第17回 哲学カフェ

自由と制約

2017年6月10日(土)

記録ご投稿



■ 日 時: 2017年6月10日(土) 13:00~15:00

場 所: カフェ・サンラファエル

     (名古屋市西区名駅2-11-8 ファーストビル大樹1階)

      地下鉄「名古屋駅」1番出口より北へ徒歩5分

テーマ: 自由と制約

進 行: 井下賢一

参加費: 飲食代実費(440円~)

定 員: 13名

申 込:  staff☆nagotetsu.sakura.ne.jp(☆を@に変換してください!)

定員に達しましたら締め切りますので、なるべく事前にお申し込みください。お申込みがない方も席に余裕がある範囲で先着順でお受けします。お早めにいらしてください。
※定員に達しました。キャンセル待ちを受付中です。 ←キャンセル待ちを終了いたしました。
※キャンセル待ちが0名となりましたので、先着順で当日参加を若干名お受けいたします。

主 催: なごテツ

共 催: カフェフィロ

備 考: ① 100円程度のご寄付をお願いしています。(強制ではありません。)

   ② 写真撮影と対話の録音をさせて頂いております。NGの方はお申し出ください。

《ご案内》

  私たちは不自由であることよりも自由であることを望んで生きていますが、同時に制約を受け入れています。私たちはなぜ自由を求めつつ制約を受け入れることができるのでしょうか。また、制約の中には受け入れられるものとそうでないないものとがありますが、それはなぜなのでしょうか。今回は、自由と制約について皆様とともに考えていきます。

 初めての方も歓迎です。どうぞお気軽にご参加ください。


~記録~

―開催報告―

なごテツ 第17回 哲学カフェ

《自由と制約》

日時: 2017年6月10日(土) 13:0015:00

会場: カフェ・サンラファエル(名古屋駅東口)

進行役: 井下賢一        参加者: 18

  

今回の哲学カフェで取り組むテーマは「自由と制約」です。

哲学的なテーマということもあって、今日もやる気満々な参加者たちからいろいろな意見が飛び出し終始、発言が途切れることなく続きました。

自由と制約。一見、対立する概念のように思えますが、今日の対話ではどのようになっていったでしょうか。

参加者それぞれが自由と制約についての考えを述べていただいた内容を以下に記載していきます。

  • 個々の自由と自由を調整するために制約がある。
  • 自由には、自分のできないことを望む自由(例:物理的な制約を超えること)と、自分のできることをする自由がある。
  • 自由があるから責任がある。制約がある場合は責任から逃れることができる。
  • 交通法規に従っていれば責任を問われない。
  • 制約が自由を阻んでいるが責任を持たなくて良い。自由と制約の兼ね合いが難しい。
  • 自由を担保するために制約があり、制約があるから平等を実現できる。
  • まったく自由なら自由がなくなる。他者の自由が私の自由を奪う。
  • 社会として自由という場合の個人の自由の関係は?
  • 制約が暗黙の了解で過ごせるのが社会の中での良い状態ではないか。
  • 制約の反発としての自由を感じることは分かるが、自由ななかで自由だと感じるのはどんなときなのか?
  • 自由が当たり前だと自由がわからないのではないか。
  • インドネシアにいたときの体験。
    入国すると指紋を取られる。手紙は開封された跡がある。日本から送られてきた新聞が都合が悪いと思われる部分が読めなくなっている。警官が常に監視している。
    自由の良さは日本では感じづらい。
  • 終戦直後が一番自由を感じたのではないか。
  • 不自由を不自由と感じる感性がないのは問題なのではないか。
  • 差別を受けている人や同性愛者は自由ではない。
  • 自由を知らなかった人が自由を知らされることは幸せなのだろうか?
  • 社会全体のことを考えると少数の人の自由は制約を受けざる得ないのではないか。
  • 立場が同じ者同士の自由と、立場が違う者との間の自由は異なる。
    立場の上の者からは下の者へは制約が課せられるのではないか。(例:上司と部下)
  • 物質の三態のように、制約によって形が明確になっていくのではないか。
    制約が少ないと気体のように自由に飛び回れるが安定しない。制約が多くなることで液体→個体のように形が安定して存在できる。
  • 自由も制約によって一つの方向性をもっているから成り立つ。
    ルールがなければ何らの成果も得られない。
  • 自由と不自由と制約のイメージ
    制約という囲いがあり、その中が自由で、外が不自由。
    虫かごの虫、かごの中では自由だが外に行くと潰されるかもしれない。ただ、かごからでる自由はある。
  • 制約がなければ自由と不自由の判別ができない。
    制約の中に入って得られるのが自由なのではないか。
  • 虫カゴが大きかったら制約があることもわからない。
  • 動物園の動物は柵の中から出られないが自由なのか?
  • 制約があることが自由と言うが、制約を受け入れないことも自由。
    結局は自分が選択している。不自由さによって実現されている恩恵を選択しているのであれば、それは不自由さを受け入れる自由だと思う。そう考えれば人間はおもったよりも自由に生きているのではないか。
  • 人は今まで身につけてきた価値観に制約をうけている。
    自分の意思決定について、もっと心の中で自由を持っても良いのではないか。
  • 選択する自由が制約されるものとして、規律、生い立ちから制約を受けている。
  • 自由を感じるのは知識や経験が多い方が良いと思う。自分の知らずに受けていた制約が分かるから。
  • 価値観によっても自分の意思が制約を受ける。
  • 不自由であることが悪いとは思わない。
    お腹がすくと本当はこれがやりたいが食べないと生きていけない。
  • 制約は破られるためにあるのではないか。
    制約を設けると、逆にそのことが実行可能であるに気づいてしまうから。
  • 自由と感じることが、ある人には自由と感じるが、他の人には不自由と感じる場合もある。
    どう感じるのかを決めるのは自分。
  • 嫌煙権の問題は好き嫌いではなく、他人の健康を害するという事実がある。
    そのために個人のタバコを吸う自由を制約するのはどうなのか?
  • 人の自由を束縛する自由を認めるのか?
  • やめる自由を認めた上での自由を認めるのがよいのではないか。
  • 教育も指導者から制約をかけられることによって多くのことができるようになる。(自由になる)
  • エンデのモモでは、最後に二者択一になってやっと心の平安を得た。
    多すぎる選択枝は人を不幸にする。
  • 自由が自分の手に負える自由であればよいが、そうでなければ大変。
  • 自由と混沌はイコールなのか。
  • 混沌は意思がないから自由ではない。

さまざまな発言がありましたが、自由と制約について参加者それぞれが考えを深めることができたように思います。

 

今回も大変多くのご発言をいただきました。

ご参加いただいた皆様、大変ありがとうございました。

(作成: なごテツ世話人 荒井豊)


~参加者からのご投稿~

[ご説明] 哲学カフェでのやりとりを多くの皆さまと共有する場として開設します。

イベント終了後2週間程度を目安に、参加者の皆さまからのご投稿を募集します。

当日の感想や、後で気づいたことなどを気軽にお寄せください。

参加者同士のさらなる対話の場としてもご活用ください。

[ご注意] 「ホームページ」欄は、ご記入なしで構いません。

「名前」は匿名や変名でも構いません。(後で変更はできませんので、ご注意ください!)

ご投稿はなごテツが発行および許諾した印刷物や電子媒体で複製・転載する場合があります。

あらかじめ、ご了承の上、ご投稿をお願いします。

イベント終了後、約2週間が経過しましたので、ご投稿の受け付けを終了いたしました。

コメント: 10 (ディスカッションは終了しました。)
  • #1

    からす (月曜日, 12 6月 2017 10:51)

    自由と制約とは?
    哲学カフェに参加したり、お茶をのむことは自由
    では道具を使わずに空を自由に飛んだり海に数時間もぐる自由は?
    不可能を選択できないことは制約のある不自由なのか?
    お茶を飲む自由と空を飛ぶ自由は同じ自由なのか?
    同じようでもあるけれど同列に扱ってよいのか?
    同列にあつかうことができることこそ自由
    別の物として壁をつくってしまうことが制約
    なにかもやもやが増えただけな気がします
    まあ、そんなことに囚われないことが自由なんでしょうか!

  • #2

    Mn3 (火曜日, 13 6月 2017 04:16)

    制約には大まかに次の通りに二分される。
    1.本質的制約……原理的に不可能なこと。例えば内角の和が180°かつ0°である三角形を一秒間に無限個手書きで作図することはできないという制約。
    2.一般的制約……原理的には可能かもしれないが次の2つに分かれて制約される。
    2.1    個人の側に起因する制約
    2.2    集団の側に起因する制約
    敷衍すると
    2.11    個人の能力の欠損によるもの……例えば東大理Ⅲに出願はできるが合格する能力はないことから生じる制約etc.
    2.12    個人の経済力の欠損によるもの……例えば受験のための出願料を捻出できないことから東大理Ⅲを受験するわけにはいかないという制約etc.
    2.21    時代的制約
    2.22    現時点での社会的制約
    敷衍すると
    2.2111    科学技術の未発達から生じる制約……個人の一生の間では恒星間旅行はできないという制約etc.
    2.2112    社会の未発達から生じる制約…………江戸時代には外国に渡航する自由がなかったことからくる制約。現代日本では同性婚が認められないという制約etc.
    2.212     想像力の欠如から生じる制約……ポストモダンを乗り越える思想が出現しないことからくる制約etc.
    2.221     法的制約……日本では重婚が認められないという制約etc.
    2.222     不文律、倫理的制約……いわゆる不倫は一応認められないという制約etc.

    原始人は自由だが不自由だ。生まれたばかりの赤ちゃんも自由だが不自由だ。それぞれ制約がある。前者は2.21、後者は2.11に抵触すると言えるだろうか。

  • #3

    からす (火曜日, 13 6月 2017 22:36)

    テスト前にマンガを読んだり掃除や片づけをしてしまう
    そんなようなことを自由と呼んでいるのではないか?
    などと考えてしまうことがあります
    逃避行動や無責任と自由は似てはいるけれど
    自分を束縛するものがなくなった時に
    それまで求めていたことが意味をなさなくなる
    そんなものは自由といえるのか?
    それはそれで良い気もするのですが
    それだけでしかないならば求める価値があるのだろうか?
    身近に自由を求めている人はたくさんいるけれど
    踏み出した人にはなかなかお目にかかれない
    やっぱり自由は怖いものなんでしょうか?
    自分で判断しなければならないめんどくさいもの
    人が決めてくれれば楽なので制約は捨てがたい
    手元にないものは欲しくなる
    他人が欲しがっているものも欲しくなる
    それを満たすことが自由なのか?
    その欲求を手放すことが自由なのか?

  • #4

    Mn3 (水曜日, 14 6月 2017 20:44)

    自由を通じて何をするかが問題であり
    自由そのものが目的なのではない
    あくまでも条件だ
    偉い人は言う
    「あなたたちは自由です。」
    よく聞くと別の声が聞こえる
    「何があってもあなたたちの責任です」「私たちに賠償しろとか言わないでください。」
    サルトルは言った
    「人間は自由の刑に処されている」と。
    封建時代ならば何をするべきかは決められている。
    もし自由が利くとしたらその枠内でだ。
    しかし今の私たちもその枠が大きいというに過ぎない。
    だが責任は自分で引き受けねばならない。
    それが自由と制約の意味するところだ。

  • #5

    からす (木曜日, 15 6月 2017 10:25)

    自由と制約
    考えをまとめここに書き込むこと
    これは自由の範疇にはいるかと思います
    では制約は?
    読むことができる必要はあるのでしょう
    少なくとも比重は自由よりも制約にありそうな気がします
    意味が通る必要がある
    これは難問です
    そんな自信はなく思い切りを必要としているので自由?
    自由と制約がせめぎ合っている・・・
    自由を求めている
    制約を見て見ぬ振りをして守っていることにしている
    制約を守っていることにしてそれを権利として利用している
    制約を厳しくすれば書き込む人がいなくなるので制約は少ない?
    管理者からの介入実績はないので制約はない?
    許容範囲内に収まっているので介入がなかっただけで制約はある?
    実は介入されているが気がついていないだけで制約はある?
    介入を恐れてじぶんで規制をしているので制約しているのはわたし?
    過去に介入がなかったのだからあるのは自己規制だけ?
    恐れているのは管理者ではなく読むであろう読者?
    読んだ人に内容をバカにされることを恐れている自分からの制約?
    読者が離れることを恐れる管理者を想定しての自己制約?
    制約という枠がなければここに書き込んでいないので制約は必要な要素?
    重要な要素それとも必要悪?
    書き込むには文章を並べるスキルと恥を恐れない勇気がいるのでそれが制約?
    では文書を並べられてアクションを起こせることが自由?
    なのかな?
    文書を書きアクションを起こすことを強制されても?
    充実して楽しければそれでも自由
    苦痛があったとしても?
    苦痛に対してどれくらいの充実感を得られれば自由を感じるのか?制約と感じるのか?
    考えを言葉にしてスッキリしたり充実感を感じるのは内側からの報酬
    人に感想を言われて嬉しいのは外側からの報酬
    それらの報酬は片方でも充実感を得られれて自由を感じるのか?
    両方必要なのか?
    必要ならば黄金比は存在するのか?
    報酬に時間差があっても問題ないのか?
    あるいは有効期限はあるのか?

  • #6

    Mn3 (木曜日, 15 6月 2017 22:01)

    哲学カフェに来るような人であれば皆だいたい同じくらいの知的レヴェルを持っている。
    だから自由と制約というお題でのこの投稿欄を見て恐らく首をひねってるだろう。
    「どうしてからすさんやMn3はああいった話題を故意に避けているのか」と。
    今日法案が可決成立した。
    この話題に触れないのならば哲学カフェもやっぱり単なる知的娯楽に過ぎないと言われても仕方がないだろう。
    しかし、だ。やはり怖いのだ。正直に言おう。私Mn3は恐れている。からすさんにはからすさんの言い分があるかもしれない。だが、この核心を衝かないぼやかした言い方にとどまってるのを読んでわかるように私は冗談ではなく本気に怖い。ここには書けない理由もあって私はこれ以上書き続けるのも苦痛だ。
    「そんなの考えすぎだよ」と本気に思ってる人がいるかも知れない。
    それは余りにもinnocentだろう。
    できればほかの話題に移りたい。
    #7では私をスルーして楽しげな文章を見たい。
    私も何事もなかったかのように#8を哲学的に進めたい。

  • #7

    からす (金曜日, 16 6月 2017 15:19)

    自由を制約するものに感情があると思う
    愛情から恐怖まで頭で考えたことを覆してしまう
    地面に置かれた30cmの幅の板を歩くことは難しくないが
    高さ10mに渡してある30cmの板を歩くことは難しい
    足が竦んで体が言うことをきかなくなる
    恐怖に囚われてしまうと自由を失ってしまう
    愛情の場合でも同じようなことはおきる
    好きな人の前ではとんでもないことをしてしまったり
    必要と判っていても相手の顔が浮かぶと決断できないことがある
    では愛情と恐怖の感情はどちらが優先されるのか?
    愛情であると言いたいところですが歴史をみてみれば逆が多い
    物語で最後に愛が勝つものが多いことは現実の裏返しでしょうか
    棋士は不利な局面で恐怖と闘わなければいけないが人工知能には恐怖はない
    感情がなければ自由に考えて実行できる
    確かに感情という制約がなくなれば自由度は大幅に増えそうです
    しかし感情がなければ自由を感じることはあるのか?
    目的を果たすための方法に選択肢は増える
    選択肢を選べれることを自由と表現できるので自由はある
    しかし確率で最短の結果を求めれるのならば迷いはない
    どちらを選ぶのか決まっているならば選択肢はないのかもしれない
    選択肢がないならば選択も無い
    それは自由というのかな?

  • #8

    からす (日曜日, 18 6月 2017 14:49)

    自由には意志の関りがあり
    自分が自由かどうかを決めるのは気の持ちよう
    同じことでも自由とおもえば自由だし
    不自由とおもえば不自由になる
    制約しているのは自分自身かもしれない
    それだけなのでしょうか?
    自分が自由とおもっているのは過去のことであり
    自由であったという記憶に過ぎないのではないのか?
    都合の良い記憶を引っ張り出して自由を語る
    確かに自在に知識を取り扱っている
    では記憶とは正確なのか?
    非常に正確な人もいるはずですがどうなのでしょう
    都合の良いように過去を改ざんしていた経験は身に覚えが多々あり
    中には自分で改ざんしたことすら忘れて
    事実だったと思い込んでいたこともあります
    また後の経験が記憶にのった感情を上書きしてしまうこともあります
    あの時、あなたの立場ではああ見えたかもしれないけれど本当は・・・
    すごく不自由だったと思っていたのに実はとても自由だった
    あるいは逆のパターン
    過ぎ去った過去の出来事のはずなのに白と黒が入れ替わってしまう
    過去の記憶から自由になったり囚われたり
    経験によって自由と不自由が上書きされたり迷ったり揺らいだりする
    これは自由と制約のことではなく記憶のことを考えているのだろうか?
    まあそれは私の自由ということで

  • #9

    からす (水曜日, 21 6月 2017 16:44)

    自由とは交換可能な物なのか?
    例えば自給〇×△円で働くことは自由を切り売りしているともいえる
    この場合の働いている時間以外の自由な時間とはどんなものか
    眠っている時間は自由なのか?
    眠らなければならないとすれば不自由となり眠ることができるとすれば自由
    やりたい娯楽、ゲームとか漫画を読んだりするのを自由とすると
    眠たいのに起きて好きなことをしている時間はなんでしょう
    眠いという欲求に抗う不自由とそれでも起きている自由が並立する
    いつでも寝れるという自由も持っている
    後で後悔するという自由も行使しているかもしれない
    これは自由といえるのかもしれないが疑問は残る
    切り売りした自由の対価はこの程度のことなのか
    他愛無いことを謳歌できることこそ自由である
    なにかそれっぽく思えるがそんなものなのか?
    切り売りした働いている時間にも様々な状況がある
    自分自身を使いこなしている充実感を感じることは量、質ともに
    働いている時間の方が多い人の場合にはどうなのだろうか?
    暇つぶしを欲しいと思う退屈な時間と有意義な時間
    充実した趣味の時間は週40時間あっても充実した状態を維持できるのか
    もしフルタイムで働く時間に対しての余暇で過ごす短い時間だから
    充実しているのだとするとこの関係はなんだろう
    制約がなければ自由を感じれないものなのだろうか
    休日を退屈と感じてしまう充実した仕事を持っている人がいたとすると
    どちらの時間を自由とよぶべきなのか?
    報酬をもらうのであれば拘束された時間なので自由ではない
    でも趣味や娯楽も充実感という報酬を受け取っているといえる
    ボランティアなどで感謝という形の報酬であればどうなのだろう
    自由な時間、制約された時間という2つに分かれるものなのでしょうか?
    もし分けれないのであれば交換は不可能ではないものの非常に複雑な取引となりそうです。





  • #10

    Mn3 (日曜日, 25 6月 2017 15:32)

    「制約」と広辞苑で引くと
    〈条件を課して自由に活動させないこと。「時間に~される」〉
    とある。
    これを見ると制約と自由は両立不可能なことなのかと思ってしまう。
    そして盲点だったのがその凡例。
    それを見ると、「忙しくて充分な時間を何かの事に当てられないのはよくあることだ」、くらいに考えていた。
    しかし、よく考えるとどんな金持ち、権力者、芸術家、学者でも自由に使える時間はせいぜい100年以内。
    この時間の制約から自由になることはできない。
    だが、この人間の寿命があるおかげで私たちは何かを成すことができるのではないだろうか。
    『人生は何事もなさぬにはあまりにも長いが、 何事かをなすにはあまりにも短い。』
    という人口に膾炙した中島敦の言葉を思い出したりもしたが。
    もう一つ思い出されたのは映画『ブレードランナー』での〈レプリカント〉のこと。
    彼らは人間を超絶した力を持つゆえ4年という短い命=安全装置(寿命のこと)をもつように製造されている。
    ラストのシーンのほうで主人公のブレードランナーことデッカード(ハリソン・フォード扮する)が「俺たち人間にも寿命がある。彼ら(レプリカント)と何が違うのか?」のようなことを独白する。
    どう解釈するかはひとそれぞれだが、映画を見終えたとき(今から30年くらい前かな)「人間も不条理を生きなければならない存在に違いない」との感想を覚えたものだ。(?)
    いずれにせよ制限時間というリミット=制約の自覚が、他の生き物と違い人において何かをなそうという源泉になるのではないだろうか。
    そして何も成せないでいるとどこか虚しさを感じてしまうのだろう。


第17回 哲学カフェ

自由と制約

2017年6月10日(土)

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