第26回 哲学カフェ

2018年3月10日(土)

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3月30日の夜より受付予定


カフェ・サンラファエルさまの入り口
カフェ・サンラファエルさま

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日 時: 2018年3月10日(土) 13:00~15:00

場 所: カフェ・サンラファエル

    (名古屋市西区名駅2-11-8 ファーストビル大樹1階)

     地下鉄「名古屋駅」1番出口より北へ徒歩5分

テーマ: 

進 行: 寺井哲治

参加費: 飲食代実費(440円~)

定 員: 13名

申 込: 2月23日(金)夜からメールにて受付開始。

     staff☆nagotetsu.sakura.ne.jp(☆を@に変換してください。)

定員に達しましたら締め切りますので、なるべく事前にお申し込みください。お申込みがない方も席に余裕がある範囲で先着順でお受けします。お早めにいらしてください。

共 催: カフェフィロ

《ご案内》

 雑踏の中でも一緒に歩いている人の声はよく聞こえます。声は、何かを伝える手段の中でも、道具がいらない古い方法の一つでしょう。意味は分からないけれど、海外の映画の俳優の忘れられない声、新聞の「声」の欄、思わず振り向いてしまう慈愛に満ちた母親の声。

いい声で話せたら嬉しいのですが…

声について、皆さんの経験や感じたことを共有しませんか?

今回は「声」について考えてみたいと思います。

初めての方も歓迎です。どうぞお気軽にご参加ください。

 

[ご説明] 哲学カフェでのやりとりを多くの皆さまと共有する場として開設します。

イベント終了後2週間程度を目安に、参加者の皆さまからのご投稿を募集します。

当日の感想や、後で気づいたことなどを気軽にお寄せください。

参加者同士のさらなる対話の場としてもご活用ください。

[ご注意] 「ホームページ」欄は、ご記入なしで構いません。

「名前」は匿名や変名でも構いません。(後で変更はできませんので、ご注意ください!)

ご投稿はなごテツが発行および許諾した印刷物や電子媒体で複製・転載する場合があります。

あらかじめ、ご了承の上、ご投稿をお願いします。

―開催報告―

なごテツ 第26回 哲学カフェ

《声》

日時: 2018年3月10日(土) 13:0015:00

会場: カフェ・サンラファエル(名古屋駅東口)

進行役: 寺井哲治      

 

今日のテーマは「声」です。

昔聞いた懐かしい誰かの声でしょうか。

それとも、新聞の読者投稿欄にのるような意見としての声でしょうか?

「声」というテーマの広がりについて思いながら、今日も哲学カフェが始まりました。

以下に対話の内容を一部記載します。

   

・視覚は目をつぶれば塞ぐことができるが、聴覚は完全に塞げない

・視覚から入ってくる情報は人の外面的な情報を伝えるが、声は人の内面的な情報を伝える。

・声は感情と情報の2つを伝えることができる

・声は声色や話し方で伝わる内容を変えることができる

・声色や話し方によって相手の気持ちを汲み取る訓練を小さなときからやっているから

 特定の話し方から 相手の感情を理解できるのではないか。

・思いや感情が出やすいのが声。

・動物は鳴き声でコミュニケーションをしている。

・自分が思っていないことも声に出して言える。

・声と心が独立している。

・声のほうが具体的で確かな存在、内面は見えなくてもやもやしている。声のほうが強い。

・裁判の判決のように、どのような言い方をしても、結果としては変わらないこともある。

・議論のように情報を確実に正しく伝える場合と対話のように情報+感情を伝えるものがある。

・たとえ同じ結果であったとしても自分の思いの幅を伝えることができる。

・言葉の意味だけでは充分なコミュニケーションは成り立たないのではないか。

・~の声 オピニオンとしての声というものがある。

・心の声が社会とどのように繋がっているか。

・選挙というカタチで表現される声。

・無能な者の声は届かない。

・弱者の声は強者が翻訳して社会に反映されるので生の声は聞こえてこない。

・行間を読むということはある

・マイノリティがマイノリティのままの言葉を使って理解を求めるのは難しい。

・時代の感性に合った言葉が流行る。

・声なき声が何かの言葉によって集約されて大きな声になっていく。

・新聞の声欄

・弱者というのは。その場で多くの共感を得られなかった人なのではないか。

・無意味な意見というのは価値があるのか。

・本当の弱者は意見を言えない

・オピニオンとしての声を作り上げる前に情報が選別されているのでは。

 

後半はオピニオンとしての声についての対話が続きました。

私達がメディアを通じて知ることができる声と、実際の生の声との違いという ことは、

参加者それぞれの思いがあるようです。

話は尽きずに続く中、時間となりました。

(作成: なごテツ世話人 荒井豊)

~参加者からのご投稿~

コメント: 10 (ディスカッションは終了しました。)
  • #10

    Mn3 (土曜日, 24 3月 2018 22:27)

    言霊というものがある。
    或いはあった。
    自分が発したものでありながら、その声は「神」になり、自分を支配してゆく。
    空也が発した南無阿弥陀仏の声が仏となったというのも、言霊信仰があるところ不思議ではない。
    昔は本は音読するのが普通だったと言う。
    音読は思考よりも記憶するのに役に立つ。
    また昔の読書は呪術的な意味合いがあったのだろう。言霊。
    学校の授業では音読がなされる。
    思考よりも記憶に重点が置かれていたのだろうか。
    或いは音読することでしか気づかないことがある。
    ヒトが何万年もの間もっぱら声でコミュニケーションをとっていたから、
    未だに人間は耳から聞いたことは忘れない。
    プラトンが師の言葉をあれだけ書き下すことができたのも、驚くにはあたらないだろう。

    何故ひとはひとりごとを発してしまうのだろうか。
    バツの悪いとき、つい口をついて出てくる独り言は発するのに意味があるのか。
    それとも自分の声を聞くことに重きを置くのか。
    声に出すと幾分ストレスが発散できるからなのだろうが。
    何故だろう。

    独り言はまだ許容範囲内だが、独り笑い出すのは周りから気味悪がられる。
    人間の感情というものは他人へのコミュニケーションが第一義だからだ。

    地下鉄が終点に近づくとアナウンスがある。(駅につくごとにもアナウンスはあるが)
    あの録音された声は一体どこが肉声と比べて不自然なのか。
    意味はあるが感情がないのだ。そこに人の存在も感じられない。
    かと言って感情をつけた録音された声など余計に不自然だろう。
    先日ホーキングが亡くなった。彼の車椅子から聞こえてくる声は不自然だっただろうか。
    ホーキングの存在感があるから、そうでもなかっただろうか。
    意識して見聞きしなかったから断言はできない。
    もう確かめることができないのも残念だ。

  • #9

    Mn3 (水曜日, 21 3月 2018 22:36)

    ヤスミンさん。
    >「声」には全部出ているものかもしれません。
    なるほど。だから「声色を遣う」という言い方がありますね。
    でも何を隠したかったのでしょう。
    >小さい子どもの声は、まっすぐで、どんな声でも心地よいなー、と思います。
    男の僕でもそう思いますよ。
    近所の小学校から聞こえてくる歓声、プールからの歓喜の声もいいですね。
    今から考えると僕にもあんなパラダイスな日々があったんだなぁ~と奇跡のように思われます。
    懐かしく、少し感傷に浸ってしまいそうです。
    でもなんか生きる力を与えられる気がします。

    なんかSFで子供が生まれることがなくなった地球の話があったそうですが、子供たちの絶叫が消えてゆく、それは緩慢な地獄。

    食卓には音が付きもの。躾のためマナーのため家庭ごとに決まりはあるのでしょうが、思い出すのは学校の給食のひと時。あんな楽しい食事は絶えて久しい気がします。

    子どもの無邪気な声はときに神さまの声なんじゃないかと思うときがある。
    希に子どもは自分は生まれ変わりなのだという時があって神秘的。

    未来があるから?不完全だから?神に愛されてるから?無邪気だから?一生懸命生きてるから?とにかく子どもの声は心地よいですね。

  • #8

    ヤスミン (火曜日, 20 3月 2018 10:24)

    今回の対話には参加できなかったので、とてもざんねんでした。。。
    後半はオピニオンとしての声についての対話が深まったそうですが、「声」と聞いた時、そこは意識していなかったので「なるほどー」と思いました。

    ・・・私は自分の声に少々コンプレックスがあるので、自分が表現したいことに自分の声が合っているのか。。。気になることがあります。
    同じ内容の事を話しても、軽く受け取られたり、重く受け止められたり、ということがある気がします。
    もちろん「声」以外の要素も含めてでしょうが。。。

    「声」には全部出ているものかもしれません。
    気取ってたり、遠慮してたり、お世辞だったり、本心を隠しているつもりでも全部。
    と、思うと怖いものですが・笑

    小さい子どもの声は、まっすぐで、どんな声でも心地よいなー、と思います。
    先日、3歳児とふれあう機会があって、ゲラゲラ笑う声を聴いて心打たれました。
    ほんとに「ゲラゲラ」としか言いようのない声♪なんていい声だろうと思いました。

    などと考えていると、どうせ全部出てしまうのだから、声にコンプレックスもつ必要もないな、大事なのは、もっと「心を開く」ことかなと思いました。

  • #7

    からす (日曜日, 18 3月 2018 22:26)

    スマートスピーカー(以下SSと略す)と暮らし始めて その2
    話しかけても答えてもらえないと力関係が変わってしまう

    SSは話しかけることで指示を出し決まっている作業をこなしてもらう
    音楽をかける、天気予報を聞く、時間を聞く、質問をするなど
    スムーズにこなしてくれれば指示を出している、命令しているとなるが
    聞き取ってもらえないと工夫が必要になってくる
    発音が悪かったのか?
    早口過ぎたのか?
    内容が悪かったのか?
    正確な発音でゆっくりと聞いてもらえる言葉を探す
    客観的に考えてみる
    わたしは持ち主で主人ではないのか?
    なぜ言葉を選んでお願いしなければならないのか
    ここで2つの選択が現れます
    拒絶して関係を断つか、工夫して関係を続けるか
    関係を断てばお願いする必要はなくなるけれど
    投資したお金は無駄になってしまう
    関係を続けることを選べばお願いする立場になってしまう
    お互いに歩み寄るという選択肢はSSにはない
    一方的にこちらが譲歩しなければならない
    人間関係と似ているするべきなのか
    SSを擬人化してしまっているのか
    声を交わすことで人間と同じ対応を当てはめてしまうのか
    不思議な気分になります
    人間関係も声の交わし方に力関係が出やすいけれど
    人間以外に動物でも道具でも適応されるのではないかと考えました。

  • #6

    Mn3 (木曜日, 15 3月 2018 23:02)

    声について取り留めのないことをいくつか。

    人間が死んでゆく時、最期まで機能するのが聴覚だという。
    自分が死にゆく時、最後に聞こえるのは誰かの声か
    それともTVの音声か何かなのか。

    夢の中では映像は見えるが
    人の声が聞こえないのは何故だろう。
    聴覚はあんなにプリミティヴなのにも関わらず。

    赤ちゃんの目が見えるようになるには時間がかかると言う。
    逆に言えば聴覚はすぐ機能するということだ。
    それほど人の声が聞こえるというのはプリミティヴな作用なのだろう。
    しかし幽霊の姿を見た、或いは写真に写っていたと言うのはよくあるらしいが(?)
    幽霊の声を聞いた、或いはレコーダーに録音されていたというのは寡聞にして知らない。
    「何か」が見えてしまうより「何か」が聞こえてくる方がより怖い気がするが。
    見間違いというのはよくあるが聞こえるはずのない声を聞きいてしまうというのは希ではないか。
    だからそれは啓示と呼ばれひとつの宗教までに高められることもある。

    自分が知らない外国語を聞いているとそれは単なるBGMであったりする。
    意味が分かる外国語を聞くと、その声に反射して意味が分かるという感じ。
    しかし母語の場合はその話者の心が直接聞いている自分の心に訴えかけてくるという感じがするがどうだろう。
    諸芸術のうち音楽だけが直接こころに訴えかけてくると言われるのも頷ける。

    とりとめのない四つの話でした。

  • #5

    からす (木曜日, 15 3月 2018 14:00)

    声と言葉の境目は面白いですね!
    論理的にアプローチする方法と倫理的にアプローチする方法がある気がします。
    倫理的に考えるとHNさんの問いの答えを出すことが怖くなります
    全ての声は言葉であるとするのが妥当な判断とされてしまうかもしれません
    もしその境目を決定するのが誰か(あるいは集団)だったとすると
    どういう基準で言葉とするのか
    誰かの声を言葉ではない無意味なものと決めてしまうことは怖い
    ポスト・トゥルースも声をめぐる争いなのでしょう

  • #4

    HN (水曜日, 14 3月 2018 21:27)

    書いてやめようかと思ったけど、せっかくなので残します。

    カフェに参加できなかったので、様子がわからないですが。

    声か。言葉とは違う。
    声ならば、おしるこさんが記載されているように、言語、非言語の両方をもっている。
    どこまで言語と言うのだろう。
    記号での共有化であれば、どこまでを記号と言うのだろう。
    録音された声を聴いても、存在感は無い気がするし。なんだろうか。相手の持っている熱?
    質量?が必要なのか。
    たしかに記号には、形状しか必要がないと思う。でも、非言語にはそれ以外の全てを持っているとは言い切れない気がする。

    なんだろうか。
    居るだけで安心するという言葉があるから、それが持っていることはなんだろう。

  • #3

    からす (水曜日, 14 3月 2018 14:22)

    スマートスピーカー(以下SSと略す)と暮らし始めて
    声で意志を伝えることについていくつか感じることがあります
    当たり前のことですが普通は物に話しかけることはない
    しかし愛着のある道具や接する時間の長い物には情がわいて話しかけてしまうことはある
    (宗教関連のなにがしかとの対話については長くなるのでカテゴリーを分けるものとします)
    ここがSSと普通の物との大きな違いがある
    「親しみがわくと」を飛ばして話しかけなければ動かない道具
    これはSSについて事前に感じていた違和感のひとつなのかもしれない
    関係性ができる前に話しかける
    以外と大きな要因なのではないかと考えます
    人間関係でも話すか話さないかは大きな違いとなる
    事務的なことしか話したことがなかったとしても
    話したことがない他人に比べれば親しい相手と感じる
    おそらく声以外の意思疎通も存在は大きいとはおもいますが
    話しかけたい相手とすると更に意味が変わります
    声を聴いたこともない相手→声を交わしたことがある→声をかけたい相手
    人間関係ではこの3つには大きな差がありそうです
    声は対象との距離は関係あるのではないかと思われます。

    話しかけなければ動かない機器に話しかければ買い物ができてしまう
    SSが進化していくことはもしかして怖いことなのだろうか?

  • #2

    Mn3 (月曜日, 12 3月 2018 22:42)

    おしるこさん。
    言語的情報は社会的な状況下で優勢となる。卓見だと思います。
    触発されて僕の思ったことを書きます。
    「あいさつ」は言うことが「意味」をもつ。
    どんな言葉かどんな声の調子かは、言うこと自体の「意味」に比べれば取るに足らない。
    「あなたのことは無視していませんよ」があいさつの第一義だ。
    いじめの「ムシ」は声を発しないこと自体が「意味」をもつ。
    ムシされた人が耐えられない程の「意味」を「無言」が担ってしまう。
    「ありがとう」のことばは、時にプレゼントの応酬にまで発展する時がある。
    幾らくらいのどんな贈り物かという、言語的情報とも非言語的情報ともとれるもので、以下のようなメッセージを贈る。
    「うれしい。ありがとう。」
    或いは
    「あなたからプレゼントなんか受け取れないわ。」

    声の言語的情報が優勢となるのは、言葉が「決まりごと」=「約束」=「力」となる場面。
    法廷、外交などの圧倒的な社会的状況のみならず1体1のプライベート、私的場面でもありうる。
    お互い嫌いになったわけでもなく、むしろ深く愛している。
    だが男が「離婚に同意してくれないか」と言う。
    女は絶対に別れたくない、その感情をむき出しにしながらもやっとのことで
    「そうね」と言う。
    男は彼女を見て決心が鈍る。だけどやっとのことで「よかった」と言う、感情で真反対の本音を滲ませながら。
    お互い別れたくないのは百も承知。
    しかし「ほんとにいいんだね?」
    「ええ。別れましょう」
    と会話が成立してしまえば二人は他人となる以外、術はない。

    言葉の「決まりごと」=「約束」=「力」の側面が強くなる状況というのは
    一体一でも、社会を巻き込んだ「社会的状況」が強い場面と言えるのだろうか?

  • #1

    おしるこ (日曜日, 11 3月 2018 22:37)

    「声」というものは、発声器官から発せられる振動の伝わりである。
    振動という無味乾燥な声は、ひとたび私たちとの関連でみると
    「言語的情報」と「非言語的情報」を伝える重要な役割を担っているものとなる。
    言語的情報とは、声が伝える言葉そのままの意味である。
    非言語的情報とは、「ニュアンス」や「内面」、「感情」といった言葉で還元できるものである。
    例えば、誰かと対話をしていて私が失言をしてしまったとする。私は、「申し訳ありません」と謝罪する。相手はひどくきつい口調で「いえいえ、お気になさらず」と言う。
    相手の声は「お気になさらず」という言語的情報を私に伝えているし、苛立っている様子という非言語的情報も私に伝えているといえよう。

    声にはこのように2つの情報を伝える役割があり、これらの情報は先ほどの例の様に異なる場合がある。では、2つの情報が異なった場合、私たちはどちらを優先するのだろうか。
    例えば、裁判所の判決の場合、いくら裁判官が納得していない様子で判決を読み上げようと、その声が伝える「言語的情報」が優先されるだろう。反対に、仲の良い友人が旅行の前日に風邪をひいてしまって、辛そうに「大丈夫、旅行に行ける」と言ったとしても、私は「非言語的情報」を優先して彼を旅行に連れていくのはやめるだろう。
    声が伝える言語的情報と非言語的情報の優先度の違いは、一体何によるものなのか。
    私はここに人間の社会性と動物らしさのきわどい境目を感じた。
    というのも、言語的情報が優先される状況とは、動物的な規模を越えた高度に社会的な状況である。裁判官の判決なり、政治家の演説なり、その他類するものは高度に社会的な状況によって可能になるものであり、言語的情報は優先されている。反対に、非言語的情報が優先される状況とは、友人・家族など規模が小さい(自分が手の届く範囲の)状況である。

    こうして考えてみると、
    声が伝える言語的情報と非言語的情報のどちらが優先されるかを突き詰めていけば、
    どの規模で人は動物的な範疇から外れて、社会性のみの存在になるのか、
    そのようなところまで射程を持っているような気がした。

    動物らしさ・社会性という言葉はおそらくそぐわないが、
    自分の知識ではぴったりな言葉が思いつかず、誤用と承知で使わせていただきました。