カフェ・サンラファエルさまの入り口
カフェ・サンラファエルさま

 ■ 第32回 哲学カフェ←Googleカレンダーに追加

日 時: 2018年9月8日(土) 13:00~15:00

場 所: カフェ・サンラファエル

    (名古屋市西区名駅2-11-8 ファーストビル大樹1階)

     地下鉄「名古屋駅」1番出口より北へ徒歩5分

テーマ: 普通とは

進 行: 寺井哲治

参加費: 飲食代実費(440円~)

定 員: 13名

申 込: 事前申込みを終了しました、キャンセル待ちを若干受付中です。

     staff☆nagotetsu.sakura.ne.jp(☆を@に変換してください。)

定員に達しましたら締め切りますので、なるべく事前にお申し込みください。

お申込みがない方も席に余裕がある範囲で先着順でお受けします。お早めにいらしてください。

 

《ご案内》

 昨日はどんな一日でしたか? 大切な人と、特別な時間は過ごせたでしょうか。

職場の人に普通じゃないと思われたくないのに、

またやってしまったと反省することがあったかもしれませんね。

いろんな時、普通という言葉を基準に考えることがあるような気がします。

どんな普通と比較していることが多いでしょう。

「こうあるべき」という思い込みから離れて、普通について、共有してみたいと思います。

当日が皆さんにとって、心に残る日になるように。

初めての方も歓迎です、どうぞお気軽にご参加ください。

 

―開催報告―

なごテツ 第32回 哲学カフェ

《普通とは》

日時: 2018年9月8日(土) 13:0015:00

会場: カフェ・サンラファエル(名古屋駅東口)

進行役: 寺井哲治

 

以下に発言内容の一部を紹介します。

 

 いつのまにか8月が終わり、少し秋の気配を感じるこの頃。

今日も、哲学カフェに多くの参加者が集まってくれました。

テーマは「普通とは」 どうもこのテーマはちょっとしたこだわりがあったとのこと。

さて、どのように展開していくことやら。

以下にその対話の一部をご紹介しましょう。

 

・上中下の「中」じゃなくて、丁度良い範囲を示す表現

・自分と社会、自分とAさんといった、集団のなかでの状況を「他者の目」から見るようなもの。

・つまらないものでもある一方「普通」という時には評価者として自分を上位に置いている。

・自分が思う「世間」の平均値が普通。

 ただ、その「世間」はすでに過去だから、今の「普通」とは違うかも知れない。

・特に目立ちたくない、面倒くさく無い状態でいたいときにとりあえず「普通」と言う。

・地震や大雨のような普通でない状況を経験すると、普通であることって得難いと思える。

・「普通」は定義があいまいなので使う人が多い。多数派を味方につけたくて使っているのではないか

・とりあえずのフォーマットみたいな意味がある。

 同じフォーマットに則っているとお互いに交換可能、 普通同士だと交換できる。

・普通であることは「前提」。まず人を「普通の人」として考えて、その後で「+」「-」つけて認識してる。

・けなす意味でネガティヴに使う時と、素晴らしいこととしてポジティヴに使う時がある。

・外からの同調圧力に対して、普通と言えばとりあえずよい。

・普通と常識って違うのか?

・普通だねと言うように、低くみるという意味がある。平均より下が「普通」って思われてる?

・普通にしろって言われると苦痛。

・時代によっても「普通」は変わる。

・外から言われるとネガティヴに捉えるが、自分から使う時はポジティヴに使う。

・同じ状態でも厳しい環境の中だと普通は「素晴らしい」ことだが、いつもは「つまらない」こと。

・アメリカ人には「普通」という基準がない?「ふつう」はカッコわるい。

・個性的であろうとするのがアメリカ人の「普通」では?

・普通、っていう時、安心感もある。仲間がいるみたいな「一緒」っていう感じ。

・普通=平和

・集団ごとに普通がある。その集団でしか通じない「普通」がある。

・最初は非凡でも時間とともに平凡になって、普通になる。

・波乱の人生をおくってきた人が「普通の人生がいい」と言ったら、聞いていている者はしみじみとする。

 子どもが言うと夢がないと感じる。

・普通は説明しなくてもいいので心地よい。

・普通は、憧れでもあり、嫌悪感を抱くものでもある。

・「普通」は恐怖から生まれる?安心感とつながっている気がする。

・コミュニケーションをとる時に基準が必要。カフェでコーヒーといえば「普通のコーヒー」だろう、とか。

・普通とは、最低基準(最低条件)を満たしている状態。過不足なくシンプル。

 まず「普通」があって、それを彩るように「個性」がある。

・実は普通であることはとても大変。仕事に行くだけでも、電車が動いていることや自分が健康であること等が必要。

 

以上、 対話は盛り上がっていきましたが、時間が来てしまいました。

普通は普通ではないということが分かった2時間となりました。

 

(作成: なごテツ世話人 水野生惠、荒井豊)

コメント: 6
  • #6

    からす (土曜日, 29 9月 2018 15:20)

    他所の哲学カフェでの発言の内容なのですが
    法律違反をしている会社の内部告発は正しいことなのか?
    問題ないような気がしていましたが普通という言葉を考えると
    内部告発をすることは普通のことであって正しいではない気がしてきました
    悪いことをしている相手に相対するのだから正しいこと
    そうなのかな?
    普通の行為であるべきなのではないか

    哲学カフェに参加して認識が変わっていることを実感する出来事でした

  • #5

    高級おしるこ (日曜日, 23 9月 2018 21:00)

    生きていると、何気なく使っている「普通」という言葉。
    簡単な日常会話で使う分には、別段気にならない言葉かもしれないが、
    いざそれについて込み入った会話をするとすぐ混乱してしまう。
    どうして混乱するのだろうか。
    私は、「普通」という言葉が持っている使用方法を混同してしまうことが、
    原因だと考えている。
    どういうことか。

    「普通」の使用方法は、それが使われる文脈や使う人の背景によって3つに大別できるのではないだろうか。

    まず、「①安定状態・継続的な状態を表す普通」。
    これは、「あの地震が起きるまでは、『普通』の生活がどれだけ恵まれていたかわからなかった」というような使われ方をする。
    次に、「②多数派を表す普通」。
    これは、「この年になったら、『普通』は仕事して、自立してるんじゃない?」というような使われ方をする。
    最後に、「③(理想の)程度を表す普通」。
    これは、「私はクレヨンし〇ちゃんの野原家みたいな『普通』の家庭を築きたいなぁ」というような使われ方をする。

    以上3つの使用方法が「普通」には存在し、
    例えば会話している2者間で使用方法の混同が起きると
    混乱が生じてしまうのだ。

    従って、混乱を避けるためには、
    常に自分が使った「普通」という言葉がどの使用方法に
    則っているのか明言しなければならないだろう。

    しかし、そんなことを毎回毎回やっていては、
    周りの人から「めんどくさい人ね」とげんなりされるのが関の山だ。
    やはり、ここは『普通』の人が考える、『普通』な場合の、
    『普通』の使われ方を『普通』に理解するよう努めなければならないのかもしれない。

  • #4

    からす (日曜日, 23 9月 2018 17:44)

    牛丼の並とは普通なのか?
    普通の牛丼を下さいと注文すると少し微妙だが
    普通盛り下さいなら通じるかと思います
    この場合には並を普通と置き換えてもそれほど問題は無いかと思われますので
    普通サイズの牛丼は社会的に認められると思われます
    (普通の牛丼はどれが普通の牛丼なのか異論が出るのでしょうか)
    普通サイズの牛丼があるとするならば
    それはどういう存在なのでしょうか?
    注文すれば手にすることができ、実態がある物
    重さもそれなりの精度で決まっていると思われます
    それは普通サイズの牛丼といえるのでしょうか?
    それとも社会で認められている普通サイズの牛丼のイメージこそが
    普通サイズの牛丼なのでしょうか?
    重さは普通のキーワードになりそうなのですが
    お店がどんなお客をターゲットにしているのかで差が出そうです
    肉体労働をしている人を対象とした場合と女性対象のお店
    普通盛りの重さが2倍程度違う可能性もあります
    しかしそれぞれのお店で普通サイズが存在しても問題はなく
    お店によって普通盛りのサイズは違うのが当たり前かと思われます
    では普通盛りの牛丼とは現実には存在しないものなのか?
    だが、大手チューン店で出てくる普通盛り、並盛を否定するのは難しい
    お店でこれは普通盛りではないと論破するのは困難でしょう
    しかもお店が変わればそれぞれに普通サイズがあり、成り立ってしまう
    やはり普通盛りとは実体のないイメージなのでしょうか?

  • #3

    ヤスミン (月曜日, 17 9月 2018 16:21)

    「ふつうにしてるだけですよ?」と、偉大な人が言う時、その通りなんだろうなと思います。
    人から見たらスゴイのだけれど、本人にとってはあたりまえのことで。
    自分自身に集中して生きている人は、自分のことを「普通」だと言う。
    人と比べていないから。
    それ以外の在り方に興味がないから・笑

    ちなみに「偉大な人」というのは名もない庶民の中にこそたくさんいると思います。

    ・・・先日亡くなられた樹木希林さんは庶民ではないけれど、「普通」でない世界の中で「普通」で在り続けた偉大な人だなぁと感じます。

  • #2

    からす (月曜日, 17 9月 2018 10:59)

    良い文章とは普通なのか?
    天才たちの書く文章は普通ではないのかもしれないけれど
    市井の人の書く心に届く文章は普通なのだと思う
    普通であるから人に共感を与えることができ
    良い文章と言われるのではなかろうか

  • #1

    Mn3 (月曜日, 17 9月 2018 08:08)

    人は皆、自分がどう思われているかを気にする。
    人がどう評価しようが、自分は自分なのだが
    一度気にしだすと
    病的に気になり出す。
    そして世間の評価が、自分の気分を支配する
    毎日を支配し出す。
    未来も支配する。
    ヒトは社会性動物だから、他の人の評価はイヤでも気になる。
    その本能はそのままでも、
    住宅事情、SNSなどのテクノロジー、サラリーマンの社畜化、など
    が昔に比べ大変化を遂げ、
    現代は、より他人の評価を気にせずにはいられない。
    そんな中で安心をもたらすものの一つが
    最大派閥「普通」グループに入れてもらうことだ。
    そこからもれても
    第二派閥「個性的」グループに属すことで
    安心立命なら、それはそれで良い。
    しかしどの派閥にも属さない
    「自分は自分だっ!」の
    境地に達するのは困難だが
    理想だ。
    繰り返すが
    ヒトの本能、現代の社会事情のため
    それはますます困難であり
    却って理想である。
    しかし今日も自分は最大派閥に入れてもらうことに
    気を遣い
    「いや、自分は自分なんだっ!」
    「なんでこんなに普通グループに入れてもらうために
    エネルギーを消耗しなければならんのだ!!」
    と小さく悪態をついてみる。
    他人からの評価=自分の評価
    という馬鹿げた事態を
    どう脱するか?
    どう考えても
    最大派閥に入れてもらうのに
    こんなにもエネルギーを
    割くのは
    不合理だと
    わかってはいる。
    世間で評価されていても
    自分は大嫌いなもの、ことが
    あるだろう。
    そういうものを
    好きになるの為に
    自分のお金、時間、労力を
    費やすことを人生の
    目的とするとすれば
    それがどんなに嫌悪感を
    感じさせることかを再認識する。
    怒りさえ感じる。
    「普通」は神さま
    それとも「悪魔」?
    或いは
    ………