第44回 哲学カフェ

不自由さとはなにか?

2019年9月14日(土)

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カフェ・サンラファエルさまの入り口
カフェ・サンラファエルさま

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日 時: 2019年9月14日(土) 13:00~15:00

場 所: カフェ・サンラファエル

    (名古屋市西区名駅2-11-8 ファーストビル大樹1階)

     地下鉄「名古屋駅」1番出口より北へ徒歩5分

テーマ: 不自由さとはなにか?

進 行: 羽根田治

参加費: 飲食代実費(440円~)

定 員: 20名

申 込: 8/30の夜よりメールにて受付開始

     staff☆nagotetsu.sakura.ne.jp(☆を@に変換してください。)

定員に達しましたら締め切りますので、なるべく事前にお申し込みください。

お申込みがない方も席に余裕がある範囲で先着順でお受けします。お早めにいらしてください。

 

《ご案内》

 不自由さとはなにか?
人はその環境に不自由さを感じたとき、嫌悪感を覚えるのではないでしょうか。
不自由さからは、負の面だけを与えられるように感じますが、はたしてそうでしょうか?
あらためて、不自由さについて考えてみませんか?
 
初めての方も大歓迎です。ご参加お待ちしております。

―開催報告―

 

哲学カフェレポート 第44回 哲学カフェ 不自由さとはなにか?

 

今日のテーマは「不自由さとはなにか?」です。

 

「自由」と聞くと良いイメージで、語られることも多い言葉だと思いますが

「不自由」というのはあまり聞かない言葉ではないでしょうか。

今回はそんな「不自由」について対話を行います。

さて、どんな展開になるのでしょうか。

 

以下にその対話の一部を紹介します。

 

・身体的不自由さ(骨折とか)と基本的な不自由さがある。(円滑な人間関係のために気を遣う等)。

・盲目の人のことを「目が不自由な人」と表現するなど、婉曲的表現としても使われる。

・表現の自由は憲法に規定されているが、「不」とつけることで「本当にあるのか?」と問題提起している

・あえて「不」と付けるからインパクトがある

・人間が人間らしく行動できない時。本能に従わざるを得ない時不自由である

・身体的にどこかが生まれつき欠けている時、その人にとってそれは不自由か?

・「自分にとって」思い通りになるはずのことがそうならない時、不自由さを感じる

・不自由であることが「常態」、常にあるあたりまえのこと。だから「自由」は貴重である

・家庭や会社など、ある程度拘束されている(可能性を抑える)からこその自由もある。

・自由は良いことのように思えるが、全て自由というのでは何もできない、あえて不自由を

 作ることでできることを深めることができる。人の関節は自由度を拘束しているが、力を

 出すにはそれが必要。

・不自由であるがゆえに自由を意識できる。

・不自由は健やかではない。

・欠落と欲望があり、その欲望が叶えられない時、不自由を感じる。

・例えばオリの中にいる状態で、その人の内面が自由なら、外からみて不自由でも不自由ではない。

・そもそも「自由」という状態はない。自分が欲望をもつかどうかも自由に決められない。

 可能性を選べるから自由といえるが、可能性を選べないとしたら全て不自由。無自由ともいえる

・不自由とは自分に主導権がない状態。

・ネット社会で大勢の意見とは違う意見を言うと叩かれるということではネットは不自由。

 ただ、それらを気にせず行動できれば自由。

・ネットには匿名性(自由・無責任が担保されてる)があるので、

 自分のことではないと切り離すことは可能では?

・ネットは自由過ぎて怖い。情報に踊らされすぎて怖いが、

 ネットが無くても不自由だけど生活することは可能。

・ネット上では自由にものを言えるように感じるが、

 正々堂々と名乗って言いたくても言えない不自由さがある。

・匿名性は自由を保証するのか?

・ネット上で正々堂々と名乗って「言えない」のではなく、

 言わないという選択を「自分の自由で」しているだけで、叩かれるかもという恐れがあるだけ。

・他者から押し付けられる不自由さより、自分で選んでいる不自由さの方が辛い。

・親などに自分がよく思われたいから言えないことがある。

 「○○のために」と考えると不自由さが増してしまう。

 とはいえ家族・友人等に気を遣う不自由さはあるけど、彼らがいることで幸せなこともある。

・例えばAが「A」と名乗ったうえで何らかの発言をすると、

 Aはこういう人という見方をされるので、将来的にも攻撃されやすくなる。

 人は他者を制限するためにレッテルを貼る。名乗ることは不自由さをつくるかもしれない。

・名乗って意見を言う際には一定の常識的ルール(責任)があるが、匿名ならその責任を回避できる。

 意見を皆が言いやすくするには、それを受け止める度量も必要。

・匿名で人を叩く人の方がパターン化していて不自由にみえる。

・人の意見を否定してやっつけている人は、生贄を求める快感を欲している。

・不自由になることで自由を知る面もある。

・災害時のように不自由になって意識できる自由もある。

・他者と生きていると完全な自由はない。俗世で生きれば人との関係で不自由さは付いて回る。

 逆に無人島ではそういう自由はあるが、その他の不自由がある。

 だから不自由さによって守られている面もある。

・実名のFacebookでは匿名性の高いTwitterと違い、自由を行使したことによるペナルティもある。

・自由、不自由は個人の問題である。

・自由と不自由の総和は一定。現代の自由+不自由と昔の自由+不自由は、中身は違うが量は一定。

 現代では食べ物には困らないが社会的不自由さが多い。

 昔は食べ物には困っても社会的不自由さは少ない。

・昔、自由になりたくて家を手放して車で生活したが、とても不自由だった。

・不便だけど自由、不自由(不便)だけど便利という面もある。便利さのために自由を売り渡している。

・自分が自由に振舞うと他者は不自由になることがある。信号無視とか。

・ある一定量妥協するとバランスできるのか?

・人々は不自由さを選ぶことで安全や快適さを選んでいる。

・自分ではあたりまえに思っていたことが、他者から「不自由だね」と言われたことで

 そのことに気づくことがある。

・高校時代の校則は不自由だった。他者から締め付けられると不自由さを感じる。

・自分で決定するか、他者から強制されるかで、同じ状態でも感じる不自由さが違う。

・理不尽さと不自由は近い?自分で決める不自由さに理不尽さはない。

・不自由さを受け入れられるのは人の成熟さだと思う。

・フランスでは複雑な交差点にあえて信号はない。代わりにいくつかのルールがあり、

 それを守ることでうまくいっている。フランスは大人社会。日本は上からの規制。

・自分の意見で行動することが自由。他人が決めたことには左右されず自分で決める。

・自分の意見にとらわれすぎるのも不自由(我が強い)では?

 時には人の意見を柔らかく受け入れて自分が変わることを許すと、もっと自由になるかもしれない。

・よりよい社会にするために「三方よし」(私、他者、社会環境)で

 自由と不自由さをバランスすることも必要だと思う。

・制服は不自由だけどファッションに気をつかわなくていいというメリットもある。

 選択肢が多すぎる不自由さもある。だから不自由にはメリットもある。

・自分にこだわりが強いと、それを制限された時に不自由さを感じる。

・可能性が開かれていないから不自由さを感じるのか?

 行動できないから不自由なのか?

 自由であればしたいことをしてよいのか?

・不自由さを感じるのはルールがあること自体に対してか?

・自分の意識の広がりと現実との間にギャップがあると不自由さを感じる

・不自由さを「いいわけ」に使うこともある。

 また既婚者などが不自由さをアピールするのは優越感からの場合もあるのではないか。

・仕事上で自由度を高くすると、遊ぶ人は遊んでしまい生産性が低くなる。

 できる人はどんどん仕事して成果をあげる。

・自分の意見を台無しにできる自由を不自由さがくれる。

・不自由によって生まれる幸せもあるかもしれない。

・自由だと広く浅くなりやすいが、不自由さには選択肢が少ないことでそうならないメリットもある。

・選択できることには喜びを感じるが、計り知れないほどの自由は人間には重い。

 ほんの少しの選択肢がちょうどいいかも。

・校則や社則など、集団に与えられる不自由さはそれほど強く感じない。

 逆に自分(個人)に対してだけ与えられる不自由さは強く感じる。

・フランクル博士のナチス収容所での体験。みんなでやった想像だけのディナーはとても豊かだった。

 社会に戻って身体を壊して本当に食べられなくなると、その方が不自由さを感じた。

 それは自分の意志でやめなくてはならなくなったから。

・人間は根源的に自由なのか?不自由なのか?

・生まれてくることに選択権はないので、自由というものが「選択できるかどうか」であるなら、

 人は不自由かもしれない。

・身体が不自由になっても、考えることができる「頭」があればそれは大きな自由かもしれない。

・他者が同じ方向を見ていると自由を感じる。でもその中で自分で考えようとすると不自由さを感じる。

・選択肢が複数あるというのは本当なのだろうか、選択後の未来から見れば

 選択しなかった未来はあり得なかった現実であり、分岐そのものがありえないとも言える。

 

まだまだ、対話は続きますがご紹介はここまでとします。

 

※ここで最後に記載した「選択肢が複数あるというのは本当なのだろうか?」については、懇親会で

 発言者に対して質問があり、図を書いて詳細に説明してもらいました。

 

(作成: なごテツ世話人 荒井豊、水野生惠)

 

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