第11回 哲学カフェ 祈り

2017年1月14日(土)

記録ご投稿



■ 日 時: 2017年1月14日(土) 13:00~15:00

場 所: カフェ・サンラファエル

     (名古屋市西区名駅2-11-8 ファーストビル大樹1階)

      地下鉄「名古屋駅」1番出口より北へ徒歩5分

テーマ: 祈り

進 行: 井下賢一

参加費: 飲食代実費(440円~)

定 員: 13名

申 込:  staff☆nagotetsu.sakura.ne.jp(☆を@に変換してください!)

定員に達しましたら締め切りますので、なるべく事前にお申し込みください。お申込みがない方も席に余裕がある範囲で先着順でお受けします。お早めにいらしてください。
※定員に達しました。キャンセル待ちを受付中です。 ←キャンセル待ちを終了いたしました。

主 催: なごテツ

共 催: カフェフィロ

備 考: ① 100円程度のご寄付をお願いしています。(強制ではありません。)

     ② 写真撮影と対話の録音をさせて頂いております。NGの方はお申し出ください。

《ご案内》

 私たちは様々な場面で祈りをしています。年末年始は特に神社やお寺などに詣でたり、日の出を拝む人も多いと思いますが、日常でも、仏壇や神棚に手を合わせたり、何も前にしなくても神や天などの神聖なものに祈ることをしたりしています。

 私たちはなぜ祈るのでしょうか。そして、祈るとはどういうことなのでしょうか。皆様とともに祈りについて考えていきたいと思います。初めての方も歓迎です。どうぞお気軽にご参加ください。


~記録~

―開催報告―

なごテツ 第11回 哲学カフェ 祈り

日時: 2017年1月14日(土) 13:0015:00

会場: カフェ・サンラファエル(名古屋駅東口)

進行役: 井下賢一        参加者: 14

 

さて、新年第1回目の哲学カフェは大寒波襲来により交通機関に影響があることが予想され開催が危ぶまれる中で当日を迎えました。楽しみにされている方も多いので、世話人としましては「祈る」ような気持ちでいましたが、なんとか天気が持ちまして開催ができました。

 

さて、開始となりましたが、最初の発言が難しいかもしれないということで進行役より、取っかかりの話がありました。メールなどで相手の体調がよくないとき最後の方で「早く良くなるよう祈っています」と書いていたが、実際には何かに手を合わせている訳ではなく宗教色があるような気がしたことから、「早く良くなるよう願っています」に変えたことがあったということです。

祈りと願い。あまり意識していませんがなんか違います。

 

 

これに対して、次のような意見が上げられました。

祈り-

  •  自分の欲を超えたもの
  •  霊的なもの
  • 聞きと届けてもらうもの
  • 祈りのほうが気持ちが強い
  • 自分でできないこと。
  • 神様に対して行うもの-神との対話
  • 仏壇に祈る
  • ご先祖様に祈る->子供の頃はお願いごと、大人なると近況報告になっている。
  • 対象が自分を超えたもの
  • 祈りが見える形になることもある->お守り

願い-

  • 自分で努力すればできること
  • お父さん、お母さんにお願いをする
  • 対象が自分と同等もある

などなど、ここまでは祈りと願いの違いについて意見が続きました。

どうも、願いと祈りは違うということで良いようです。

 

当日は気づきませんでしたが、祈願という言葉も出ていました。

この言葉は祈り願うとなっています。あまり突っ込んだ検討ができんかったのが残念。

 

 

このあと祈りについてはちょっと深掘りされていきます。

  • 自然に入ると祈る。自然は本来は怖いもの、街にいるから守られているから祈らない。
  • 山で雷に会うどうしょうもないので必死に祈る
  • 人事を尽くして天命を待つ
  • 祈りに現実的な力があると思うか
  • 祈ってからことに望むと意識が違う
  • 祈りは畏怖する相手にするもの
  • 自分の力のたりなさを祈る
  • 大晦日や元旦は皆の意識が違う。
  • 目に見えない力に自分を委ねる
  • 結果が自分の意に沿わなくても受け入れる
  • 神というのを命に置き換えると納得できる

このように参加者の言葉は続き、いつものごとく時間切れ。

悪天候の中を参加していただいた皆様、ありがとうございました。

(作成: なごテツ世話人 荒井豊)


~参加者からのご投稿~

[ご説明] 哲学カフェでのやりとりを多くの皆さまと共有する場として開設します。

イベント終了後2週間程度を目安に、参加者の皆さまからのご投稿を募集します。

当日の感想や、後で気づいたことなどを気軽にお寄せください。

参加者同士のさらなる対話の場としてもご活用ください。

[ご注意] 「ホームページ」欄は、ご記入なしで構いません。

「名前」は匿名や変名でも構いません。(後で変更はできませんので、ご注意ください!)

ご投稿はなごテツが発行および許諾した印刷物や電子媒体で複製・転載する場合があります。

あらかじめ、ご了承の上、ご投稿をお願いします。

イベント終了後、約2週間(+1週間)が経過しましたので、ご投稿の受け付けを終了いたしました。

コメント: 21 (ディスカッションは終了しました。)
  • #1

    からす (日曜日, 15 1月 2017 16:21)

    祈りとは人が持つことができる最も強いおもいである。
    誰の言葉なのかは知りませんが人から聞いて考えたことがあります。
    なにかを願うときには思った先にアクションがある。
    計画 実行 評価 改善などなどに結びつけたり
    前向きではない方向に心が向かっておもいは目的に変質してしまう。
    それに対して祈りは祈りである限り何ものにも変わることがない。
    人が持つことができる最も純粋なおもいとも言えるのかもしれない。
    しかし祈りを継続することはとても困難で不安定なため
    お守りという形を求めたり
    百度参り、好きなもの絶ち、ジンクスなどの願掛けを探したり
    大いなる存在などを求めたりする。
    祈りのエネルギーは神を生み出してしまうほど強い物なのかもしれない。

  • #2

    Mn3 (月曜日, 16 1月 2017 22:54)

    「祈り」というと、なにか静謐な崇高なもののような気がする。
    何故だろう?
     だが、生まれて今まで一度も「あいつなんて死ねばいいんだ!」と呪いの言葉を、口には出さなくてもつぶやいたことのない殊勝なひとはどれだけいるのだろうか?
    そういう黒い祈りを、いったいどれだけ司祭は告解として、受け止め神に許しを求めたであろうか?
    そういう黒い祈りを=呪いを、わたしたちは飼いならすことができただろうか?
     「ひとの不幸を喜ぶなんて!」と眉をひそめながら異教徒に対して「あんな奴ら人間じゃない!」と人類はどれだけ「聖戦」を戦ってきただろうか?
    この負の願いがある限り「神」は失業することもないだろう。
     中世、日本の貴族はこうした呪いに怯え慄き、なにも仕事が手につかない者もいたと、学校の日本史で習わなっかただろうか?(少しオーバーだが)。彼らのおそれは、裏を返せば自分たちの負の祈りが、尋常ではない大きさであるという自覚でもある。
     現代、ESPが国家によって真剣に研究されている(た?)とTVなどで見聞きした人もいるだろう。
    「彼らは誘拐事件を解決した!」「てがかりのない失跡にヒントを与えた!」と賞賛している。
    しかし、ESPを利用しようという欲望は古代の為政者と同じだと見ていい。つまり黒い祈り=呪いをどれだけ実現できるか、ということに税金を.つぎこんできたというのは想像に難くない。
     おりしも今日の夕刊で或る少女の暗い欲望、実現に移したため犯罪となった事件の公判のもようが報道されていた。私たちが、この事件におののくのは、この元大学生の少女に対してではない。自らの猟奇的なもの.、黒い祈り=「ひとの死んでゆくところが見たかった」という暗い願いに対してである。もちろんわたしたちは実行には移さないし、「そんなこと、つゆとも思ったことない」と言うだろう。
     しかし元々人間には暗い部分もあるのが当たり前だ、と認めることから、この種の悲劇をなくす必要もあるのではなかろうか?私たちの日常から「死」があまりにも遠ざけられているのも一因だが、etc.色々浮かんでくるが、祈りというテーマから、どんどん遠ざかってしまうので、この辺で終わりにします。

  • #3

    からす (水曜日, 18 1月 2017 15:39)

    祈りに対義語はあるのだろうか?
    どうもしっくりくる言葉が思いつかない。
    呪いという発言は当日ありましたが
    そもそも祈りが清く正しいことなどというルールもない
    作法のある祈りが呪文と考える方がしっくりくる
    祈りと欲は関係あると思うのですが欲の反対は無欲
    でも無欲な生き物は存在できないので仮想の言葉なのでしょう
    人に欲がある限り願望としての祈りが存在する。
    「世界人類が平和でありますように」
    これほど大きな欲となると祈りとなるのでしょうか。
    それに比べれば自分が幸せにとか金持ちになど小さな欲にすぎない。
    対立する民族を根絶やしにしたいとかも小さく感じてしまいます。
    世界征服だって不幸な相手がいても良いのですから小さな欲に過ぎない。
    しかし最後に「願います」と付け加えると願いになるのでしょうか。
    それとも祈りであると判断する人がいれば「祈り」なのでしょうか。
    願いと祈りの違いは当日も何度も出てきました。
    願いは対象がいれば責任を負わせることができる
    お願いは聞くことも断ることもできる
    でも祈りには断る選択肢すらない
    祈りがかなった時に勝手に聞き届けられたと思い込むだけである。
    一方通行か双方向になりえるのかも境目なのかもしれない。

  • #4

    ミラー (水曜日, 18 1月 2017 22:08)

    祈り
    言葉で説明するのはとても難しいとおもいますが、、、
    例えば、映画「ショーシャンクの空に」で主人公が自由を得た時大空を仰ぐ仕草
    ドストエフスキーの「罪と罰」で ラストで大地にするくちづけ
    (本当は宗教的いみがあるそうですが)
    映画「怒り」でそれぞれがもらすためいき

    そんな 身体の中から湧いてくる感情を祈りととらえています。

  • #5

    Mn3 (水曜日, 18 1月 2017 22:44)

    「挨拶をしっかりしろ」と子供の時よく言われた。
    大人になって、そう言われることもなくなった。
    だけど、大人になって初めてその意味が解るようになった。
    挨拶は人間の最も初源的な「祈り」だということを。
    「ありがとう」は、滅多にない仏様の慈悲のようだ、の意味らしい。
    「いただきます」や「ごちそうさま」は他の命を殺生しなければ生きられない、人間の業の深さをあらわしたものといってもいいだろう。
    「さようなら」は、そうならなければならないならば、の意。そうなるのが避けがたい、運命であるのならば従いましょう、といったところか。
    「おはよう」は、お早くお起きになりまして、ご健康でおめでとうの略だとか。
    英語で「good-by」はGod be with youの略。訳すると、神のご加護を!だよね。
    日本は無宗教の国だと言われるが、逆に挨拶にいろんな意味=小さな祈り、が込められている様だ。
    日本のそんなところが西洋人には「神」のくに、と映るのだろうか。
    明日も早いでしょうから、もうそろそろ、「おやすみなさい」

  • #6

    Mn3 (土曜日, 21 1月 2017 21:45)

    人類前と人類後において
    ①まず他者が死んだという事実認定
    ②その他者が死んでもなんらかの形で生きているという想いの生成
    ③その死者が過ごすのが「天国」や「極楽」であって欲しいと願う、という精神構造
    以上のステップを踏んで初めて「祈る」ということが可能になると思います。
    宗教というと前近代的と見る人もいるが極めて知性的な行為のように見える。
    順序は前後するかもしれないが、人類は「天国」や「極楽」の主である「神」や「仏」を創造し「祈る」だろう。神の栄光を只々讃える祈り、
    芭蕉が「松島や/ああ松島や/松島や」と詠んだ松島のような「神」を。
    故人を悼む、冥福を祈る場合も自分の欲とは離れ、ただ他者のために他者を祈る。
    祈ると似た言葉で「拝む」というのが出てきたと思うけど、「神仏を前にその神々しさに打たれること」というニュアンスがある感じ。
    墓参りで手を合わせるとき、特に言葉は要らない。鏡を前に自分の命に手を合わせる時も同様かもしれない。
    言葉を用いたシステマティックな祈りのうち、キリスト教、イスラム教系の礼拝堂で行うのを「礼拝」、
    神道系を「祈祷」という気がする。
    そして問題の「祈願」。「神仏に祈る『自分の欲』を叶えようとする行為」といった感じを受けますがどうでしょう?

  • #7

    ミラー (土曜日, 21 1月 2017 22:36)

    言葉はどんどん増えているという話を聞いたことがあります。
    例えば、冷たいと寒いは 以前区別なくどちらも冷たいといわれていたとか、、、
    祈りにもたくさんの意味合いが含まれていて、そこから願いとか 拝むとか 派生していったのではないかと考えてしまいます。
    ①〜④までのステップを踏む前のただただ「ああ」という感情を祈りと思いたい!芭蕉が「ああ、松島」と思ったように、、と 思うことが祈りではなく願い 欲 になってしまったような気がします。

  • #8

    からす (土曜日, 28 1月 2017 14:46)

    なぜ人は祈るのか?
    祈りたいからだと思う
    後付けの理論はいくらでも付け加えれるが
    祈りたかったのだと思う
    私は祈らないという意見もありますが、
    祈らなくて良いようになりたいと願ったのではないかと推測できます。
    最初から祈りや願いという願望がなかった人は少数かと思うし
    祈らなくてもよい状態を継続したいと願っている可能性もある。
    現状を維持したいとうのも願望には違いない。
    過大な願いを持たないという小欲もまた願い。
    祈ることは本能であり止めることはできないのではないか?
    もちろんこれは祈りの範疇に願いや願望などが含まれていると
    仮定した場合にはなります。

  • #9

    Mn3 (土曜日, 28 1月 2017 21:46)

    これは言葉遊び以上のなにものではないのだが、
    祈られる存在は「祈る」という行為をするのだろうか?
    神は全知全能であるのに「一度でいいから死んでみたい」とか
    「実はわたしの存在は虚構なのだ」と思ったり願ったりするのだろうか?
    神が虚構ならば神の姿に似せて作られた人間は実在か?
    こういった言葉遊びには何か意味があるのでしょうか?
    そういえば中世、神学で「針の先には何人の天使が立つことができるのか?」(こんなようなことだったと思う)
    を真面目に学者が研究していたそうだから、
    あながち無意味と切っては捨ておけない疑問なのだろうか?
    ↑そうでありますようにと祈ることは、意味がある?

  • #10

    からす (土曜日, 28 1月 2017 22:45)

    神は祈るのか?
    某宗教のシーズン1では神の子が神に祈ってます
    そしてラストシーンで死ぬことを選択してます。
    シーズン2の冒頭で復活するシーンも有名かと思います。
    そして古くからある職業ですからマイナーなシナリオも多く
    廃業に追い込まれて残っていないシリーズには虚構宣言もあったのでは?
    偶像崇拝禁止なんかはライバルに虚構のレッテルを貼る戦略かと思います。

  • #11

    Mn3 (日曜日, 29 1月 2017 00:35)

    なるほど。キリスト教ですね。
    イエスは確かに叫んだようです。「我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか」と。
     わたしが思うにイエスは神でありながらも、また人間の要素も持ち合わせていますからね。
    そうではなく、孤独な神=イエスの叫んだ我が「神」は祈るのでしょうか?
    父と子と精霊、の父=神は祈るのでしょうか?
     自分の造った人間どもの堕落を見限って、洪水をおこしてノア(とひと番の動物たち)以外を絶滅させた怒れる神。
    感情の昂ぶりを「祈り」とするなら、全知全能のこの神も祈るのでしょう。
    しかし、この神は何にむかって祈りを捧げているのですか?
    偶像崇拝を禁じ、嫉妬する神の「嫉妬」という感情が「祈り」であるならば、何に「祈って」いることになるのですか?
    自らを超える存在は何もない筈なのに。
    祈りというと自ら以上の存在に対して祈るものでしょう。一神教のその一神は.何を拝めばいいのですか?(神を冒涜するつもりはありません。あくまで哲学上の疑問なのです。)
    死ぬ神は、復活する神=イエスは、人間の要素を持ち合わせています。そうではなく父なる神=孤独な神は自らの命を存在を自由にできるのですか?
    手塚治虫の漫画で究極の刑罰は「永遠に死ねないこと」であるというモチーフのものがありましたので、ついこのような疑問を持ったのです。
    絶対神の「神」は自らに罪を贖いさせ、自らを「祈る」ということになるのでしょうか?

  • #12

    からす (日曜日, 29 1月 2017 10:09)

    哲学カフェのルールではテーマから外れると進行役が指摘するとなるかと思いますが
    web掲示板では進行役が存在しないのでルールがないことになるのでしょうか。
    私も興味がある話題なので乗っかりますが
    2次創作のメジャーなものが正統となっている現状では
    そのプログラムに沿わないものは亜流、あるいは海賊版とされ
    支持者が増えて継続することができなければ存在は淘汰されるでしょう。
    現在優勢な勢力のプログラムにおいては祈らないでしょう。
    しかし手塚治虫が祈るという設定を作っていたならば(私は知りません)
    一定の支持者がいると推測されますので祈る神が存在するとも言えると思います。
    注意すべき点としては祈る神の存在が一神教ではなく多神教の一柱となった時点で
    その存在に矛盾が生じる点です。
    信仰している人は悩んで祈る神を唯一の神として信じなければならない。
    そういう神もいても良いでは一神教の定義が破たんして多神教となるので
    その神はもう全知全能の神ではない。
    多神教の神話の世界では祈ることもOK、悩みも妬みも嫉妬も存在します。
    なにも問題はありません。

  • #13

    Mn3 (日曜日, 29 1月 2017 11:11)

    》#12
    を読む限りでは一神教の、全知全能の神は祈らないと解釈して良いのですね。
    人間が全知全能の神を創造したとき、
    祈るという能力は(神に)付与しなかった、となります。
    祈る能力が欠けていながらも全能とは、これ如何に?
    という感想は単なるレトリックに過ぎないのか、一考に値するものなのか
    どうでしょう?

  • #14

    からす (日曜日, 29 1月 2017 12:41)

    ここは祈りについてをテーマとした哲学カフェの掲示板なので
    テーマから外れて全知全能の神について議論したいのであれば
    他の場所を探されては如何でしょうか。

  • #15

    Mn3 (日曜日, 29 1月 2017 14:24)

    祈り、神、切っても切れない関係があると思うのですが........まあいいでしょう。
    #8で
    》祈ることは本能であり止めることはできないのではないか?
    とありますが
    #1で
    》しかし祈りを継続することはとても困難で不安定なため
    とあります。本能なのに何故困難なのか?
    わかりやすく説明してくださると助かります。
    同じく#1で
    》祈りは祈りである限り何ものにも変わることがない
    とありますが
    》なにかを願うときには思った先にアクションがある。
    》計画 実行 評価 改善などなどに結びつけたり
    》前向きではない方向に心が向かっておもいは目的に変質してしまう。
    とあり願いと祈りが同じようなものではないか、とする
    #3の
    》人に欲がある限り願望としての祈りが存在する
    を踏まえると、願望としての祈りは、何ものにも変わることがない
    のか
    なにかを願うときには、~目的に変質してしまう
    のか
    一体どちらなのですか?
    折角、ご説明を願うのですから、もう一度気になったフレーズがあるので伺いますが
    #1で
    》祈りのエネルギーは神を生み出してしまうほど強い物
    とあるのに
    》しかし祈りを継続することはとても困難で不安定なため
    なのは、どういったメカニズムなのか、祈りのエナジーは強いのか、さほど強くはないのか?
    ご教授くださるとありがたいです。

  • #16

    いした(進行役) (日曜日, 29 1月 2017 14:49)

    当日進行役を務めさせていただきいた者です。
    皆様のご投稿をいつも興味深く拝見しております。
    からす様、Mn3様、ミラー様をはじめ、これまでご投稿いただいた皆様には、数多くのご投稿をいただき、この場を閲覧者の皆様とともに盛り上げてくださり、大変嬉しく思っています。

    #9から展開されるご投稿の中で、この「参加者からのご投稿」という場のルールについての言及がございました。
    ただいま、コメントをまとめているところですので、しばしご投稿をお待ちくださいますようお願いいたします。

  • #17

    いした(進行役) (日曜日, 29 1月 2017 18:09)

    当日進行役を務めさせていただいた者です。
    ご投稿から熱気がムンムンと漂ってまいりましたが、そんな中、お待ちくださり、大変ありがとうございます。

    この場はできるだけ開かれた場とするため、進行役として投稿することはいつもは控えております。
    ですが、今回頂戴しました一連のご投稿について、このままにしておくことは開かれた場とは異なる方向に進んでしまうことが懸念されました。
    そのため、「参加者からのご投稿」というこの場のルールについて、私なりの考えを述べさせていただきたいと思います。
    少し長くなりますが、どうかお許しください。


    ご投稿を拝見して、次の点が気になりました。

    (1) テーマから外れる投稿はあったか。
    (2) テーマから外れることはこの場では不適切か。
    (3) テーマから外れていた場合、それを理由に他の場所での議論を勧めることは適切か。
    (4) この場にルールはあるか。あれば、どのようなルールか。

    先ず(1)について、祈られる存在は祈るのかという着眼点から、神や全知全能の祈りについて考えるご投稿があったと思われます。
    #9/#11/#13では、論点の重心は《祈り》よりも《神》《全知全能》に置かれ、祈りを通じて神や全知全能のことを考えることに移行しつつあり、テーマの主従が逆転しているように見受けられました。
    #12/#14でのご投稿は、このことに違和感を感じられてのものと思われます。
    ですが、#9/#11/#13では常に《祈り》という視点で思索を進められていて、後にテーマの主従を元に戻すことも視野に入れておられるように感じられました。
    ですので、ご投稿内容はテーマの範囲内とみてよいと思われます。

    ただ#9-#11でのやりとりで、からす様がMn3様の問いかけに応じるという流れになっていました。
    投稿の締切期限が本日(1/29日)と迫る中、引き続き問いかけられた内容が、からす様にとっても応答を無理なく継続したいと思わせるものであり、また自分たちのやりとりがこの場にそぐわないものではないかという懸念がなければ良かったのでしょうが、そうではなかったことに、からす様がジレンマを感じておられたのではないかと推察いたします。

    からす様には、大変ありがたいことに、いつもこの場が活発になる率先してご投稿いただき、応答の負担も負ってくださっていただいています。
    Mn3様にはご不快の点もあったと思いますが、どうかお許しいただきたくお願い申し上げます。


    次に「(2)テーマから外れることはこの場では不適切か。」についてです。
    この場は、通常2時間で行われる哲学カフェと異なり、時間に余裕があります。
    そして、すべての投稿に付き合わなければならないということもありません。
    哲学カフェに比べて制約が少ないですし、脱線するによって新たな気づきが得られる可能性もあります。
    そのため、テーマから外れることについては、幾分寛大であってよいと思います。
    (ただし程度問題でもありますので、皆様のご良識に委ねたいと思います。)


    「(3) テーマから外れていた場合、それを理由に他の場所での議論を勧めることは適切か。」について。
    他の場所での議論を勧めることは、事実上、この場での議論を閉ざすことになります。
    多少の範囲でテーマから外れることは、(2)でも記しましたように、寛大に見守りたいと思います。
    ですので、他の場所での議論を勧めることはできるだけ避けていただきたいと思います。

    ただ、関連性が見いだしにくいご投稿も中にはあると思いますので、そのときは、関連性について問いかけ、説明していただくようにしていただけると助かります。


    「(4) この場にルールはあるか。あれば、どのようなルールか。」について。
    この場には進行役はいませんが、管理人はいます。
    世話人が管理をしていますが、ご投稿内容を拝見して不適切と思われるものがあった場合には、削除または公開保留などの措置を行います。
    なごテツではまだありませんが、個人情報を含んだ参加申込み、意味不明な文字列、テーマとの関係が不明な自説の一方的な長文の主張、連絡先やHPの宣伝といったご投稿を過去に削除したことがあります。
    暗黙の了解として明示していませんが、ネットに公開する上で不適切でないことが、大前提になります。

    ですが、それ以外のことについては、今のところ、ルールを設けていません。
    一部は哲学カフェのルールを準用した方が良いところもあるでしょうし、ネットの特性を考慮して別のルールを設定した方がよいかもしれません。
    皆様がこの場をお使いになって理解が深まったところで、ともに考えることができればと思っています。


    以上、大変長くなりましたが、私なりの考えを記してみました。
    よろしければ、これをご参考に、この場でのあり方についてお考えいただければ幸いです。

    皆様には、このご投稿の場をますます良き対話の場として発展させていただきたく切に願っております。
    どうか今後とも皆様のご協力・ご支援を賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。


    PS:投稿締切期限を1週間延長して、2月5日(日)までに致します。
    引き続き、奮ってのご投稿をお待ちしております!

  • #18

    からす (日曜日, 29 1月 2017 19:52)

    視点によって意見は変わるので
    複数の視点での意見に矛盾が出ることも
    意見が変容していくことも私は問題ないと思っています。
    私には固執しなければならない程の思想はありません。
    そのうえで
    祈りを継続できない
    神社で1時間手を合わせている人は滅多にいない
    (勿論、職業としている方々は別とします。)
    お参りを終えて帰るということはもう祈っていない
    中断しています。
    そして日常生活に戻ります。
    もし願いがプロ野球の選手になりたいなら練習する。
    祈ることでは達成できないので祈る暇があったら素振りでもしているでしょう。
    別の選択肢としてお守りを買うという方法もあります。
    形のない祈りでは不安なので形があると安心感があります。
    そしてお守りに効果の裏付けを求めます。
    お守りを売る側は買って欲しいので霊験あらたかな物語を案内します。
    成功すれば数万人の人が買ってくれるでしょう。
    私ならメカニズムを探るのに宗教の書籍ではなく経済学の本を選びます。

  • #19

    Mn3 (月曜日, 30 1月 2017 00:45)

    肩透かしを食らわされたような...........まあいいでしょう。
    成功するためには99%の努力と1%の霊感が必要だ。
    しかしこの1%が必要なのかもしれない。ーートーマス・エジソン
    こんなような言葉があります。
    この霊感は祈りと言ってもそれ程、当たらずとも遠からず、ではないでしょうか?
    祈ることにより、世の中の物事のまだ解き明かされていないメカニズムに、自分でも言葉にできないやり方でアクセスしてしまう。
    そこが成功するかしないかの分水嶺となるのかもしれません。
    確かに努力は必要条件でしょう。が、世界に対して謙虚になれば、まだ顕在化していない努力=祈りによって物事にアプローチするのもまた必要かと。
       *        *         *
    この投稿掲示板を見ていて多少論理展開に難があったり無理があるかなと思うことも多いです。
    しかしなにか言わんとすることに面白さを私が感じたとき、砂金に出会った感じと思われるとき(不遜な言い方で恐縮ですが)、多少のおかしさは、投稿者に問いただすという態度をわたしに選ばさせません。それでもいいのではないのか、というのが私の態度です。
    しかし、明らかにひとを揶揄する言明に出会ったときは、その限りではない、と。
    そのへんのことは最低限のマナーとして必要かと思います。
    また、ひとの投稿内容に他人が言及するとき、相手が直接見えない分、細心の注意をもってなさないと、トラブルにまで発展する可能性があることを自他ともに、銘じなければならないでしょう。
    話しが前後しますが、この投稿掲示板は論理を戦わせることも可能といえば可能でしょうが、色んな意見を開陳する場、自分では気づかなかった視点に面白さを感ずる場として〈わたし〉は利用していきたいと考えます。
    ですから、いっても対話までとし。
    論戦をたたかわせる場にはあまり向かないかと。
    ただ、投稿者間にしっかりとした信頼感がある場合には論戦も可能でしょう。
    いろいろ勝手なことを書き連ねてしまいましたが、基本カフェにあつまる人はフィロソフィ=愛智の徒、であることを思って、いい雰囲気で掲示板を活用していけたらと思います。

  • #20

    からす (土曜日, 04 2月 2017 22:46)

    祈るとは願いを叶えたいのか現状を維持したいのか
    そんな視点で考えると宝くじを買うことと初詣の違いが曖昧になる
    現代人が体を鍛えるために筋トレをする事とも
    期待する未来を目指して信じて実行する点では近い気がする
    しかし祈らずにはいられないという視点で考えると視界が変わってくる
    自分にできることは全て行ったので後は祈るしか選択肢が残っていない
    これは私には未知の世界です。
    もう一つは祈ることしか選択肢がない環境に置かれた場合
    一時的、限定的であれば経験はあるが抜け出る方法がないケース
    数世代にわたって抑圧された地域の経験を伝える歌から感じるものは
    想像すら及ばない生活なのに心には響きます。
    歌を聴いているのか祈りを聞いているのか判らなくなる
    これらは同じ祈りという言葉でまとめてよいことなのか。
    判らないことは知りえない
    判ったと思っていることは答えとは限らない
    古くからある言葉に対して考えるには
    経験の絶対量があまりに足りないことを思い知らされるテーマでした。

  • #21

    Mn3 (日曜日, 05 2月 2017 04:56)

    「苦しい時の神頼み」ということばがある
    が、しかし、ずっと四六時中祈っているより自分で努力していたほうが良いので、祈りを中断してしまう。
    すると「お前は我らの神様を信用していないのか?」「真信が足りないのではないか?」
    と非難されることもあろう。
    それ程強い意味はなく神仏に手をあわせる。
    しかし、1時間も祈り続けることはできないので、中断する。
    すると「お前は我らが神をないがしろにするのか」と咎められてしまう。
    祈りをどれだけ続けられるかで、その人の「神」にたいする忠誠心と言おうか「真信」が断定的に評価されてしまう。
    『行きはよいよい帰りは恐い~』と唄われるように、祈りの手軽さと、それを止める時のおそろしさ。(宗教は阿片だ、とは言い得て妙)
    そういったフェティシズムを嫌って「わたしは神仏に祈らない」と明言する方もおられるのだろうか。
    からすさんの一連のご投稿を読み直して、こんなことを思いました。


第11回 哲学カフェ 祈り

2017年1月14日(土)

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