第47回 哲学カフェ

季節の挨拶

2019年12月14日(土)

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カフェ・サンラファエルさまの入り口
カフェ・サンラファエルさま

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日 時: 2019年12月14日(土) 13:00~15:00

場 所: カフェ・サンラファエル

    (名古屋市西区名駅2-11-8 ファーストビル大樹1階)

     地下鉄「名古屋駅」1番出口より北へ徒歩5分

テーマ: 季節の挨拶

     季節という言葉は好きだし、挨拶という言葉はいいと思う。

     しかし、そのふたつが一緒になり季節の挨拶という言葉に

     なった途端、周りに風景が浮かんで動き出す。年賀状を

     出さない人が増えている一方で、バレンタインやハローウィン

     といった新しい行事が季節を彩る。

     季節の挨拶。それは皆さんにとってどんなものですか?何か変わってきていますか?

     それはなぜでしょう。師走の午後、一緒に考えてみたいと思います。

      初めての方も大歓迎です。ご参加お待ちしております。

進行役: 寺井哲治

参加費: 飲食代実費(440円~)

定 員: 20名

申 込: 申し込み終了

(定員に達し次第締め切ります。お申込みがない方は席に余裕がある範囲で先着順でお受けします。)

―開催報告―

第47回 季節の挨拶

 

 今年もいつの間にか12月、なごテツの定例会は本年は今日で終わりです。

1年お付き合いいただきありがとうございました。(濃い目はまだありますのでよろしくお願いします)

さてと、季節の挨拶が終わったところで今日のテーマも季節の挨拶。

いつもとちょっと肌合いが違うテーマですが、どんな展開になりますでしょうか。

以下に対話の一部をご紹介します。

 

・年賀状は旧友やお世話になった人を思い出す。

 20年以上あっていない人にも、先月に会うことができたが、

 これは年賀状を継続していたお陰かなと思いました。  

 今はスマホのせいで、年賀状を出す人が減ってきている。

 何年か後には私もやめるだろう。

・年末年始のような大きな節目の他に、4月は桜が咲き9月の残暑など、季節の移り変わりに挨拶ができる。 ・季節の挨拶は、本題の前置き、本題を楽しむための前菜のようなもの、

 少し前置きをすることで期待値を膨らませて本題を充実させる。  

→アニメのようにオープニングが変わらないことが、挨拶だなと思った。   

 本編は変わることがあるが、挨拶は変わらない。   

 それが変わらないことで、他者と認識を共有できる。  

→同じことを共有すること季節を物事と捉えた時に、

 次の年も同一の年と捉えていることがおかしいのでは?   

 今年と来年は区切りは同じ1年だが違ったものとなるはず。   

 同じ1年が繰り返されていくという世界観を共有している。

・手紙のような書き言葉しかないと思っていたが、

 季節の挨拶にも相手と面と向かって行う挨拶があることに気が付いた。

・最近は暑中お見舞いのような季節の挨拶は消えたと思った。

 昔は、暑中お見舞いを交わすことで、相手が元気かどうかを確認できたが、

 今はアイコンとなってしまった。(あけおめ、メリクリ)  

 昔は、挨拶自体がメインだったのではないか?

・季節の挨拶を始めた人は、きっと侘び寂び的な洒落たものとして、考えたと思う。

 しかし、続けている人たちは合理的な感覚(継続性、関係、確認)てやっているのだろう。

 だから、始めた人、続けている人では背景が異なるのだろう。(メールへの代替がしやすい。)

・日本には季節があるが、世界には季節が無い地域がある。どうしているのか?

 クリスマスのような宗教的なイベンが区切りになっている?

 挨拶は縁を繋ぐという性格が強そうな感じがする。

 最近はクリスマスカードがグリーティングカードという名称に変わって宗教色を消そうとしている?

・季には一年という意味がある。たとえ、四季がなくても、雨季や乾季といったものがある。

 一年という単位を意識をしていない文明はないのではないか?

・季節というよりも、節目の挨拶では?

 キリスト教なら、クリスマス。イベントを節目とすることを共有することなのではないか?

・普段の挨拶である「こんにちは」で済むと人と、季節の挨拶をする人では距離感(親密性)が異なる。  →一方、普段の挨拶をする人には季節の挨拶をする場合もあると思う。

・年が変わった時に、友達と神社に行くとすれ違った人とも新年の挨拶をする。

 アイコンとして新年の挨拶をするのだと思う。

・季節とは何か?挨拶とは何か?季節の挨拶しては何か?のどれか?  

→季節と挨拶をくっつけたら、季節の挨拶になる??

・季節の挨拶と親密性の関係があるのか?

 深く相互関係があるわけではないので、軸の取り方によって、関わり方が変わる

 子供の頃から不思議だったこととして、年賀状は明けまして、おめでとうと書くが

 書いているとにはまだ年が明けていないので年の初めから嘘をつくことになる。

 相手もその嘘を共有しているから季節の挨拶として成り立つ。

 小学校の友達が友達に出した年賀状で今でも覚えているのは

 「めでてえのはてめえの頭だ」と一言書いた年賀状。

 それは共有した世界と距離感があるからできたことだったのではないか。

・季節の挨拶・・・気温の変わり目?区切りとしての24節季がある。

 その地の空気感を伝えてくれる、沖縄から北海道に季節を伝えることができる、

 気持ち的にトラベルする。

 遠い地方の人と五感で感じる世界を共有する装置なのか?

・今でこそ、季節が巡ってくることは、地球の地軸が傾いているためだとわかる。

 昔は、それが不思議だったと思ったはずだし、季節の移り変わりは感動だった。

 純粋にその感動を人に伝えたかった。

 感動こそが、季節の挨拶の原型だと思う。

・日本に限定して、貧しかった頃は年を越すということはしんどかったと思う。

 今はそれが無いから、年越しも形骸化しているのではないか?

 ただ、良かったねという裏の意味があるのではないか?

・社会というのは仕組みができると、形骸化が始まるのだろう。

・冠婚葬祭といった付き合いよりも、季節の挨拶をする相手は利害が少ない人とも交わすことができる。

・季節の変わりは、みんなが共有できる。冠婚葬祭は関係者しかわからないので共有できる範囲が異なる。 ・感動を誰に伝えるということは、本当はどうでも良いことで、感動を持っていた自己が、たまたま他者に  会った時にそれが表出するということだと思う。

 だから、感動を伝えるときには、相手を選ばないのではないだろうか?

 そこに暴力性を感じてしまう。

・季節という言葉自体が形骸化しているのではないか?

 現代は温度変化でしかないのでは?

 ラッピングに季節感を出している程度

・社会的儀礼、年末の挨拶をすることにより、近所付き合いはうまくいっている。

 つまり、最低限の関係を保っているので、形骸化ではないだろう。

・形骸化と共有化ということではないか。

 アケオメ、メリクリ、ハピハロには、感動の共有がなったくない。

 あるのは時間軸の共有や確認くらい?

 1/1になったらあけおめ、12/24ではメリクリといったパターン化したただのアイコンとなっている。    アイコン化は友人同士の良い関係をつくることには使えるが目上の人には使えない。

 挨拶の意味合いは、共同体の確認して自分が生きる場所を確保する。

・私は雑談が苦手なので、ネットで検索すると、季節の挨拶を会話の糸口として使えと書いてあった。

 海外でエレベータに乗ったときに黙っていると敵意があるかもしれないと思われると聞いた。

 価値観・宗教などが違う同士では、無難なネタとして季節の挨拶的な会話が使われるのだろう。

・挨拶は、適切にお互いの関係にふさわしい言葉を選ぶことによって

 お互いの関係が確認され維持される機能があり、簡略化された中でもそれは変わっていない。

 <季節の挨拶の特徴とは何でしょうか?>

・私が今時分の季節に「世間の風もだいぶ冷たくなりましたが、しぶとくお過ごしですか?」

 という挨拶のメールをよく送ります。

 このような表現ができる日本語は言語として豊かな言葉だと感じます。

 このような表現の挨拶に対して、夕方に放送しているアニメのDr.スランプのアラレちゃんは

 挨拶がいつも「ンチャ」だけで済んでしまう。便利だが何とも味気ない。

 私の誕生日は5月なのですが、5月には「風薫る5月」というような表現の挨拶もある。

 こういう文化は残していきたいものだと思います。

・営業をやっていた時、新規開拓の時には、季節の挨拶はとても使う。

 最近のビジネス書には、それを使う人はダメと書いてあった。

 また、なにか事件があった時、容疑者のことを近所に方に聞くとあの人はよく挨拶をしてくれる

 ということで、そんなことをするとは思えなかったという話をよく耳にする。

 人を判断する材料として挨拶が挙げられている。

・山登りの時もすれ違う人には挨拶をする。

 山仲間という仲間意識からでは、事故したときに覚えていてもらうため?

・共有している経験の最大公約数なのかな?  昨日見たテレビの会話は、共有する可能性は低い。

・ロードバイクでも挨拶をすることがあるがロードバイクは親しみ100パーセント。

・営業の挨拶でもラッピング効果で、季節の挨拶が入ると柔らかくなるのではないか?

 ギスギスしたものが柔らかくなる <これが季節の挨拶の特徴と言えるものは?>

・季節の挨拶は時間軸と世界観の共有。  年が明けた、春が来たということを共有している。

 このため、これを共有できない者たちにも同じ感覚を強制する力がある。

 季節の挨拶は、時間軸に沿って、その時期に勢力を拡大する。

・あけましておめでとうございますというのは、季節ではない?

 季節というよりも、1年の起点、ゼロ点を作るものではないだろうか?

・年賀状はこのような時間軸の共有の代表なのではないか?

・季節には、時節という意味もあるので正月も季節に入るのでは。

・新聞の俳句欄をよく見る。

 俳句に季語があるのは、相手との距離を保つ抑制の美だと思う。

 季節の挨拶も抑制の美では。

・変化に対する感動の共有

 季節の変化という1日の変化よりも大きな変化に対する感動を共有する。

 <季節の挨拶とは>

・ちょっと、疎遠な人にも唐突感をなくすためのコミュニケーションのツール。

・品があって、情緒があるソフトジャブ(会話の糸口)

・一言で言うと共有。挨拶よりも彩りのある。

・自然観が反映されたコミュニケーションのツール(新緑が目にしみて)

・日本語じゃないと表せない。翻訳できない表現。

・会話の土俵を合わせるための最初の一文

 

ここで終了。 いつものごとく、参加者それぞれ楽しく過ごしたひとときとなりました。

 

(作成: なごテツ世話人 羽根田、寺井、荒井)

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