カフェ・サンラファエルさまの入り口
カフェ・サンラファエルさま

 ■ 第36回 哲学カフェ←Googleカレンダーに追加

日 時: 2019年1月12日(土) 13:00~15:00

場 所: カフェ・サンラファエル

    (名古屋市西区名駅2-11-8 ファーストビル大樹1階)

     地下鉄「名古屋駅」1番出口より北へ徒歩5分

テーマ: 学力とは

進 行: 奥田太郎

参加費: 飲食代実費(440円~)

定 員: 13名

申 込: 事前申込みを終了しました

     staff☆nagotetsu.sakura.ne.jp(☆を@に変換してください。)

お申込みがない方も席に余裕がある範囲で先着順でお受けします。お早めにいらしてください。

 

《ご案内》

  学力ほど、私たちの人生につきまとい、様々に語られるものはないかもしれません。
学校の成績、入試、資格試験、就職、結婚、育児など、さまざまな場面で、学
力にまつわるアレコレがぶらぶらと目の前にぶら下がり、それに対して否定したり肯定したり。
「あの人は勉強はできるけど賢くない」という評価にも学力が関わっているように思います。
哲学カフェは学力と無関係なのでしょうか?
今回は、学力とは何かについて、みなさんと考えたいと思います。

初めての方も歓迎です、どうぞお気軽にご参加ください。

 


―開催報告―

なごテツ 第36回 哲学カフェ

《学力とは》

日時: 2019年1月12日(土) 13:0015:00

会場: カフェ・サンラファエル(名古屋駅東口)

進行役: 奥田太郎

 

  皆様、遅くなりましたが、あけましておめでとうございます。

今年もよろしくお願いします。

といった定番の挨拶が喫茶店の中で交わされる中、いつもより多めの 参加者に恵まれて、

今年もなごテツ36回目の哲学カフェが始まりました。

 

今回のテーマは、「学力とは」。

久しぶりに奥田さんが進行役です。

期待の高まるなか、初参加の方も多かったからか、

最初に哲学カフェは 釣り堀説が披露されました。

(釣り堀説って何? と興味を持った方は直接聞いてみてください。)

そうやって場が温まってたからか、多くの意見が飛び交い、

進行役も 考えていなかった展開に。

以下に主だった対話の一部を載せていきます。

 

・(進行役:皆さんの人生の中で学力はどういった関わりをもっていましたか?)

・高校までは学力は身に着いたけど、大学以降ではほとんど着いていない、

 大学ではあまり学力は  着かなかったというイメージがある。

・数値で図れるもの、ABCなどで評価できる。計れないものは学力ではない。  

 大人になったら学力とは言わない。学力は学生のうちだけ。学校と関係がある。

・会社に入ると学力は意味がなくなる。

・学力は生きる力

1.学ぶのに必要な情報の収集能力(ネット・人とのコミュニケーション)  

2.記憶して脳に定着させる能力(反復 記憶)  

3.思考能力(他との繋がりを考える)  

4.実践を通して練磨していく(PDCAサイクル)  

   これらは、学生にも社会人にも主婦にも必要な力。

・(進行役:話す力とかそういう力も「学力」なのか?学力を広くとらえてますね。)

・仕事に生かすスキル。仕事に関係あることはスキルになり、関係ないことは学問になる。

・学校出てからは学力を意識しなくなったが、学力が「学の力」であるとすれば  

 重力や電力のように、人間抜きでどんな状態でも働いている力なので強い弱いで考えられる。

 人間を媒介として社会に作用して顕現する力。

・学力はいろんな能力のうちの一つ。最高学府を卒業したような人でも人の心がわからない人もいる。  

 小説の心理描写は説明できるけれども日常生活のなかでは相手の心がわからない。

・(進行役:日常生活を送る力とは別の学力、生きる力、重力、電力みたいな力がある?)

・学力って粘土みたいなもの。こねて形を造って大人になって器になって完成する。  

 その器に何を入れるか。自分の土台をつくている。

・(進行役:粘土は素材?素材そのものも学力で、器も学力なんですね?)

・自分は学校で学ぶことを中学で拒否した人間で、先生に「なんで勉強しなきゃいけないの?」と聞いた時  「それでいいのか?」と問い返された。生活の身の回りのことが分かれがくらしてはいけるが、

 それ以外の文化や科学について知らない人間を尊敬できるのかと言われた。  

 自分でも資格試験を受けるときに数学が必要だった、相手とのコミュニケーションを正しくするためには  国語が必要。  

 学校で学ぶことはやめたけどなにかをやるにはパーツは必要。

 それを組み立てる力も必要。学ぶことは死ぬまで必要。

・(進行役:学校で学ぶとは組み立て方を学ぶ場かもしれない、学校の外でも学ぶことはできるが)

・インプットする力=学力。ちゃんとインプットされたかどうかをチェックするのがテスト。  

 高校までは知識を貯め込む期間で、大学は学力を使って新しいものを創っていく期間、社会に出ると

 結果を出すノウハウ(スキル)が求められる。

・学力は学校で詰め込んでいるけど、学力試験は記憶テストに過ぎないのでは?(学力ではない)

・(進行役:試験はどんな形でも学力ははかれない?)

・はかれないと思う。どんな試験を作るか悩む。

・学力は実感できない。学力は意欲とセット。車に例えれば前輪が学力、後輪が意欲。

・学力は幸せになるために必要な力。だから何のために学ぶのか?を考える力も学力。

・社会の生み出した力(テクノロジー)は、学力が「力」として作用している。

・学校教育で学んでいることのように共通の指標があった方が人の役に立ちやすい。(狭義の学力)

・「なぜ?」と考える力も必要。結論にたどり着くには必ずできるという自信も必要。  

 (自分が生きていていいという実感)。

・(進行役:学力1-指標、統治のものさしとしての学力。学力2-個人としての学力。   

 考える力、生きていくための力としてみましょう)

・学力は基礎、創造力とかはその上にあるもの。  

 狭い意味で「学歴」がある。気にしてないつもりでも気にしてる。

 「徳」と「学力」は違う?

・(進行役:他者の学歴を見ている時、私たちはなにを見ているのか?   

 学力をより強く持っている人か?とみているかも   

 学歴はそれだけで大きなテーマですので、今回は扱いません。

・(進行役:狭い意味を「学力1」学校のテストなど数値ででるもの。

 広い意味を「学力2」  生きる力。とし、考える力としましょう。  

 重力、電力と同じような純粋な「力」としての学力を「学力3」とします)

・学力1と学力2に分けて考えるのは納得できるが、1と2をつなぐものもあるのでは?

・テレビゲームの点数が学力1に近いと思う。このランクがこの学歴で何点だとこのランクという分け方。 ・学力1と学力2をつなぐものが学力3、知識を力として作用を及ぼす力、

 例えば漢字を覚えてテストでいい点とる。学力2は学力1を踏み台にしている。

・(進行役:学力1はテストではかられる学力、測定された時に数値として測られる学力   

 視力のように数値で表現。学力2-内側にある力)

 

<ここで休憩に入る>  

 

各テーブルで熱い対話が飛び交っています。。。 <休憩終わり>

・学力1+学力2×数値=学力3が世界に現れる。

・行動が伴わないものは学力か?

・学ぶ力と生きる力はつながっているのか、別なのか?

・学力は楽しむ力。楽力(がくりょく)

・学力の定義が、社会を創っていくうえで役立つ定義であるといい。

 生き方を学ぶ(まず生き抜く必要がある) まず生きないとダメ。

 傷ついても自分で回復できたり生きる喜びをしることができる。

 その土台の上に学力がある。

・AIに記憶の部分はまかせていい。

 そのなかで人間がAIと違う場面に学力を活用していく必要がある。  

 今までの学力1はAIがやるので、学力の定義を変えていく必要がある。

・学力の定義が書き換えられつつある時代かもしれない。

・昔、成績のいい子は「なぜこれがこうなる?なんて考えずに暗記すればいいんだ」と言っていた。  

 考えなくてもいいと。  

 今の教育界のトップには当時の成績のいい人間がいるから、この考えが本音なのでは。  

 だから今も枠の中にいることを求められているのではないか。

・(進行役:誰が学力を判定するのか?という問いが生まれそうですね)

・道徳は誰が判定する?音楽や美術の力も学力なのか?

・学力1は報われない。学力1ができる人は学力2も学力3もできる。学力3にいる人は  

 学力1じゃないよね、と言ってる。

・(進行役:「学力1」を救え!という言葉が聞こえてきそうですね)

・小学校3年生のときに「潮の満ち引きが一日2回あるのはなぜか?」と先生に聞いたら

 自分で考えろと言われた。

 自分で考え続けて何にも頼らず36歳の時にようやくわかった。  

 学校で勉強したらもっと早くわかっただろうけれど、自分ひとりで答えを出した。  

 その時の喜び・楽しさは人生最高のものだった。

・昔、意味のわからない論語を丸暗記したが後々その意味が頭に入るようになった。  

 学力2を付ける方法として学力1をつけるのも有効な方法。  

 学力2をつける方法はいくらでもあるのに、日本では今も学力1を付けることだけしている。  

 ドイツのマイスターのように職人でも学力はつくと思う。

 こういうことが認められていけば  学力1がこんなに攻撃されなくてすむのではないか?

・学力1に問題があるわけではなく、間違いは学力1が高い人が、

 学力1だけあればいいと錯覚しているところにある。

・(進行役:心をはかるテストは可能?)

・教養は学歴だけではない、人の心が分かるとかいろいろなことがある。

 それがあるかどうかは世間が判定する。

・最近は面接が重視されるが、従来の学力テストの方が平等じゃないかという意見がある  

 面接で分かるのは育ちの良さ、お金があれば面接に有効な経験ができる。

・暗記なしでクリエイトってできるのか?例えば俳句を作る人は過去の俳句をかなり暗記している。

・学力テストって平等かもしれない。

 子どもの自主性にまかせるというのは実は家庭の教育で決まってしまう

 ので詰め込み教育の方が平等なのでは?

・丸暗記では多くの知識を使いこなすことができない。  

 体系的に覚える。体系的にすべての情報が繋がっていると理解することができるひとは学力が高い人。

・物事をつなげて考える思考。一を聞いて十を知る。創造力と知識(素材)の詰め込みは関係がある。  

 創造には素材(詰め込んだ知識)が必要。学力と社会道徳も繋がっている。

・子どもは親の影響が大きい。ガソリンが入っていない車は走ることができない。

 車に高級車や中古車があるようにできない子にムリにさせても仕方ない。

・(進行役:走る能力には個体差がある。発動する条件が必要ということですね)

・学力1になぜイヤな思い出が皆にあるのか。

 授業が楽しくない。赤ちゃんは楽しく日本語を覚えていく  

 本来は新しいことがわかることは楽しいはず。

・(進行役:点数だけで計られるものを「学力0」としましょう。)

・学力0でもどうやって取れる点数を上げていくのかと考えるのは楽しい。

・冬眠していた学力1が、他者の学力2の表現によって刺激されて学力2となり学力3が生まれる。

・石器時代に学力はあったのか?そのときには生き抜く力が大事だった。  

 それが戦後になって、今の学校制度が始まって社会に余剰が生じてきてから

 学力と言われるようになった。  

・学力はカメラのピントを合わせるようなもので、解像度のようなもの。

・教科書でなにを覚えるが、人によって学び方がちがう。

・学力3が学力1の端末を通して出力されると学力1として出力され、

 学力2の端末を通して出力されると学力2として出力される。

 同じスポーツでもサッカーと相撲でどちらが優位とは決められないように

 学力も出力されるものが違うだけで適材適所の問題であって優劣はつけられない。

・面接採用者は高い学歴がある人を努力ができる人だとしてみている。

 いざというときに頑張れる人だと見ている。

 学力1は頑張れるかどうかが尺度。

 洞察力、感受性等の生きる力は圧迫かけて耐えうる力があるかで見ている。

・仕組みと目的。学力はなんのための学力なのか、生産性なのか豊かに生きるなのか。

・(進行役:最後は学力と社会との関わり、という発言でおわりましたね)

 

 

(作成: なごテツ世話人 水野生惠、寺井哲治荒井豊)

コメント: 4
  • #4

    Mn3 (日曜日, 05 5月 2019 09:58)

    僕は〈敗北感〉を感じずにはいられない訳です。
    O先生にも聞いたところ「敗北感はあるよ」とのこと。
    しかし両者の敗北感には大きな差が、何に対しての敗北感なのかが違う。
    学力とは敗北感を感じているかどうかのリトマス試験紙か。
    敗北感を感じていないような人には信頼はおけないが、羨望の眼差し、或いは侮蔑を感じてしまう。
    戦後民主教育は誰もが無限の可能性を持っているという幻想を無根拠に植えつけるのに見事に成功した。
    だから「自分の本当の力は学力なんかでは測れない」
    「本当の学力はこんなもんではないんだ」
    とても前向きだ。
    というか自分だけが自分を信じられずにいるのだろうか。
    どちらが健全か、言を俟たない。
    学力の功罪、罪が大きすぎる。

  • #3

    B & not B面 (木曜日, 07 2月 2019 20:26)

    "学力"のことは卒業してからはほとんど忘れてました。
    (当日、同じような意見を聞いてホッとしましたが。)
    なので"学力"って何のことかとあらためて考えて思いついたのは、
    “学習能力”、略して学力。

    であれば、人間に限らずドアのハンドル操作を覚えるネコや迷路をうまく走り抜けるネズミにはじまって、たぶん単細胞生物とかにもなんらかの学習能力/学力が認められそうです。
    それどころか、形状記憶する合金とかシャツとかにも‥。
    「いやいや、もともと持っている性質ではなくて何かを学んで獲得する能力が学力だ」という反論に対しては、彫刻なんかのかたどりに使う粘土とか石膏も形を学習していると言いたくなります。

    また、ハードとソフトがあいまってどんどん賢くなってくコンピュータには、彼らの学力向上に否応なく人間がまきこまれてる感じを受けずにいられません。
    そもそも、火を起こすみたいな原始的な技術の時からすでに、それらの力を増大させずにはいられないといった形で人が加担させられてるようにも見えます。

    とはいえ、こんなたわごとをならべてしまうのも、そもそも"学力"という単語をきちんと学習してないってだけのことかも。
    つまりはただの学力不足なんでしょう。

  • #2

    0 (日曜日, 03 2月 2019 15:30)

    上記《ご案内》にある
    >哲学カフェは学力と無関係なのでしょうか?
    にちなんでのギモン。
    「哲学」は学力と無関係なのでしょうか?

    こんなことわざがあるそうです。

    「哲学者によって真剣に主張されたことでなければ、それは愚かではない」
    (有限性の後で カンタン・メイヤスー 人文書院 P140)

  • #1

    0 (日曜日, 27 1月 2019 15:36)

    「愚かさ」、「無学」なんかは東洋のある種の「哲学」では尊ばれる印象です。
    「無知の知」とかは西洋哲学でも(西の横綱ソクラテス!)言われてます。

    「学力の無さの力について」は、事前には頭をよぎっていて聞いてみたかったのに
    当日はかすめもしなかったトピックでした。

    学力があれば、何が何をよぎったりかすめたりしてるのか解るのかもしれません。
    学力が無ければ、そんな言葉尻にまどったりしないのかもしれません。