第3回 哲学カフェ 良い選択とは?

2016年6月11日(土)

記録ご投稿



■  日 時: 2016年6月11日(土) 13:00~15:00
   場 所: カフェ・サンラファエル

     (名古屋市西区名駅2-11-8 ファーストビル大樹1階)

      地下鉄「名古屋駅」1番出口より北へ徒歩5分

テーマ: 良い選択とは?

進 行: 荒井豊

参加費: 飲食代実費(440円~)

定 員: 13名

申 込: なるべく事前にお申込みください。

     (定員に達し次第、締め切ります。お申込みがない方は席に余裕がある範囲で先着順でお受けします。)

     お陰様で申込みが定員に達しましたので、事前受け付けを終了致しました。

申込先: staff☆nagotetsu.sakura.ne.jp (☆を@に変換してください。)

主 催: なごテツ

共 催: カフェフィロ

備 考: ① 100円程度のご寄付をお願いしています。(強制ではありません。)

   ② 写真撮影と対話の録音をさせて頂いております。NGの方はお申し出ください。

 

《ご案内》

私たちの生活は選択することで溢れています。朝、何時に起きるかに始まり、昼、何を食べようかといった小さな選択から、どこに就職しようかといった大きな選択まで、毎日、多くの選択をしています。そして、このような選択が私たちの人生を創っていると言ってもよいかも知れません。では、よりよい選択をするには???
考えるひとときをもってみませんか。初めての方も歓迎です。どうぞお気軽にご参加ください。


~記録~

-世話人の呟き-


~参加者からのご投稿~

[ご説明] 哲学カフェでのやりとりを多くの皆さまと共有する場として開設します。

       イベント終了後2週間程度を目安に、参加者の皆さまからのご投稿を募集します。

       当日の感想や、後で気づいたことなどを気軽にお寄せください。

       参加者同士のさらなる対話の場としてもご活用ください。

[ご注意] 「ホームページ」欄は、ご記入なしで構いません。

       「名前」は匿名や変名でも構いません。(後で変更はできませんので、ご注意ください!)

       ご投稿はなごテツが発行および許諾した印刷物や電子媒体で複製・転載する場合があります。

       あらかじめ、ご了承の上、ご投稿をお願いします。

哲学カフェから約2週間(+1週間)が経過しましたので、ご投稿の受付けを終了致しました。

ご投稿、大変ありがとうございました。

コメント: 11 (ディスカッションは終了しました。)
  • #1

    からす (水曜日, 15 6月 2016 22:08)

    良い選択とは?
    アメリカンドリームへと続く道である

    おそらく選択を良い物とする文化の一番端にUSAがあると思う
    反対側にある古くからの文明と比較しようとすると
    その時点で「良い選択とは?」という土俵に乗ってしまい
    おかしな議論になってしまう気がします
    比較に持ち込んだ時点で勝敗が決まっている
    良い選択とは?と考えている時点で
    選択できることは良いという考えから逃れることができなくなる
    選択しないことも「選択しない」を選択したことになる
    「選択しない」ことは良い選択であったのか?
    なにかがおかしいと考えるのですが
    土と生命からあまりに離れた都会暮らしをしているので
    自由選択の反対側にある豊かさを表現する
    地に足のついた言葉が出てこない
    なんとも快適で不自由な生活かと考えてしまう

  • #2

    mn3 (木曜日, 16 6月 2016 13:44)

    責任回避したい医師の話題、興味深く聴きました。
    そのバリアントですが、
    AがBを殺そうとして「チーズケーキ」「ショコラ」「プリン」をBに呈示します。
    Aがそれら、それぞれのスウィーツに「ヒ素」「青酸カリ」「フグ毒」を前もって混入しておきます。
    Bはそのことを噂では知っているのですが、確信は持てません。
    BはAからスウィーツを一つ自由に選択して食べてみてと言われます。
    Bは確かに自由に3つの中から選べるのですが、AのBの殺害という主導権は揺るぎません。

    Bは他の人も皆んな大勢、Aからのスウィーツを食べているという風評を聞いており「まあ、気にすることはないだろう」とプリンを選択します。

    この場合Bの死は、Aの意図でありながらBの自由意思でもあり、不注意でもあり、不安な気持ちを自分自身だまし、あるいはだましたという事すら意識にのぼらぬようにした結果となります。
    Bがどのようにあがこうが、選択権を与えたAの意図が行使されます。

    長くて分かりづらい譬えでした。


    また、哲学カフェで「良い選択」というのが、自然「最善の選択とは何か」となって、意見が交わされていたようです。良い選択はできますが、「最善」は神様でない限り、荷が重すぎるでしょう。だから、選択をしない、という立場が生まれてきてしまいます。「最善」ではなく「良い」選択なら、そんなに気負わなくとも可能ではないのだろうか、と思いました。でも確かに過去の選択は成功か失敗かの2通りとして心に刻まれますしね。むずかしい。

    長くなったついでに書いてしまいますが、今から何百年後、人類が生きていてテクノロジーは超発達した未来。自分のDNAに手を加え自由に、例えば人間のままではなく、屋久杉にメタモルフォーゼ出来るようになったら、(現在の感覚では極めて自死に近いようだけど)誰もその選択を制止できないのかどうか。などの難しい倫理の問題が出てくるのかな?(手塚治虫の火の鳥で、なにかそのようなもの描かれていましたね)

  • #3

    からす (木曜日, 23 6月 2016 23:10)

    インフォームドコンセントは誰にメリットがあるのか?
    誰のために誰がつくったのか
    その結果誰のためになっているのか?
    とても面白いテーマだと思います
    ほとんどの場合には知識に非対称性があり
    医者が有利に説明しても患者側には判断材料がない
    それでも患者側にもメリットは多くあります
    問題がなければ先送りにしたいなどの判断は選べれます
    さすがに命にかかわる場合などは選ぶのに躊躇しますが
    セカンドオピニオンなど他の医者に相談するなどの手段も可能です
    努力するか知識があるか相談できる良い相手があれば選択肢は広がりますが
    努力を放棄すれば言われるままに判断するしかない
    運の要素もとても大きいといえるでしょうか
    私の認識ではインフォームドコンセントは患者側が勝ち取った?権利でしたから
    医者が責任転換をするためのツールという考えは新鮮でした
    良い選択をするには知識への投資が必要
    良い選択をしたかを知るためにも
    良い選択とは
    その選択をするために積み上げた選択なのか
    その選択を選んだ時なのか
    その選択を良かったと判断する選択をした時なのか
    いつのことを指すのでしょうか?

  • #4

    mn3 (日曜日, 26 6月 2016 00:04)

    からすさんのコメント#3において
    インフォームドコンセント→普通選挙
    医者→政治家
    患者→国民
    に置き換えても話の大枠は掴めますね。

    色々な政策を選択する政治家を選ぶ国民は、政治家を選ぶとき候補者のイメージで選択しがちですが
    こういう政治がらみの話題って、哲学カフェでNGですか?

    カフェの後半「わたし」という言葉は近代のフィクションだというくだりがありましたね。
    日本で言えば江戸時代まで、日本の人口の殆どをしめた農民は自分のことを「わたし」とは言わなかったでしょう。
    とすると選択をするとき必須の「わたし」は不在なわけで、『選択をする』ということ自体が全くのフィクションであったのでしょうか?
    明治以後、国民が自分の意思で働いたお金で「わたし」が選択した商品を買う、という資本主義の造成により「わたし」が生まれたのでしょうか?
    とすると資本主義を超えた何ものかが世界を覆うまで、「わたし」という言葉は安泰.........と思いつきでコメントしましたが、何となくわかってもらえましたでしょうか?

  • #5

    からす (日曜日, 26 6月 2016 21:09)

    mn3の観点面白いですね!
    政治への置き換えは頭にありませんでした
    政治がらみの話は面白いと思いますが
    政治的主張の強い人が参加したときに楽しめるかどうかですね・・・

    「わたし」と「選択」の話は私には理解できませんでした
    現代の学問上の「わたし」の定義は存在しなかったかもしれませんが
    わたしがどの選択をするのか?が存在しなかったとは思えません
    それは農業が選択を伴わないということなのでしょうか?
    産業革命以前の職業がレベルが低く
    現代の仕事は科学的でレベルが高い
    そうなのでしょうか?
    奴隷として単純作業を強制させられた人たち以外は
    高度な精度の選択をしなければ生存できなかったと思います
    現代の我々は選択を先送りする贅沢を許されています
    しかし作物が取れなければ飢え死にする
    獲物が獲れなければ食べる物がない
    生きるか死ぬかの生活に選択がないとは思えません
    占いや宗教などの迷信に頼っていては生き残れません
    経験から選択したことを効率良く伝える手段として
    占いや宗教を利用していたと思います
    農民は自分のことを「わたし」とは言わなかったのでしょうか?
    お金で買い物をしなければ選択が存在しなかったのでしょうか?

  • #6

    Mn3 (月曜日, 27 6月 2016 23:21)

    ウィラード大尉を待つカーツ大佐のような気持ちで#5を待っていました…。

    「わたし」が生まれたのと時を同じくしたのは『契約』の概念でしょうか。
    それまで「選択」が無かったというのはないでしょう。やっぱり。
    世界では近代以前でも「I make a choice~」という会話はいくらでも有ったと思います。

    ただ、カフェで『わたし、というのは近代が生み出したフィクションだ』とおっしゃった方の真意が未だ
    よく掴めなかったので、私なりに意味を探り、ついオーバーランしてしまいました。
    確かディスカッション終了間際『わたし、という言葉は無くなる』と更に仰っていましたね。
    ご本人かどなたか、其の辺の事情を知っておられる方はいませんか?

    私の誤読かもしれませんが、からすさんも指摘しておられるように例えば#1で『おそらく選択を良いものとする文化の~時点で勝敗が決まっている』のくだりからは、選択には欧米の、日本から見れば舶来品、というニュアンスを読み取れるのは事実ではないでしょうか?欧米と、儒教文化圏の日本とは明らかに立ち位置が異なる気がします。蛇足かなぁ~。





  • #7

    0 (水曜日, 29 6月 2016 14:04)

    Mn3さん こんにちは

    >カフェで『わたし、というのは近代が生み出したフィクションだ』‥
    「"人間(自由な選択の主体としての責任ある個人とか)"というコンセプトは近代の西洋文化の発明」とかいうことを言ったつもりでした。
    そのあと、日本語には「わたし」という主語がないとかいう話になったので、言いまちがえてたかもしれません。

    でもMn3さんの#4の「わたし」のニュアンスには共感します。
    あの場で言いたかったことに通じてると思います。

    >それまで「選択」が無かったというのはないでしょう。
    もちろん近代以前にも現代から見れば「選択」と"呼ばれる出来事"は起こっていたと思われます。(日本に限らず)
    それでも、今のような意味(視点)を持たされてなかったのでは?というような事が言いたかったことです。たぶん。
    たとえば、「日食」なんかは昔も今も同じように起こっていても、意味づけは違ってるという様な感じで。

    >『わたし、という言葉は無くなる』‥
    こちらも「わたし」>「人間」ということで‥。
    この部分に限らずこの話題全体のモトネタは、ミシェル・フーコーの言葉です。(多分に誤解からの我田引水ですが。)

    「人間は波打ちぎわの砂の上に描いた顔のように、消滅するだろう」---「言葉と物」

    検索したらこちらのページにわかりやすい解説がありました。ご参考に引用しておきます。

    「近代生まれの人間」は、終わりを迎えようとしています。なぜなら、近代の人間の「主体」
    や「意識」というものも、無意識や社会の構造に捏造されていると考えられるようになってきたからです。
    ---いちばんやさしい哲学の本 著者: 沢辺有司
    https://books.google.co.jp/books?id=p_tdDAAAQBAJ&pg=PT205&lpg=PT205&dq=%E3%83%95%E3%83%BC%E3%82%B3%E3%83%BC+%E4%BA%BA%E9%96%93+%E7%A0%82%E3%81%AB%E6%8F%8F%E3%81%84%E3%81%9F&source=bl&ots=5KETSYVEW7&sig=V5Ll4dB8YDG7_AcuvIN1iUwDPGM&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwjDtc_y7sbNAhVEGJQKHYPZD2sQ6AEIPTAF#v=onepage&q=%E3%83%95%E3%83%BC%E3%82%B3%E3%83%BC%20%E4%BA%BA%E9%96%93%20%E7%A0%82%E3%81%AB%E6%8F%8F%E3%81%84%E3%81%9F&f=false

    長文失礼しました。

  • #8

    Mn3 (木曜日, 30 6月 2016 12:17)

    0さん #7ありがとう! 
    ミシェル・フーコーだったんですね。フーコーへは、彼ら欧米のひとが辿っていくのと違って
    私たち東洋人が向かっていくのは、道のりがかなり異なる気がします。
    それでもフーコーにはやられてしまいますね。

    choice selection preference option voice election
    これらは「選択」を和英辞典で調べたらでてきたものです。
    西洋では、個人が自由に対象を選ぶ権利があり、尊ばれることをあらわしたものだと思います。だから
    こんなに類語があるのでしょう。
    一方、東洋において選択の『選』という文字は、神様のまえで二人が舞を舞っている絵をあらわしたものだそうです。二人は選ばれしもの。転じて選ぶの意味に。
    どこか宿命、運命を感じさせます。

    選択は「自由」がキーワードだと思います。
    しかし、心理学のある興味深い実験から「人は意識下で決定したと本人が、思っていることも、
    実は無意識がそれに先んじて決定している」という事が明らかにされているそうです。
    では、なされた選択は誰が責任を負うのか。
    意識下でコントロールできないものを「無意識」と名付けたのだから
    無意識下でその人が決めてしまった事を、その人の責任にするのは矛盾です。
    では、為されたことは誰が責任をとればいいのか?

    そこで西洋と東洋の思想を流用(誤用?)すると
    『選択するまでは個人の意志で選びとり、選択し終えたらそれは宿命、運命なのだ』と。
    これが「永劫回帰」の僕なりの解釈です。


  • #9

    0 (金曜日, 01 7月 2016 19:00)

    >東洋において選択の『選』
    >心理学のある興味深い実験
    >西洋と東洋の思想を流用
    面白いですね。

    機会があれば哲学カフェでこれらの話ができるといいと思います。

  • #10

    からす (金曜日, 01 7月 2016 21:07)

    『選択するまでは個人の意志で選びとり、選択し終えたらそれは宿命、運命なのだ』
    運命論を擁護するならば
    あなたがその選択をするようになったこと
    自分で選択したと思うようになった経験自体が運命である
    最初に記載した内容
    「良い選択とは? アメリカンドリームへと続く道である」も
    USAに生まれて自分が選択することができると思うようになったことが
    その人の運命であるといえるでしょう

    また西洋と東洋の定義なのですが
    これは地理学で別けるのでしょうか?
    かつてイスラムに支配されたギリシャやスペインは歴史的には西洋なのか?
    トルコは地理的には半分東洋で半分西洋ですがどちら?
    アフリカは?
    キリスト教の発祥は東洋ですが発展したのは西洋
    西洋哲学とされている様々な定義も西洋で再発見されて定義されただけで
    元ネタが東洋のものも多そうな気がします

    派生ネタ
    西洋文明はヨーロッパの文明
    最近の話題のEUからもしギリシャとイタリアが抜けたなら
    EUはヨーロッパの中心といえるのか?

  • #11

    Mn3 (金曜日, 01 7月 2016 23:48)

    からすさんの『また西洋と東洋の定義なのですが
             これは地理学で別けるのでしょうか?
             かつてイスラムに支配されたギリシャやスペインは歴史的には西洋なのか?
             トルコは地理的には半分東洋で半分西洋ですがどちら?
             アフリカは?』
    たしかに。
    多分彼らは、西洋=かつてor今、世界を支配したことがあり尚かつ主にキリスト教を奉じている
    と考えているのでしょう。
    アフリカは第三国と名づけられます。
    このように西洋の歴史観に疑問を呈することなく、書き込んでいるわたしは、〈非西洋〉国の歴史教科書を読む必要性を痛切に感じました。
    『キリスト教の発祥は東洋ですが発展したのは西洋』
    盲点でした。
    『西洋哲学とされている様々な定義も西洋で再発見されて定義されただけで
    元ネタが東洋のものも多そうな気がします』
    だとしても、西洋の哲学者は口にこそしなくても東洋哲学を軽んじてますね。
    何故でしょう?やはり世界を支配し、かつキリスト教を奉じている国が一等国と盲信してるのでしょうか?だから、この盲信を覆そうという勢力には、なりふり構わず戦っていくのでしょうか?
    『西洋文明はヨーロッパの文明』には次の句が思い浮かんだので。
    F.シュナイダー「中世におけるローマとローマ理念」より
    ドイツは帝権を
    イタリアは教権を
    フランスは学芸を

    [永劫回帰]に関してはもう少し書き足すと、
    常に人間は〈今=現在〉を生きている、自由意思の子供として。
    しかし過去を振り返ったとき、そこに〈宿命、運命〉が産まれる。
    では未来に思いを馳せたとき、〈絶対者=宇宙の神秘=超人〉があたまを、もたげようとする、と。



第3回 哲学カフェ 良い選択とは?

2016年6月11日(土)

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