第49回 哲学カフェ

「純粋」とは

2020年2月8日(土)

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カフェ・サンラファエルさまの入り口
カフェ・サンラファエルさま

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日 時: 2020年2月8日(土) 13:00~15:00

場 所: カフェ・サンラファエル

    (名古屋市西区名駅2-11-8 ファーストビル大樹1階)

     地下鉄「名古屋駅」1番出口より北へ徒歩5分

テーマ: 「純粋」とは

進 行: 水野 生惠

参加費: 飲食代実費(440円~)

定 員: 20名  

参 加: 24名 男性14名 女性10名 

《ご案内》

辞書を引くと「まじりけがない」「邪念がない」などという意味が出てきますが

そもそも「まじりけのない何か」ってあるのでしょうか。

キラキラして美しく清らかなイメージのある「純粋」。

混沌とした世界のどこかに、ひっそりと隠れているかもしれない「純粋」。

それはどんな風に在るのでしょうか。。。もしかしたら心の中にも?

それぞれが感じる「純粋」について、考え、語り合ってみたいと思います。

 

初めての方も歓迎です、どうぞお気軽にご参加ください。

まだまだ寒い日が続いていますが、今日も哲学対話の為にたくさんの方々が 集まってくださいました。

ありがとうございます。

 

さて、今日のテーマは「純粋とは」です。 はたして、どんな純粋のお話が出てくるのしょうか。

以下に対話の一部をご紹介します。

 

・純粋を辞書で引くと次のように書かれています。 まじりっ気がない。  邪念がない。  完全なこと。

・清く正しく美しい生き方がある。清々しい。(快も不快もない状態)

 今の自分は幼いときから比べると、非常に欲張ってきている。

 そうなる以前の自分の  経験が純粋経験。

・ゴミ屋敷のゴミ(欲望)を取り除けばただの部屋が残る。それが純粋経験では。

・純粋という話だと、世の中に本当に純粋なものはないと皆さんは言うと思いますが

 自分が行動するときは、行動と意識(しようとする気持ち)が一致している

 その繋がり自体は純粋ではないでしょうか?

・子供は純粋ではないだろうか?  子供は良いというものを信じやすいという意味では純粋だと思う。

 邪気がない。大人は言わないことも、ふと言ってしまう。

 純粋では生きていけないと思うが、なんとなく純粋は良いものだと感じてしまう。

・職場にいる20歳の若い研修中の子が純粋だと思う

 自分の思う通りに行動しているように見える。

 だが、それは気遣いがなく、デリカシーがないように感じてしまう。

 特に意識した言動ではないので、ある意味純粋なんだろうと思う。

 良い悪いではなく、そのようにある、ないではないだろうか。

・純粋は取り扱いが難しい。

 まじりっ気がないので他と妥協しないし、自らを主張し続ける。

 こういう人がいると正論なので否定できないが取り扱いに困る。

・純粋な色は、いずれ混じり気のある鈍い色変わるという性質を持っている。

 水槽に、青と赤を入れて、他っておくと自然に混じり合って紫になる。

 純粋な色はポジティブに感じるが、絵の具にある色を全部混ぜると灰色になってしまう。

 灰色をなぜネガティブに感じるか。それは色が混じり合った時間を感じてしまうからだ。

 なぜ時間を感じるのだろうか、ジャングルにいた人類の祖先は、純粋な色の果物は新鮮だが

 灰色、つまり時間のたった状態の果物は、腐敗して細菌がいることを経験している。

 時間=細菌という感覚で、ネガティブに感じてしまうのではないか?

・純粋というと、天然という言葉に変わる。

 女性で天然な人はいないのでは。どこか計算しているて純粋を装っているところがある。

 それに対して男性は天然な人がいると思う。

・純粋という言葉に良いイメージがない。

 言葉が純粋というものどうかと思う。

 子供は純粋だというのは違うのではないだろうか?

 あるがままがに振る舞うのは純粋ではないと思う。

 純度が高いものを出すためには、雑味を排除しなければならないが、それは人工的な匂いがする。

 雑味を排除したもののと本来の純粋では意味が違うと思う。

 純粋の純は垢抜けをしているということではないか。

 純粋さを出すよに、作られたものでは。

 (雑味とは、自分の損得を考えることではないか)

・純粋という言葉には価値を感じてしまう。それは希少性があるからかもしれない?

 つまり、純粋=珍しい=価値がある。

・純粋な人と単純な人は同じなのだろうか?

・純粋は良いことなのか悪いことなのか?

 純粋であることと、純粋を表現することは違うことだと思う。

 純粋な気持ちがあっても、言いたいことを言わないことは純粋ではないことなのか。

 それには社会的評価が関係するのかもしれない。

・人の気持ちの純粋さ。

 王様は裸だと大人は分かっていても社会経験を積んで、本当のことを言うことが有利でないことを

 知っているので裸とは言えない。

 ストレートに思っていることを出してしまったら、社会から見たら邪悪な存在となってしまうのではない

 か? 純粋な人がいると、困ることもあるが、そういう人を嫌いにはなれない。

 可愛らしさ、羨ましさなどを感じることがある。

・純粋、天然、単純、自然も似ているような使い方があるのだろう。

 片岡鶴太郎さんは純粋な感じがする。

 お笑い→ボクサー→ヨガ。それぞれやりたいと思ったことを極めている。

 それでも、自分100%ではなく人を見ている。他者を感じている。

・純粋の中に、粋を感じる。

 粋と野暮  単純な赤をダサいと言える粋な心もあると思う。

 分析哲学の論文は、純粋だなと思う。裏で計算が働いている。

 図書館で、哲学の本が返ってこないと言われる。(哲学好きはそういうことに無頓着?)

 純粋なものを作ることを、純粋でないものが支えている。

・天然と単純と純粋

 単純・・・ある人の行動のありようが、フィットしている。

 純粋・・・ある人の行動のありようが、ある基準に促している。 大切なもの。

 天然・・・ある人の行動に対して、社会がどのように反応しているか?

・単純と純粋と天然とか、つながっているのではないか?

・純粋な人とは、その人のいろいろなものも含めて、そのものの人のことを言うのではないか。

・プライドを持たない人も純粋ではないか。

・人である限り、純粋にはなれないのではないか。

・純粋の「粋」は「粋(いき)」とも読むが、そもそも「粋(いき)」はカウンターカルチャーであって

 正統ではない。

・純粋というのは、作られていないカッコよさを言うのではないか。

・AIは純粋なのか?  AIは考えるわけではない。ただ、純粋に行動するだけ。

・富士山の天然水は、純粋とは言わないのではないか?

 混じり気がない。邪念がない。無菌状態にするためには、無菌状態のところで作らなければならない。

 純粋であるためには、雑味を入れなければならないのではないか?

 →雑味があった方が。雑味がなんであるかを理解していないと純粋に辿り着けないと思う。

 漫画の Dr.STONE を見ての話ですが、石から何かを作るためには、その石に何が含まれているかを

 知らなければならない。純粋にするためにはその前に分析をしなければならない。

 そのままではない。 例えばシリコンは99.9999%の純度を求められる。

 それをどこまでを保証するのか。

 科学の世界では、深く理解して、何が含まれているかを理解する。   

 それと同じように、自分の中に何かの価値観が混ざっているということを理解して判断している。

・何も情報を入れていない状態が純粋と言ったが、全ての偏りを入れて、それを滑らかにしたものが  

 限りになく純粋ではないか?

 純粋は黒か白かではなく、光の三原色を混ぜると白、色の三原色を混ぜると黒のようなもの。

 哲学カフェで、ある場合、黒になったり白になったりする。

 清々しくなっても、すぐにチャチャを入れたくなる。(体験談)

・経験から、自分が自然に純粋と決めるのではないか。

 私たちは自然に偏見を持って判断を行っているので、過去の経験を活かせていない。

・子供を純粋と思うのは、外から見て純粋と思っている。  子供自身は純粋と考えていないかもしれない。 ・人として、純粋ということを考えるときに、世の中には純粋なものしかないという

 考え方をしてみる。

 純粋というのは、捉え方の問題のようにも思う。

 宇宙から見たら、人間は純粋。子供同士で見たら、純粋ではないが、大人から見たら純粋。

 その大人も、老人から見たら純粋かもしれない。

・人間は、みんな純粋だと思う。自分のしたいことしかしないから。

・なるようにしかならないことが純粋。と言う見方もできるのでは。

・自然法則には純粋と言う見方もできるかもしれない。

 人間が色々なものを発明したものも自然の法則だと言う見方もできるかも。

・宇宙から見たら、地球からで、純粋の考え方が変わる。

 自然の法則を人間に当てはめると、人間は他の役に立ちたいと言う遺伝子を持っている・・・?

 大いなる力・・・?  

 

などなど、このあとも対話は続きましたがご紹介はここまで。

(作成: なごテツ世話人 羽根田、荒井)