第12回 哲学カフェ 

「○○第一」

2017年2月11日(土祝)

記録ご投稿



■ 日 時: 2017年2月11日(土祝) 13:00~15:00

場 所: カフェ・サンラファエル

     (名古屋市西区名駅2-11-8 ファーストビル大樹1階)

      地下鉄「名古屋駅」1番出口より北へ徒歩5分

テーマ: 「○○第一」

進 行: 井下賢一

参加費: 飲食代実費(440円~)

定 員: 13名

申 込:  staff☆nagotetsu.sakura.ne.jp(☆を@に変換してください!)

定員に達しましたら締め切りますので、なるべく事前にお申し込みください。お申込みがない方も席に余裕がある範囲で先着順でお受けします。お早めにいらしてください。
※定員に達しました。キャンセル待ちを受付中です。

主 催: なごテツ

共 催: カフェフィロ

備 考: ① 100円程度のご寄付をお願いしています。(強制ではありません。)

     ② 写真撮影と対話の録音をさせて頂いております。NGの方はお申し出ください。

《ご案内》

  近頃メディアを通して、アメリカ・ファースト、都民ファーストという言葉に触れる機会が増えてきました。企業などでは以前から顧客第一、従業員第一、現場第一が理念に掲げられてきています。皆様の中には日頃から安全第一で車を運転されている方も多いことでしょう。これら「○○第一」という考え方は、どのような考え方なのでしょうか。皆様とともに考えていきます。
 初めての方も歓迎です。どうぞお気軽にご参加ください。


~記録~

―開催報告―

なごテツ 第12回 哲学カフェ 「○○第一」

日時: 2017年2月11日(土祝) 13:0015:00

会場: カフェ・サンラファエル(名古屋駅東口)

進行役: 井下賢一        参加者: 15

 

 

○○第一とは

 

さて、今日のテーマは○○第一。この○○に何を入れるかは自由です。

果たしてどんな第一が出てくるかと思いましたが、意外にも第一という言葉についての考察で始まりました。

この言葉は強い言葉でほかの意見を許さないとか、現実には実現されていない矛盾がある言葉だとか、組織(集合体)としての優先順位の方針を示す言葉だとか、ハットさせられたのは、家庭第ゼロという発言、順位をつけてはいけないものがあるという考え方ですね。

自分第一というと顰蹙をかってしまうという意見もでて、どうも第一にも集団と個人があるようです。

ちなみにアメリカファーストも周辺国から顰蹙をかっていますね。

 

このような感じで話は進み、いつものように時間いっぱい迄対話は続くのでした。

      *     *     *

今回も積雪が心配される中での開催でしたが、お店の方には早めにお越しになる方のために早くから席をご用意いただき、またとても多くの方にご参加いただきました。バレンタイン・デーも近いこともあり、お心遣いをいただく参加者の方もいらっしゃり盛り上げてくださいました。

参加者の皆様がこの場を大切に思ってくださることを大変嬉しく思っています。

今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。

(作成: なごテツ世話人 荒井豊/井下賢一)


~参加者からのご投稿~

[ご説明] 哲学カフェでのやりとりを多くの皆さまと共有する場として開設します。

イベント終了後2週間程度を目安に、参加者の皆さまからのご投稿を募集します。

当日の感想や、後で気づいたことなどを気軽にお寄せください。

参加者同士のさらなる対話の場としてもご活用ください。

[ご注意] 「ホームページ」欄は、ご記入なしで構いません。

「名前」は匿名や変名でも構いません。(後で変更はできませんので、ご注意ください!)

ご投稿はなごテツが発行および許諾した印刷物や電子媒体で複製・転載する場合があります。

あらかじめ、ご了承の上、ご投稿をお願いします。

イベント終了後、約2週間が経過しましたので、ご投稿の受け付けを終了いたしました。

コメント: 2 (ディスカッションは終了しました。)
  • #1

    からす (日曜日, 12 2月 2017 19:26)

    ○○第一と聞くとそれは今は第一ではない。
    故に言葉にしなければならないものかと思っていましたが、
    家族第零という発言に意表を突かれました。
    家族のことは優先順位を付けて比較してはいけないので
    順位は零番目でなければならない。
    私にはなかった発想なので印象に残りました。
    こういう言葉に出会えると参加して良かったと思います。

  • #2

    Mn3 (火曜日, 14 2月 2017 00:27)

    哲学において「人は自分のしたいことしかしない」という命題があるらしい。
    言葉を変えれば「自分第零」ということだ。
    原因がどうあれ、自分の脳からの指令でしか、人は自分を動かすことができないのだから、動かし難い事実のように感じる。
    しかし、いったい自分の脳は何故自分のものだ、と言えるのか?ーー(a)
    あなたの脳は親のものでもなければ、道ですれ違ったひとのものでもないのだが。
    自分のもの、とは究極的に言えば「自分の脳のもの」という事になるだろう。
    という事を踏まえると、(a)は「いったい自分の脳は何故自分の脳のものだ、と言えるのか?」になる。言い直せば「いったいAは何故Aのものだ、と言えるのか?」
    つまり(a)は無意味、意味をなさない。
    しかし、「原因がどうあれ、自分の脳からの指令でしか、人は自分を動かすことができない」、という事実の大前提である。
    それが意味を成さないとはいったい何を意味するのか?
    脳と自分とは論理的には同一性を保ち得ない。親のものであるところの脳があなたを動かす、或いは道ですれ違った人の所有物であるところの脳があなたを動かしているのかもしれない、ということだ。(ここで出て来る脳はあなたの首の上に乗ってる脳のことです)
    我れ思う、ゆえに彼あり、もあながち可笑しくはない。
    本当は、自分のしたいことだけを人はする、に反論するために、以下のような事を書こうと思っていた。
    ⑴ 月に飛んでゆきたい
    ⑵ ルーレットゲーム
    ⑶ 部屋に落下してきた隕石
    ⑷ ひとに作ってあげた料理
    ⑸ コルベ神父
    ⑹ 我が事のように喜ぶ
    ⑺ 人命第一の医師
    ⑻ 自裁
    以上で「人のすることは全て自分第零である」に反論しようと思っていました。
    しかし、「脳」に触れた経緯から形而上学を彷徨うようになり、自分でも「場違いかなぁ~」と思ったのでこの辺で一旦終了します(?)


第12回 哲学カフェ 「○○第一」

2017年2月11日(土祝)

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