第39回 哲学カフェ

「境界」を超えて

2019年4月13日(土)

記録ご投稿



カフェ・サンラファエルさまの入り口
カフェ・サンラファエルさま

 ■ 第39回 哲学カフェ←Googleカレンダーに追加

日 時: 2019年4月13日(土) 13:00~15:00

場 所: カフェ・サンラファエル

    (名古屋市西区名駅2-11-8 ファーストビル大樹1階)

     地下鉄「名古屋駅」1番出口より北へ徒歩5分

テーマ: 「境界」を超えて

進 行: 寺井哲治

参加費: 飲食代実費(440円~)

定 員: 20名

申 込: 事前申込みを終了しました、キャンセル待ちを若干受付中です。

     staff☆nagotetsu.sakura.ne.jp(☆を@に変換してください。)

定員に達しましたら締め切りますので、なるべく事前にお申し込みください。

お申込みがない方も席に余裕がある範囲で先着順でお受けします。お早めにいらしてください。

 

《ご案内》

 「ここから、俺の陣地」
友達が地面に線を引いた途端に、これまでの遊びが一変した記憶を持つのは、年を取った男性だけでしょうか。
境界は、自分の権利の象徴でもあるような気もします。
2つに分けることで外側のグループを差別し始めるといった重い話もありますが、
ドーナッツ本体とドーナッツの穴の境界について考えながら参加すると面白いかもしれません。
話が拡散しすぎたら、進行役が境界を決めて交通整理をしますから、どうかそのつもりで。
初めての方も歓迎です、どうぞお気軽にご参加ください。

 

―開催報告―

 

なごテツ 第39回 哲学カフェ

 

今日はテーマに惹かれてなのか、季節が良いのか大勢の参加者に恵まれました。

最近はちょっと常態化していますが。。。

皆さんは「境界を超えて」というとちょっとカッコイイと思いませんか

普段は意識しませんが、気づいてしまうととっても気になるテーマです。

ココらへんは考えた進行役のセンスですね。

さて、とっても広がりが感じられるテーマですので、

どのような展開になることやら。

以下に展開された発言をご紹介します。

今回は、最初に各テーブルで話をしてその内容を発表という形式を取りました。

 

日時: 2019年4月13日(土) 13:0015:00

会場: カフェ・サンラファエル(名古屋駅東口)

進行役: 寺井哲治

  

・大人と子ども、自分と他人、人間と動物の境とは。

・「きょうかい」という音は「教会」をイメージさせる。

・俗と聖を分ける。結界、鳥居 等々

・ドーナツの本体の幅によって、標準的な大きさなら「ドーナツ」と認識できるが

 例えば本体の幅が5mmとかならどうか?  

 それはドーナツと言えるのか?その境界は?

・私と他者、我が家と隣家、町内、区、市、県、国、地球、宇宙・・・

 境界はどこまでも小さくもなり大きくもなるが、

 最終的に「量子」まで分解したら果たして「境界」はあるのか

・物質と精神の境界はどうか。

・昼と夜のように境界がはっきりしないものがある。

・今日と明日にはっきりした境界がないように、内側と外側などもはっきりしない。  

 なにによって分けられているのか?

・人間関係においては、境界を作ることが他者をリスペクトすることにもなる。

・境界は国境のように、秩序を守るためにある。

・国境の上にたったとしても変わらない。

・(寺井さんからの問いかけ)「あいまいじゃない境界ってあるのか?」

・はっきりさせるべきなのは法律。現時点ではっきりしているものもあるが、  

 裁判官によって変わることもある。

・境界は実在しない。なぜなら捉え方によって生まれるから。  

 概念をつくる時に境界が生まれ、境界を作ることで世界をより捉えられる。

・モノには境界はあるが。解釈が関与すると境界はあいまいになる。

・滋賀に住んでいるのに京都人だと言ったりする人がいる。京都がブランドだから?

・本来「境界」はない方がいいが、人間が必要があって作っている。世界を認識するため。

・区別しちゃいけないという気持ちがあるからあいまいになる。

・世界から与えられる「境界」がある。

・境界を定義するのは人間?

・水と氷の境目がはっきりしないように物理現象にもあいまいなところはある。

・義足や入れ歯やコンタクトレンズは「私」か?物理的な「私」の定義は?

・(寺井さんからの問いかけ)「定義がはっきりしている境界はある?」

・言葉は定義がはっきりしている。

・芸術は発信する側からははっきりしている。鑑賞者側からは捉え方次第。

・親子関係のように因果関係がはっきりしている所でははっきりしている。

・プロとアマのように資格や免許によってはっきりした境界もある。

・境界があいまいな方がうまくいくこともある。法律もはっきりしないから弁護士がいる。  

 はっきりさせたいのは人間の欲。

・(寺井さんからの問いかけ)「人間がつくる境界についてのメリット、デメリットは?」

・国を守るための境界。

・責任を持つ範囲が異なるから境ができる。

・何をモノとして捉えるか?捉え方を決める役割としての境界。これを明確にすることで  

 モノの見方を共有できる。

・動物や昆虫にもテリトリーや縄張りなど生きるための境界はあり、境界をもつのは人間だけじゃない。

・境界を超えることで豊かさが生まれることもある。十字軍遠征による文化の交流とか。

・免疫を境界とすると、自分の中に入れるか入れないかを決める境界もある。

 全てをシャットアウトするわけではない面白さがある。

・オーラのように、肉体が境目ではないものもある。

・「私は〇〇県の出身」というのも境界になる。ちょっとしたことも境界になる。

・境界を踏み越えると制裁があるから境界が生まれる。

・(寺井さんからの問いかけ)「与えられた境界はあるが、それを自分の意志で超える時ってどう?」

・黒人差別でバスに乗れない時など、黒人側にデメリットがあるから声を上げる。  境界の内側にいる白人はメリットがあるから超えない。

・外側に出て抵抗がある時境界が生まれる。

・仲が良ければ分ける必要はない。モメた時に境界が生まれる。

・差別と区別を分けるべきでは?差別は人権侵害、区別は人権尊重。

 女性専用車両や優先座席は尊重しているから差別でない。

・人間だけが、他者のために、思いやりから区別する(境界をつくる)のかもしれない

・境界線を正しく使えば区別、悪く使えば差別。

・障がい者と健常者、相手への配慮(公平にするため)の区別。

・特性をどう捉えるかは人それぞれ。差別というレベルか区別というレベルか

・差別しているつもりはなくても受け取り手は差別と感じることがある。

・区別は事実をただ単に分けること。差別は人間がどういう見方をするかで決まる。

・境界は鏡。戦争で家族を守るために敵を撃つ。

 敵は自分にとっては意味のないのっぺらぼうの相手。

 大切にするものの代替として境界ができる。境界を定義する私がスタートとなる。

・手話で話す人からすると、その意味を解さない健常者の方が障がい者になる。

・自然は区別しない。

・植物も境界は作る。毒を出して他の植物が成長するのを阻んだりしている。

・ぶつかる者同士でなわばりをつくる。(草食動物と肉食動物では縄張りがぶつからない)

・コミュニケーションの手段として境界はある。

・平和のための住み分け。

・境界はただの「違い」?同じ性質を持ち、隣り合うもの同士が混じり合おうとする時にできる。

・利益が絡むと差別になる。

・限りあるリソースを分配するために境界はある

・公衆電話を知っている、知らないというだけでも境界は生まれる。お互いに違いがあるとは

 意識していなくても。

・内包と外縁に立つ者にはっきり分かれているが当事者は気づかない。

・多様でありながら丸のみする世界観の中には境界はない。

・自然は区別しないと思う一方で、逆に生き抜くためにはシビアに区別しているという気もする。

・言葉を使う=境界をつくる。言葉のない動植物の「なわばり」は境界とは言わないのではないか。

・濡らした紙に墨を一滴落とした時のように、離れて見るとくっきりした境界も、近くで見ると

 ボヤけていることがある。

・境界の向こうって魅力的。境界の向こうにはリスペクトもあり、欲しいものが境界の向こうにある。

  

などなど、いろいろな発言が飛び交っておりました。

面白い発言が出てきたところで終了です。

その後の懇親会でそれぞれに話が続いていきました。

 

 

(作成: なごテツ世話人 水野生惠、荒井豊)

コメント: 4
  • #4

    0 (水曜日, 08 5月 2019 18:49)

    Mn3さん#3にちなんで
    >領域のどちらかに足
    C:足と地面、AとBと、ついでにCとの境界もご存知ないものが〈好き〉
    おっと、いけない . . .
    〈好み〉です。^^

  • #3

    Mn3 (土曜日, 04 5月 2019 22:15)

    A:人間がいなかったとしても境界は存在しただろうか?
    B:いや、人間の都合で自然を二分し、生み出されたものが境界だ。
    A:人間が居ようと居まいと、雨の日と晴れの日はあるんじゃないのかな?
    B:でも曇りの日や霧の日、天気雨(狐の嫁入り)の日というのもあるよ。
    A:それは境界のことだね。やっぱり人がいなくとも雨の日、境界の日、晴れの日という分類自体はあるじゃないか?
    B:昔は生物を植物と動物に分けていた。しかし現在のトレンドでは境界が増えて植物/動物/菌/原生生物/モネラの5種類で生物を構成するんだ。これは全く人間の恣意性を表しているいい例だ。未来に人間がもっと複雑、厳密に生物を峻別しないとも限らないさ。
    A:確かに。植物と動物の境界部分にスポットを当てて菌/原生生物/モネラが生まれたんだね。
    とすると境界がある限り、いつでも新たな境界をそれは孕んでいるんだね。
    B:そうさ。人間が境界を作ったが最後、後からあとから新たな境界が生まれてゆく運命だ。
    A:人間の文化の醍醐味は境界上にある、かな。日本史でも近世と近代の境界、江戸末期から明治維新の頃が一番面白いという人が結構いるよ。
    B:人間は境界で割り切っては考えられないんじゃないかな。コンピュータは0か1かで全てを二分し、その境界は存在しない。
    A:こちらは善良な人間、境界の向こうは邪悪な鬼という二分的思考は逆からも見れるね。
    B:どういうこと?
    A:鬼から見れば境界の向こうは〈人間〉と呼ばれる怪物の一族。確か永井豪のデビルマンという漫画がそんな感じだった。
    B:人は必ず相反する性質を同時に持っているものだ。いや、いつも境界というロープの上を綱渡りして行かざるを得ないのかもしれないよ。
    A:ロープから堕ちたらどうなってしまうの?
    B:大丈夫。そのロープは地面に張り付いているものだから。
    A:でもロープで二分された領域のどちらかに足を着くんだろ?
    B:うん。悲劇的喜劇なんだよ。あるいは………

  • #2

    0 (金曜日, 26 4月 2019 19:23)

    >境界(分類)をものともせず軽々と超えていく
    量子とか光の性質なんかも、「人間の理解/境界の都合そっちのけ感」が強くて楽しいですね。
    命の躍動が境界を越えていくって感じ、今読んでる本の面白かったとこ(ベルクソンの物質/生命の二元論)※ともリンクしてる(と思う)気になってる題材でした。
    一方で、生き生きと死に死にの境界もとんとご存じでない一元論の引力にも強く惹かれます。(笑)
    ======================================

    ベルクソンによれば、進化論者たちは物質に対してはふさわしいような思考を、生命にまで敷衍してしまう。そしてそのような「概念的思考」、つまり知性による思考は、物質を理解するのに適してはいても生命を理解するのには適さない。. . . 物質に流れる時間のありかたと、生命に流れる時間のありかたはまったく異なっているからだ。
    (眼がスクリーンになるとき 福尾匠 P38)

  • #1

    ヤスミン (木曜日, 25 4月 2019 07:04)

    「境界」について想いを馳せる時、雑草のことが頻繁に頭に浮かびました。
    名もない(ように見える)草にも研究者からほぼ名前は付けられているものですが
    それでも未だ「名」のない草はあるそうです。
    いったん「学名」を付けられても、似て非なる亜種が現れて研究者を悩ませる。
    人間が作った境界(分類)をものともせず軽々と超えていく植物たち。
    やってくれるなー、と笑ってしまいます。そこに命の躍動と「自由」を感じるから。
    人間も様々な理由を付けて「境界」という制約を自らに課したり、あるいは他者に押し付けるけれど、それはどうしてなのか?と思う時、
    人もまたそれを超えたい、「自由」を感じたい、なのかなぁ。。。とふと思ったりしました。
    自由を感じたくて、あえて境界という制約を作る、創造したくて破壊する、破壊したくて創造する。。。
    矛盾の中にはいつもなにかある?何か生き生きとしたものが隠れている気がしていまいます。


第39回 哲学カフェ

「境界」を超えて

2019年4月13日(土)

記録ご投稿