第43回 哲学カフェ

「ねがい」とは。。。

2019年8月10日(土)

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カフェ・サンラファエルさまの入り口
カフェ・サンラファエルさま

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日 時: 2019年8月10日(土) 13:00~15:00

場 所: カフェ・サンラファエル

    (名古屋市西区名駅2-11-8 ファーストビル大樹1階)

     地下鉄「名古屋駅」1番出口より北へ徒歩5分

テーマ: 「ねがい」とは。。。

進 行: 荒井豊

参加費: 飲食代実費(440円~)

定 員: 20名

申 込: メールにて受付中

     staff☆nagotetsu.sakura.ne.jp(☆を@に変換してください。)

定員に達しましたら締め切りますので、なるべく事前にお申し込みください。

お申込みがない方も席に余裕がある範囲で先着順でお受けします。お早めにいらしてください。

 

《ご案内》

「ねがい」とは。。。
 
ひとは誰でもこころにねがいを持って生きているのでは
ないでしょうか。
なんとなくの願い、切実な願い、かなわぬ願い。
生まれては消えていくようなねがいの数々。
私たちにとってねがいとは何なんでしょうか。
 
飲み物片手に、ひととき「ねがい」について考えてみませんか?
 
初めての方も大歓迎です。ご参加お待ちしております。

―開催報告―

 

第43回哲学カフェ 「ねがい」とは。。。

 

夏も盛りの暑さのなか、今日も哲学カフェを楽しみに集まっていただきました。

 

進行役の「どんな願いがありますか?」という問いかけから始まった対話ですが

さて、どんな展開となりますでしょうか?

 

以下に展開された発言の一部を紹介させていただきます。

 

・願いには「強さ」がある。「モテたい」みたいなちょっとした願いもある。

・心穏やかに暮らしたい

・満足した人生、充実した人生がいい。

・願いとは妄想なのでは?

・好ましい変化をねがう。

・願いを意識したことがない。初詣の願いも記憶にない。

・親しい人が病気になった時、その快癒を願うのは相手のための願いでもあり、

 自分のための願いでもある。

・相手にそうなってほしいという願いには強制力がある。

・「願い」は1点を希望するけど、「夢」人生全般を指す大きなものでは。

・「願わないようになりたい」という願いもある。

・願いをもつ、ってニヒルなこと。現実を否定しているみたいな。

・今あることを全て受け入れられるようになったら「願い」はなくなるのでは。

・自分ですぐに叶えられるようなことは「願い」にならない。

 だから9割方ダメだろう、みたいなのが「願い」になる。

・願いを達成するまでの物語を味わう。

・「夢」は非現実的な感じ。「目標」は自分でなんとかできる。

・人や神仏に願っても叶わないものがあるが、願わずして叶うものもある。

・自分がこうしたいという思いがあって願うけれど、逆に願うことで難しくなることもある。

 (親が子の心配をする等)

・できることを願って成就する人がいるということは、自分の中のポテンシャルで願いを叶えている。

・願いには「自分の力ではどうしようもないこと」と

 「あるレベルでは自分の行動・努力が影響する場合」の2種類がある。

・「願い」は昔からあるが「夢・目標」は近代のもの?

・叶うか叶わないかが大事な「願い」と、願うこと自体を「したい」という衝動もある。

・願うことを自分が欲しているから、「自分がしたいから」というより、

 巻き込まれている(願わずにいられない)。

・世界平和はありえないから願う。

・欲望が即実現する時は願わずに行動している。すぐには実現しない時には「願い」「祈り」などという。

・昔は今よりもできないことがたくさんあったから「願い」という形になった。

 最近は実現不可能なものだけになってきた。

・欲望がある時、それをすぐに実現できる人もいて、そういう人に対するねたみがわくことが

 あるかもしれないが、その時に「願う」というポジティヴにところに行く時と、

 ひきずりおろすという行為にでることとある。

・「ねたみ」とは本当は隠された「願い」かもしれないが、それを押し殺してしまっているかも。

・「願望」の「望」は昔は「希」と書いた。その意味は「まれである」というところから、

 願いとはまれにしか叶わないのが基本。

・願いとは、実現したい状態を意味しているのではないか。

・「なんだろう、この思い?」とモヤモヤしている時(それが足りないかどうかもわからない)、

 それに当てはめる言葉が「願い」?

・願う状況を絵空事とするなら、実現してしまったことは願えない。現実と絵空事を交換できると思えるのはすごく幸せなことだと思う。

・子どもをダメにする方法は、子どもの願いをすぐに叶えてあげること。

・ビンゴゲームで、賞品に興味はないのに数字が揃ってくると欲しくなる。

 手に入りそうになると、数字が揃ってくるとビンゴになりたいという欲望がわいてくるのか?

・夢・目標は自力で叶える。願いは他力が必要。・・・自力と他力が重なり合っているところは何だろう?

・昔は自分の手の届く範囲のことだけ願った。

 今は昔なら不可能だったことも願えば叶うかもしれないようになってきた。

・「いいなー」と言いながら、その願いを叶えるための行動はしない人がたくさんいる。

・願いを叶えるには行動が必要。

・願いを口に出すことで周囲に影響を及ぼす。

・ある願いを表現することで、その願いを周囲が叶えたくなる心理がある。

 例:私はケーキが大好きと言っている人がケーキを食べている人の隣に座れば、

 分けてあげなければいけない気持ちになる。

・そう思うのは「ひとりじめはいけない」等の教育からきているかもしれないのでは?

・人の望みを叶えることで「みとめられたい」という社会欲もあるのでは?

・時代の流れや雰囲気も、「願い」をもってしまうことがある。(ベルリンの壁崩壊など)

・個人的な願いだと思っていても、実は集団からの影響がある時もある。

・あまりに願いが強すぎると周囲が引いてしまう時もある。

・願いを託す、ということもある。クラウドファンディングとか。ただ、強制力のある暴力性もあるかも。

・善意の願いはプレッシャーに変わることもあるのではないか?

・動物には「願い」はないとしたら人間に先天的にもたらされているものかもしれない。

・願いとは未来をイメージできる力がもたらす自然な力ではないか。

・動物にもペットのように人間との関係があると「エサのおねだり」など「願い」がある。

・過去に対する願いもある?昔の事故を今になって知り、「あの子が助かっていたらよかったのに」など。

・願いは成長するもの。子どもの頃の願いと大人になってからの願いは違う。

・いつも何か願っているのが人間。

・ねがいが全て叶ったら幸せなのか?

 

最後は私もお話しする時間をいただけましたところで時間となりました。

 

(作成: なごテツ世話人 荒井豊、水野生惠)

コメント: 2
  • #2

    Mn3 (火曜日, 10 9月 2019 22:54)

    「後悔」という“願い”は何故わたしを捉えて離さないのか?
    いくら後悔してみても過去は過去であり、
    それ以外の過去はあり得なかったのではあるまいか?
    例えば全財産を賭けたルーレット。
    自分はRedに賭けたが、結果はBlack(全然関係ない話だがスタンダールの小説を連想するのはわたしだけ?)
    全財産は消えていった。
    ひとは言うだろう「君がRedに賭けないなんてことはあり得なかったんだよ。実際と違う現実は有り得ないんだよ」と。
    「負けは負けだよ」とダメ押し。
    だがわたしは言う「自分がちょっと気を変えてBlackに賭けてさえいれば……」
    「でも君はRedに賭けた。そのときBlackに賭けれたというのは幻想に過ぎない。現実と違う選択が有り得たというのは不可能なんだよ」と先ほどのひと。
    わたしは言う「僕がプロのヘヴィー級ボクサーと試合をして負ける。僕が小学生のアマチュアとボクシングの試合をして負ける。どちらの負けも負けたことには違わないから、どちらの試合もまったく同じ’重さ’を持っているというのかい?
    「僕が東大の入試に落ちた。英検3級に落ちた。どちらの不合格も落ちたことには変わりないのだからおなじ’serious’を持ち合わせているとでも言うのかい?
    「ルーレットの結果を10000回連続で当てれば全財産を倍に、という賭けで’負け’たことと、
    1回切りのルーレットで全財産を失ったことは全く同じ’Real’を持っているとでも言うのかな?
    「つまり僕は過去は過去でも後悔して良い過去と、悔やむに値しない過去があるのではないか?とも言いたいんだよ。
    「基本的に、結局はそうしなかったとしても原理的にそうすることが不可能であったと考える合理的な理由など何処にもないケースはあるのではないか?ということでもあるんだよ。
    「だから鷗外の『雁』は切ない、のではないか?
    (ちなみに「僕がプロのヘヴィー級~『雁』は切ない、のではないか?までは僕の台詞です)
    そこで先ほどのひと曰く「わかってないなぁ~」
    僕:「ああ全然わからないよ。わかりやすく教えてよ(喧嘩売ってるのではありませんm(__)m念のため)」

  • #1

    Mn3 (月曜日, 12 8月 2019 10:22)

    ひとは過去の事跡を変えられたらと願う。
    けれども過去は変えられないから本気で願ってるわけではない。
    Wさんの言うとおりだと思います。
    でも、過去への願いは、だからこそ強烈で如何ともしがたい。
    「わたしはAを選んで現在に至るのだが、もしあの時Bを選択していたらなあ」と誰もが思う。
    「わたし」は現在において全否定まではいかず、
    多少は現在を肯定できる部分を持っている。
    その部分はそのままに、しかも否定したい過去だけを変えたいと思う。
    すると、明るい未来も待ってるように思える、
    いや、きっと望み通りの未来が来なければならない、
    と思案する。
    つまり「過去を変えられたらなあ」という願いは、
    「過去」「現在」「未来」における理想を希求する都合の良い願いだ。
    しかし、だからこそこの不毛な願いは、
    「後悔」という特別な名を与えられ、
    「わたし」を強く捉えて離さない。
    ひとが後悔をしなければ、文学はその半数が、いや殆どが形をなさないのでは、
    とすら思う。
    自分の後悔には、他人の後悔だけがカタルシスを可能とする。
    或いは、それを表現することの中に救いを、
    求め願う。

第43回 哲学カフェ

「ねがい」とは。。。

2019年8月10日(土)

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