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カフェ・サンラファエルさま

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日 時: 2018年4月14日(土) 13:00~15:00

場 所: カフェ・サンラファエル

    (名古屋市西区名駅2-11-8 ファーストビル大樹1階)

     地下鉄「名古屋駅」1番出口より北へ徒歩5分

テーマ: 比べるとは?

進 行: 高橋秀和

参加費: 飲食代実費(440円~)

定 員: 13名

申 込: 定員につき受付終了

     staff☆nagotetsu.sakura.ne.jp(☆を@に変換してください。)

       ※定員に達しました。キャンセル待ちを受付中です。 ←キャンセル待ちを終了いたしました。

※先着順で当日参加を若干名お受けいたします。 

  

《ご案内》

 普段、目が覚めた時に「後10分寝させて!」あるいは

スッキリ目覚めたなどと感じる経験を普段されている方は多いとおもいます。

その際にいつもに比べて今日の目覚めはと比較されていないでしょうか?

目覚めた後も一日中、なにかと比べながら過ごしている気がします。

今回は改めて「比べる」について考えてみませんか?

初めての方も歓迎です。どうぞお気軽にご参加ください。

 

―開催報告―

なごテツ 第27回 哲学カフェ

《比べるとは?》

日時: 2018年4月14日(土) 13:0015:00

会場: カフェ・サンラファエル(名古屋駅東口)

進行役: 高橋秀和      

 

第27回哲学カフェ 比べるとは?

 

今日の哲学カフェのテーマは「比べるとは?」です。

何気なく過ぎる毎日のなかで、私達はいつも比べています。

実は、今回はいつもより参加人数が若干多め、参加者の構成も

初参加の方が1/3くらい。

どんな展開になるのやら、などと考える事が既に比べていますね。

それでは以下に参加者から挙げられた意見を並べていきます。

 

・よりよく上達したいという気持ちから比較する。

・例えばこの壁が白いというが認識できるのは他と色を比べているから。

・自分の立ち位置の確認が、比較によってできる。そのためのよりどころ。

・比べる事の背後にそのことに対する価値判断が行われている。

・生物が生きるための根源的な力。この環境が自分にとって快適か、餌が多くあるところ

 か?など

・坂道をボールが落ちていくときは高低や凸凹を比べて落ちていくと言えるのではないか。

・坂道を転がるとか、水が低い方に流れるなどは比べているのではなく

 「法則性」なのでは?

・比較するという行為は「生物」に限られるのではないか。

・選ぶために比較する。人によって基準が違う。

・比較することは高等な精神作用。

・比べた後に「どうするか?」という意志をもつことが重要。

・ミスコンや書道展の基準は明確にできない。基準がないのに選んでいる不思議。

・大多数が良いとする方を基準にしているのか?

・芸術・美術等は大多数ではなく、むしろ選ばれた人がもつ基準によって

 「良いかどうか」選ばれるのではないか。

・「モノ」と「精神」では違う?(同じ、という意見も)

・精神の働きも細かくしていくと、脳という物質の情報処理の結果に過ぎない。

 単純な選択の積み重ねなのでは?

・人の選択の仕方には、不確定な要素(好み等)が入るものと、入らないものがある。

・「比べる」は、人が創った言葉。意志をもった言葉。

・「比較」は人間固有の能力。

・比較は基準がないとできない。客観的な基準(どちらが多い等)と、主観的な基準

 (どちらが良い)があり、主観的な基準に絶対性はない。

・人間の意思は脳が行っている。脳は物質である。だから物質が法則によっているように。

 法則によって比較している。

・人の精神活動というものは物質の法則とは別の次元で行われているのではないか。

・生物は欲求で動いている。人間には理性があり、選択で動いている。

・脳の働きはまだよくわかっていない。そもそもなぜ意識をもつのかも判明していいない。

・恋人、結婚相手、友人、それぞれ選ぶ基準はちがう。

・比べることで選択しているが、その選択は自分の経験からより好ましいと感じるものを

 直観で選択している。

・情緒的な部分は科学ではわりきれない。

・脳だけでなく「からだ」の感じで比較していることもある。

・体の全体性(脳も含めて)の物質が決めている。(昨今解明されてきた、臓器が

 お互いにメッセージ物質を出してやり取りをしている。)

・比べる時に表面に現れていない隠れた目的もあって、その優先順位によって比べている。

・これまでの選択基準が影響していることもある。好ききらいにも影響する(判断基準)

・何かをよく知ろうとすれば「比べる」必要がある。

・医者は、患者の状態を正常値と比較する。患者を扱いやすい、扱いにくいなどと

 比較している。

・人間だけが高度な選択ができる。

・社会全体がつながっていて、社会の構造から選択できることが決められている?

・周りとの関わり合い(相互作用)で選んでいる。

・他のものと比べるから、そこに何かが「ある」とわかる。

・尺度を測る「人間」がいなければ、比較できない。

・一般的に低血圧と言われる人でも本人はいたって健康。客観的データが正しいとは

 限らない。

・2つの分野が成熟すると、比較しあって新しく発展することがある。

・新しいアイデアは既存のアイデアの新しい組み合わせ。

・比較は「同一なもの(基準)」があるからできること。※ビッグバンは唯一無二だから

 比較できない。

・比べないということも良いのではないか。それは意識しないことや関心をもたないこと

 でもある。

・「愛する」とは、相手との違いを繊細に知っていくこと。

・敵意をもって比較する時と、「いいね」と面白がって比べる時がある。

・競うことの中で、なにを感じればいいのか。

・日本人は比較しすぎ。天才は比較しない。比較ばかりしていると新しい突出したものは

 生まれない。

・比べるという意識はしても、それを無視することはできる。

・比べても仕方がないことは比べない。善意による誤解(良い方に受け取る)

・比較するのは「枠組み」を知るため。

・黒と白の間には幅広い「グレー」がある。

・比較はしても「中道」が大事では。

・極端なことは比較できない。生と死とか。

・比較して、違いをみつけて、枠組みを決めて、理解を深めれば、新しい見方や発見が

 ある。

 

といった発言が活発に交わされました。

 

参加者の皆様、ご苦労さまでした。

 

(作成: なごテツ世話人 荒井豊)

[ご説明] 哲学カフェでのやりとりを多くの皆さまと共有する場として開設します。

イベント終了後2週間程度を目安に、参加者の皆さまからのご投稿を募集します。

当日の感想や、後で気づいたことなどを気軽にお寄せください。

参加者同士のさらなる対話の場としてもご活用ください。

[ご注意] 「ホームページ」欄は、ご記入なしで構いません。

「名前」は匿名や変名でも構いません。(後で変更はできませんので、ご注意ください!)

ご投稿はなごテツが発行および許諾した印刷物や電子媒体で複製・転載する場合があります。

あらかじめ、ご了承の上、ご投稿をお願いします。

~参加者からのご投稿~

コメント: 5 (ディスカッションは終了しました。)
  • #5

    Mn3 (月曜日, 23 4月 2018 21:07)

    「人間は万物の尺度である」という言葉がある
    比べる主体が人間なら
    比べられる客体としての基準も人間らしい
    現代ではお金がなんでも基準になるのでは?と思うかもしれない
    しかしお金は人間が自然や社会に働きかけ、産んだ価値に等しい
    畢竟お金が基準とは、やはり人間が基準なのだ
    「比べる」という漢字は右向きの人をふたり並べた形だそうだ
    そこからもともとの意味は「一部の人としたしむ」だという
    人間が一番初めに比べたこと、それはやはり人間同士なのだろうし
    それ以上に興味をそそられるものもない、ということか
    物質文明全開のような現代だが
    人間以上におもしろいものはないのは
    原始時代から変わらぬ真理ではないだろうか
    ひととあまり比べてばかりいると不幸になる
    とはよく言ったものだが
    たかが比較、されど比較
    翻訳、というのも
    じぶんのクニの言葉とあいてのクニのことばを比べて
    おもしろがったもの、
    比べる、ということは原初レクリエーションだったのだろう
    文字を持つと比べることがより複雑にできるようになる
    日記に書かれた当時のじぶんの気持ちを
    現在の自分が比較して興じるのも一興
    文字を持つことによって人間はより論理的に分析的になった
    それは文字を使った
    比較
    ここの部分ではこう考えたが、あそこの部分ではこう考えている
    比較してどちらの考えに、より整合性があるか
    自分だけで決められる
    ひとと共同で行えばもっと強力になる
    それが「図書館」の意味だったのだろうし
    いまもそうであらねばならない

  • #4

    からす (日曜日, 22 4月 2018 21:17)

    比べるとはどういうことなのだろう?
    AとBを比較する、少し意味は違いそうだが言い換えただけ
    AとBの違いを探す、訳でもない
    少し言葉を足してAとBの重さを比べる
    AとBの重さの軽重の度合い
    意味は判るけれど肝心な比べるを説明できてないのでスッキリしない
    まず他のなにかと比べることで輪郭を確認する方法は
    比べるを考えたい時には使用できない
    わたしの語彙では説明できそうもないようです。

  • #3

    ヤスミン (木曜日, 19 4月 2018 16:14)

    当日、みなさまのお話をうかがっていて、「比較」することを自分の進化や良い変化のために使いたいなぁ、と思いました。
    「比較する」ということ自体を、あまり良いものとは思っていなかったのは、「隣の芝は青い」的な、不満を生み出したり、自分を落ち込ませることになる場合が多いから。
    どなたかがおっしゃったように、成熟した分野同士を比較して、さらに発展させるようなことは、個人でもできることのような気がします。
    自分の学びや経験を、似たようなことをしている他者と比較して、そちらの方が素晴らしく感じたとしたら、そこで「自分はだめだな」と思って終わりにせず、「私のしていることも、あそこまで洗練させられる可能性がある」と考えて、未来へのわくわくにつなげたいです。

    ・・・個人的には、ミニマリスト化を図っているので、「今日はなにを着よう」的な比較と選択に、それほどエネルギーを使わずに済むのはラクちんです・笑

  • #2

    Mn3 (水曜日, 18 4月 2018 21:30)

    比較、選択してゆくことは必ずしも楽しいこととは限らない
    自分の責任で自分の未来が決まってしまう
    一生が選択の連続だとしたら
    すべて私たちの不満は私たち自身に帰する
    あなたがお金に不自由なのは
    あなたがどの株を買い、売るのかに不断の努力を惜しんだからだ
    ネットショッピングで「もっと安くてもっと良いものがあるかも知れない」という強迫観念から逃れるのは至難のわざだ
    自分の年齢ではもう可能性などない、と心底自分の人生に断念するのも難しい
    確かに選択はやめられないが
    四六時中、選択をすることを強いられるのは誰にとっても苦痛のはず
    サルトルの言葉「人間は自由の刑に処されている」を持ち出すまでもない
    唐突かもしれないが、神に救いを見出すのはそんなに不合理なことだろうか?
    時代が封建時代に戻ったり、全体主義に支配されるよりは良くないか?
    いつなんどきも選択を!の強迫観念よりは
    いつなんどきも神はあなたを見守っているという安らぎを
    ただキリスト教全盛の中世は暗黒の時代とも言われたことは忘れられない
    ただ人はいつなんどきも幸福になろうとし
    結果、暗黒時代にもなったし全体主義が支配したりもした
    ただ幸せになろうとしただけなのに
    そして現在、私たちは自由の刑に苦しんでいる
    資本主義世界が自由主義世界とも言われるのには
    こんな苦しみの世界をうまく言い換えてもいるわけだ

  • #1

    からす (水曜日, 18 4月 2018 11:21)

    比べるとは?
    人はは比べることから逃れることのできない生物と思われるが
    なぜ比べてしまうのでしょうか?
    要因のひとつが不安ではないかと思います
    自分の思考のパターンを考えてみると
    比べる必要がない時には不安もない
    ・非常に楽しみなことがあって選択肢がそれ1択の場合
     逆に不安で仕方ない時には無限に選択肢が湧き出てくる
    ・恋愛初期など他の選択肢が思い浮かぶことすらない場合
     時間が経つと様々な選択肢と対面することとなる
    ・選択肢がない、あるいは不要と思いこまされている場合
     使命感や責任感、正義感、洗脳など
    比べる必要がない時というのはある種の幸福感が伴うのでは?
    などと考えながら思考を進めてみます
    これらは幸福感を失うかもしれないと感じた瞬間に
    恐怖ともいえる不安感に囚われてしまうことも共通するかもしれません
    また、選択しなくてもよい状況は自由がない状態でありながら以外と快適であり
    考えて選択しなければいけない状況に比べて
    精神的にも楽であることも大事な要素かもしれません。
    比べること要因が不安だとすると
    いつも比べてしまうひとの思考のデフォルトが不安なのか?
    そんな気もしますが現実とは合わない気もします。