カフェ・サンラファエルさまの入り口
カフェ・サンラファエルさま

 ■ 第34回 哲学カフェ←Googleカレンダーに追加

日 時: 2018年11月10日(土) 13:00~15:00

場 所: カフェ・サンラファエル

    (名古屋市西区名駅2-11-8 ファーストビル大樹1階)

     地下鉄「名古屋駅」1番出口より北へ徒歩5分

テーマ: 共感とは

進 行: 羽根田治

参加費: 飲食代実費(440円~)

定 員: 13名

申 込: 10月26日(金)夜からメールにて受付開始。

     staff☆nagotetsu.sakura.ne.jp(☆を@に変換してください。)

定員に達しましたら締め切りますので、なるべく事前にお申し込みください。

お申込みがない方も席に余裕がある範囲で先着順でお受けします。お早めにいらしてください。

 

《ご案内》

  最近、なにか共感したことはありますか?
たわいもない会話の中で相手と喜びを共にしたり、
メディアから流れる映像や言葉に涙する事もあります。
それらは自分の体験ではないのに、まるで自分のことのように感じたりします。
また、時として共感は社会に大きな影響を与える事もあります。
それらは私たちに何を与え、何が起きるのでしょうか?
哲学カフェでは共感をすることもひとつの楽しみだと思います。
改めて、共感について考えてみませんか?

初めての方も歓迎です、どうぞお気軽にご参加ください。

 


―開催報告―

なごテツ 第34回 哲学カフェ

《共感とは》

日時: 2018年11月10日(土) 13:0015:00

会場: カフェ・サンラファエル(名古屋駅東口)

進行役: 羽根田修

 

 

  今回のテーマは「共感とは」です。

最近、共感したことはありましたか?

そんな質問が聞こえてきそうですが、いかがでしょうか。

何気なく使ってしまいそうな共感ということについて哲学してみようと

今日も多くの人たちが集まってくれました。

さて、どんな発言が飛び出してきたのでしょうか。

その一部を以下に紹介いたします。 

 

・最近よく耳にするようになった気がすることば。

 「同情」は逆にあまり使われなくなったのでは?

・お互いフラットな感じを現しているコトバ、同情は人を下に見ている感じがする。

・深く相手の意見に同意する時に使うものと思っていたが、 

 「おいしいねー」くらいのことも軽い感じかも。

・自分ではコトバにできない感覚を他者が言語化してくれた時に同感する気持ち。

・「わかる~」というコトバは、理解も含んでいるときに使う。気持ちも意味も両方わかる時。

・受け手が「正」の基準をもっている時はプラスに感じるが、 

 受け手が「負」の基準を持っている時はマイナスに感じるので同調できない。

・このコトバは受け手の感覚で使われるが、発信者は共感してほしくて発信しているとは限らない。

・「共に感じる」こと、「理解」とはちがう。

 「受け止めてもらえた時」と「話し手が話している時に、 

 『あ!それ言いたかった!』みたいな感覚と2つがある。

・おなじレベルの人との間に使うことば。自分がスゴイと思っている人に対しては使いにくい。

・受け手が持っているオリジナリティが、発信側より強い力がある場合、

 発信側のオリジナリティを奪ってしまって変わってしまうことがある。

 だから自分は安易に共感したくないし、されたくない。

・他者と感覚を共有できると、うれしいという喜びの感覚がある。

 コトバにして分かってもらえるとうれしいと思う。 

 でも実はわかってくれていなかったという事はもある。

・他者をわかろうとし続けて努力する行為。

 でも実は絶対にわからないものだから、果てしない努力でもある。

・コトバにしてくれた時点で、他の人に説明しやすくなり共感の輪が広がっていく。

 宗教家などはそれをうまく使っている。

・共感していることを伝えるために面白くないジョークに笑うこともあるし、 

 同調できない相手に対しては、ジョーク自体がおもしろいくても笑わない。

・コミュニケーション手段として利用している時もある。「わかるー」みたいな軽い感じで。

・浅いものから深いものまである。「映画が好き」のような浅イレベルから、

 マニアと言われる深いレベルまでだんだんと気持ちはエスカレートしていくが、

 話が深まっていくと共感しきれなくなることがある。

・少し違和感はあるけどそうしておこうみたいな感じで使うことがあるので、

 そのこと自体の悲しさもある。

・人とのつながりの基本的因子。承認を得るためのもの、仲間づくりをするために必要。

 自分の安全を確保したいという本能的に行う部分が大きい。

・皆が分かってくれるという前提があって、「このケーキおいしいね」という言葉になったりする。

・受動的なものと能動的なものがある。

・その人の身になって感じることではないだろうか。

 その人と同一視的といったような軽いものではない。軽いものは感情の伝播でしかない。

・善意の誤解ではないか。

 自分にとって都合のよい誤解。(善意の誤解によって結婚し、真実を理解することによって離婚する?)

・このコトバが使われ出したのはSNSが広まってからだと思う。だからか言葉がふわふわしている。

・自分がどうしても譲れないこと以外なら共感したい。

 自分の考えとは違ってもいても、相手の環境を想像できると可能。

・理屈っぽい人には難しい。

・能動的努力によって可能になる。

・価値観が重なる時(同じ次元で話ができる時)に芽生えるもの?

・上から下が同情、下から上が理解、フラットなのが共感。

・笑顔は共感のサイン?

・「力の流れ?」のこと。小さいイワシのような魚が集まって一つの流れを作り、

 集まって強くなるイメージ。だが、ある意味でこの言葉の怖さを表してもいる。

・人の気持ちは副次的なもの?勢いが強いと盛り上がり、勢いが弱い盛り下がる。

・愛とはどう関係してる? 愛も一つの流れ。「共感のないところに愛は生まれるのか?」

・言葉以前に存在するもの。人以外でも可能?

・広い視野を持ちつつ、ただその人のとなりに居ることであったりもする。

・ロヒンジャ問題など、SNSでの憎悪の共感がキッカケ。ネガティヴなものも存在する。

・個人個人が別々の生活をしているから、共感という言葉が生まれてきたのかも

 

今回はとても盛り上がったためまだまだ話は続きそうでしたが、

残念ながら時間となりました。  

 

 

(作成: なごテツ世話人 水野生惠、荒井豊)

コメント: 2
  • #2

    0 (日曜日, 03 2月 2019 16:17)

    「共感」と「カン違い」について。

    たとえば、
    数列A(2,4,6...)
    数列B(2,4,6...)
    数列C(2,4,6...)
    はお互いに共感できます。が、

    6のあとに
    Aには(8,10,12,...)
    Bには(9,11,2,...)
    Cには(512,512.5,1058477,...)と続くと、お互いがわからなくなってくる。

    Aは偶数
    Bは「31日」のない月(2月,4月...)
    Cは単純に前の数より大きな数を並べただけ

    オマケに
    D(2,4,6,-5,A,*,!...)

    とかも加わったりすると混乱は深まります。
    Dには何の法則もなかったりします。数列でさえなかったりもします。

    ヒトには個々の一致した数(2,4,6)にとどまらずに、背後の法則みたいなものまで共有していると錯覚してしまう(しまいたがる)傾向があるように思えます。
    それらが「共感」と「カン違い」のサカイ目をボカシてほとんど同じモノに見せてしまう。

    (2,4,6)の時点で得た共感はその時点ではホントなのかウソなのか?

    あ、でも数列Cは数列Aの偶数性に気がつかなければ、(Aも単純に前の数より大きな数を並べただけと思えば)単純に共感を楽しめそうです。

  • #1

    Mn3 (土曜日, 05 1月 2019 14:24)

    自分の書いた文章は自己の一部だと言えるのだろうか?
    自分の手を離れた瞬間
    それは他者、という自己とは差異化のなされたものに陥るのではなかろうか。
    爪は自己の一部だとしても
    爪切りで切り取られた爪は
    もはや自己とは言えぬように。
    だから一ヶ月前に書かれた日記
    一年前に書かれた日記を読み返すとき
    とんでもない恥ずかしさを覚えるのはよくあることだ。
    あれは自分が変わったからだけでなく
    他者(文章)がいろんな意味を帯びてくることも一因。
    逆に過去の日記を読み返し
    「我が意を得たり」
    と悦にいることもあるかも知れない。
    それはエクリチュールに共感しているとは言えないだろうか?
    エクリチュールはテクスト化する運命を
    持ち合わせているのだから。
    音楽とか文章には自律性があり
    その新たなる他者に
    共感するのではないか。
    自分が勝手に演奏した音楽
    フュージョンなどに、そのことが顕著なように感じられる。
    自己完結する誘惑に抗して
    自己由来でない他者に
    共感することができるのは
    人間にしかできないことであり
    また、そうすべきである。
    共感するとは他者の中に自分を見出すことなのか
    自分の中に他者を引き入れることなのか
    或いは
    自己完結なのか。
    自己も他者も、あらゆる全ては
    自分に映じた以上のものではないのだから。