節目は実在するとも言えるのだろう。見方を変えれば人間が恣意的に作り出したものとも言えるが。円運動と直線運動。中学の理科で習ったが、時間との関わりも教えてくれれば、もう少し興味の湧く授業になったのではなかろうか。

  • #11

    からす (金曜日, 22 12月 2017 11:41)

    人はなぜ区切りを求めるのか?
    引き継がれてきた節目の形態は年齢や季節の変わり目など
    なんらかの区切りに名前を付けたものと思われます
    正月、節分、花見、節句、七夕、冬至等々は毎年の繰り返しの区切り
    七五三や元服、厄年、還暦などは人生の区切り
    境目などない時間にたくさんの区切りが作られている
    それはなぜなのだろうか?
    もちろん答えはそれぞれ個別にあり別々のものかもしれないが
    区切り事態を求めているのではなかろうか?
    あるいは区切りがあることが快適と感じたので追加していったのでないか
    人の生活が採取、狩猟、農業に依存していると季節の区切りが重要で
    季節に関係のないことで給料というお金に依存していると
    イベントとしての花見や七夕などの区切りに需要が増える
    生活に必要のない区切りにもメリットがあるので定着すると考えるならば
    メリットに感じる理由があるはずなのに理由は曖昧になってしまう
    それでも言葉にするとしたら楽しそうだから?
    それとも祝う人を見て羨ましいと感じたから?

  • #10

    Mn3 (木曜日, 21 12月 2017 21:51)

    現代では節目をそれほど素直に喜べない。
    誕生日でさえイノセントに喜べたのは何歳までであっただろうか。
    『九十歳。何がめでたい』という本がベストセラーになる時代。単純に昔に比べ現代は幸福だと誰が言い切れるだろうか?実際どの程度、虐待の事実があるのか正確な統計を待たねば結論を出せないが、人生の最後が老人ホームというのは、行けるだけでも幸福と思わねばならないのだろうか。
     七十を超えた子が九十を超えた親を看る、老老介護。しかもその親は子を自分の子供だという認識がない。惚けたりせずに威厳をそなえたまま、天に召された方が幸せなのではないかという思いもよぎる。
     問わず語りに口走る、「生きているというのは辛いねえ」。昔のように口減らしのために年をとったら山に捨てられるのよりはマシだと我慢するしかないのか。
     将来もし医学が科学が発達し不老不死が実現したら。実は想像を絶する苦しみが待っているのかもしれない。そんな未来の節目とは何になるのだろうか?

  • #9

    からす (木曜日, 21 12月 2017 17:58)

    節目と聞いた時に最初にイメージしたのは七五三でした
    とても華やかなハレの行事なのに悲しい影を感じてしまう
    子供が10歳になるまでは神様からの預かりもので自分たちのではない
    国を問わず時折、目や耳にする話です
    少し前まで、あるいは生まれる場所によっては今でも
    人は幸運でなければ大人になるまで成長することができない
    三年、五年、七年と祈るように数える気持ちは経験のない私には想像ができないけれど
    節目節目を祝いたい気持ちは重く静かに心をさわがす
    人が人のためにつくりあげてきたぬるま湯のような
    快適で便利な都会の生活に浸っていると
    あまりにも触れる機会は少ないが
    いつでも終わりは手の届くところにあり
    将来に想いを馳せて節目として
    心が残ることないように節目をつくる
    その時間があったことを心にとどめることができるように
    せめてこの時を祝ってあげたいと思う気持ちは
    暖かい心地良さを感じるだけに
    失うことへの恐れを際立たせずにはおけない

  • #8

    Mn3 (月曜日, 18 12月 2017 21:33)

    イベント+任意の思惟=節目、と私は考えているので、ただ単にある選手が試合に勝ったというイベントだけでは、節目とはなりえない。
     同様にただ単に伝説の選手の最後の試合が、勝利で飾られて欲しいという願い=任意の思惟だけでは、試合の結果が伴われなければ節目とはなりえない、筈だ。
     が、しかしこの種の思惟は無理矢理イベントを生む。たとえどう素人目に見ても伝説の選手も最後は負けかと思える試合も何故か勝利と判定され見事、イベント+任意の思惟=節目が達成されるのである。
     スポーツの世界ならまだ良い。余りにも尊大な任意の思惟はもはやイベントを必要としない。皇紀2600年という節目、翌年日本は第二次世界大戦へと突入していった。

  • #7

    からす (月曜日, 18 12月 2017 18:49)

    節目とバックボーンの関係は?
    バックボーンは人の生き方・信条などを貫いてゆるがないもの
    ぶれない強さの由来などに使われる言葉だと思うのですが
    身につけるノウハウのひとつが節目なのではないか?
    裾野が広いなどが似た言葉なのかもしれないが
    節目との相性はバックボーンの方がよい気がする
    受験勉強のカリキュラムも近いのかもしれない
    タイムスケジュールを作って順番に必要なことをこなしていけば合格に近づく
    用途などの違いも大きいのですが一番の相違点は
    節目には願い、年長者からの思いが込められているのではないか
    バックボーンが履歴書に胸をはって書けるものだとすれば
    節目はわが子の将来を願って親が用意したもの
    一方的な見方ではあるのですがそんな気がします

  • #6

    からす (日曜日, 17 12月 2017 10:58)

    節目とイベントは同じものなのか?
    似ていて重なるところは多そうですが違うものな気もする
    節分は名称からして節目と考えてよいと思うのですが
    イベントとしては豆まきになる
    もちろん個人的に豆まきが節目だったとすることは可能です
    節目もイベントも個人、家族、集団、民族、文化、マスコミなど
    様々な発信場所から重複したり相反しても作り出すことができるので
    なんでも節目やイベントとすることは可能といえてしまう
    現在と未来いう時間軸で考えれば同じものといえそうです
    しかし過去のとすると意味が違ってくる
    過去のイベントはできごとになるが節目とすると分岐点のイメージも付く
    節目にはあったかもしれない可能性、もし~だったらを含む
    これは竹の枝が節から生えていることから連想されるのでしょうか?
    しかし節分は自分にとって分岐点ではなかったとすることができるので
    節目には複数の意味と使われ方があるといえそうです
    もともとイベントだったものが節目になったのか節目がイベントになったのか
    これは考えても結論が出ないようなので一旦節目にしておこうと思います。

  • #5

    Mn3 (金曜日, 15 12月 2017 00:05)

    節目は空間に属するものなのか、時間に属するものなのか。
    竹の節目は空間を占める。では「アメリカ合衆国はどんな節目でしたか?」という質問。あまり意味をなさない。
     竹の節目は空間を占めるが時間の象徴的存在らしい。「2017年はどんな節目でしたか?」
    「アメリカ~」よりは意味の通る質問だ。もっと言えば「2017年はあなたにとってはどんな節目となりましたか?」これなら無理ない質問になる。
     節目は実体のあるものなのか非実体の何かを指すものなのか。「あなたの学生時代からの卒業はどんな節目となりましたか?」とは。実体を指すのか非実体を指しているのか。学生時代は幅のある時間における生活の様態と考えられるが、卒業は最大でも一日の幅の出来事。慣用的にはもう少し時間の幅を持っている出来事、その象徴が卒業式で実体とも非実体とも考えられる。
     節目とは何らかのイベントなのか。だが「2017年1月14日の12時47分はどんな節目でしたか?」はあまり意味を成さない。
     人の任意の思惟があれば節目となるのか。わかりやすく言えば問おうとする態度。例えば「あなたにとって満足したのはどんな節目でしたか?」これも意味不明だ。
     イベント+任意の思惟=節目、と考えると「リーマンショックはあなたの生活にどんな影響をもたらした節目となりましたか?」一応意味は通じる。「第20回目の哲学カフェはあなたにとってどんな節目となりましたか?」の例の方が、より私の言いたいことを的確に表している。
     また節目はキリのいい何かを表してもいるようだが、それについてはまだ考察不十分。

  • #4

    からす (木曜日, 14 12月 2017 20:32)

    節目はなぜ大切なのか?
    構造としての竹と節の関係はどうなのだろう
    建物や道具の作成に竹は多用されていたと思われるのですが
    筒状で使用する際には節が有るか無いかで強度が違ってくる
    中の節を抜いてしまい横にして足で踏めば簡単に割れてしまうが
    節を抜いていなければ簡単には割れない
    節を造るような経験を積めば簡単にはダメにならない
    そんな由来はありそうなのかな?

  • #3

    からす (水曜日, 13 12月 2017 17:13)

    節目があると成長が速い、あるいは確実なのか?
    速いのではないかと思います
    とりあえずなにかを経験することが節目であると仮説します
    私は写真を撮ることが趣味なのですが
    カメラを通して見ているものを切り取るという視点を意識するようになりました
    この経験は写真を撮るときだけではなく日常生活や仕事にも変化を及ぼします
    日常生活、仕事、写真をそれぞれ節で区切られている状況とするならば
    写真の経験は日常生活、仕事に変化を及ぼします
    変化した日常生活の経験は仕事や写真に変化を及ぼします
    日常生活と仕事しか区切りがない場合に比べて変化を促す要因が増える
    これは節目がなぜ大切なのかの要素になるかと思われますが
    「節目」の使われ方には該当しないのではないかという疑念が残ります

  • #2

    Mn3 (火曜日, 12 12月 2017 23:27)

    個人でも、過去を振り返ったとき、節目になる事実そのものは変えられない。変えられるのは、その節目についての解釈であり意味である。
     そして過去の節目の意味を変えるためには、新たな節目を作りそこから過去を俯瞰するしかない。しかし新たな節目もひとつの事実であり変えることはできないので、さらに新しい節目を作ることによってしかその意味は変えられない。
     こうやって私たちは節目を作り続ける。だがもう新たな節目は作ることができないだろうと悟る時が来るだろう。そのとき社会に目をやり、社会が新たな節目を作り、この自分が生きている時代の意味をどんどん作っていくだろうと希望をもつ。
     社会の、時代の節目はこうして個人の節目を作ることを断念した人々によって、になわれる。なぜ老人が社会、政治の問題に関心があるかの精神構造か。
     ただ、人類最後の一人は、個人としての節目はもちろん人類社会の新たな節目も希望することかなわない。その重圧を全うした人に何が起こるのか私にはわからない。節目ということ自体に新たな意味を付与してゆくのだろうか。それとも私たちには思ってもみない精神構造に進化してしまっているのだろうか。考えられることではあるが。

  • #1

    からす (火曜日, 12 12月 2017 10:38)

    節目とはなんだろう?
    手探りで考えると竹の節が由来なのだろうと思う
    ついでに年輪を重ねると節目が頭の中で混ざっているのに気がつく
    年輪は木の生長の記録で節は竹の骨格?
    共通点としてはどちらもポジティブな意味に使われ、ネガティブな使われ方は少ない
    年輪は積み重ねることで生まれるもので近道などなく、コツコツと積み重ねることでしか得られない境地を称賛する言葉と思われる
    それに対して節目は効率化、ノウハウ集、マニュアルに近い気がする
    年輪が地道な積み重ねなら、節目は効率的な成長方法?
    節目は木と竹の成長速度の違いが由来なのではないかと思う
    木に比べると竹の成長は物凄く速いのでこれは羨ましい
    竹は節で区切られた部分がそれぞれ成長するのに対して木は先端のみ
    何十か所も同時に成長する竹は大きくなるのが速い
    木には竹の節にあたるものがない(ない訳ではないけれど)
    竹は節があるから成長が速い
    速く成長したいのなら節をつくるのが近道
    ダラダラと仕事を続けるよりも区切りをつけた方が効率が良い
    そんな経験と合わさってつくられた言葉なのではないかと推測してみました