第7回 ビブリオバトル×哲学カフェ
 コラボ・イベント

2016年9月24日(土)

記録ご投稿



鶴舞中央図書館の外観写真
鶴舞中央図書館さん

■  日 時: 2016年9月24日(土) 13:15~16:15 (開場13:05)
   場 所: 名古屋市 鶴舞中央図書館 1階 第2集会室

     (名古屋市昭和区鶴舞一丁目1番155号)

      地下鉄「鶴舞駅」5番出口より南ヘ150m
      JR「鶴舞駅」公園口より南へ200m

タイムテーブル: 13:15~14:10 ビブリオバトル
                               14:10~14:15 休憩
                               14:15~16:15 哲学カフェ

テーマ: 未定 (当日、ビブリオバトル終了後に、皆さんとともにテーマを決めます。)

進 行: (ビブリオバトル) 名古屋ビブリオバトルの会
      (哲学カフェ)   なごテツ世話人

参加費: 無料

定 員: バトラー(発表者) 4名/一般参加者 10名程度

申 込: バトラー(発表者)、一般参加者ともに、必ず事前にお申込みください。
     (定員に達しましたら、若干のキャンセル待ちをお受けした後、締め切ります。)

     ※ 今回は、お申し込みのない方の当日受付はできませんので、ご注意ください!

申込先: バトラー(発表者):名古屋ビブリオバトルの会の専用フォームから、9月17日(土)までに、お申し込みください。  ←受付期日を過ぎましたので、バトラー(発表者)の申込みを締め切りました。
      一般参加者: 「9月24日ビブリオバトル×哲学カフェ コラボイベント参加希望」とお名前(ニックネーム可)を明記の上、
メールにてstaff☆nagotetsu.sakura.ne.jp (☆を@に変換してください。)宛にお申し込みください。

主 催: 名古屋ビブリオバトルの会、なごテツ

備 考: ① 会場の制約上、飲み物等の提供はありません。各自でご用意ください。

   ② 写真撮影と対話の録音をさせて頂いております。NGの方はお申し出ください。
   ③ 今回は、ご寄付のお願いは致しません。

   ④ イベントの性格上、参加者の皆様は、開催(13:15)までにお集まりください。

     (ビブリオバトルを行っている間は、途中入場できませんので、ご注意ください。)

 

《ご案内》

今回は、毎月第2土曜日に開催している定例の哲学カフェとは少し趣を変えて、名古屋ビブリオバトルの会さんとともに、ビブリオバトルと哲学カフェのコラボ・イベントを開催します。

ビブリオバトルで触発された疑問や好奇心を、哲学カフェで参加者の皆さんと共有し、ともに考えていきます。

 

前半のビブリオバトルでは、バトラー(発表者)4人でビブリオバトルを実施し、参加者全員の投票でチャンプ本を決めます。バトラー(発表者)が選ばれる本は自由です。

休憩を挟んで、後半の哲学カフェでは、ビブリオバトルで交わされたキーワードを元に、バトラー(発表者)を含めた参加者全員でテーマを決め、対話を通して、自由な立場で思索を深めていきます。哲学の知識は不要です。

 

本と、人と、哲学すること。

この3者の連携の可能性を探る新たな試みとなります。

 

一般参加者は、初めての方も歓迎です。どうぞお気軽にご参加ください。

 

ビブリオバトルとは?

発表参加者が「お薦めしたい本」を持ち寄り、各々5分間のプレゼンテーションで本の魅力を紹介し、その後のディスカッションを経て、最後に参加者全員一人一票で「チャンプ本」を決定する書評合戦です。より詳しい公式ルールは、こちらのサイトをご覧ください。

◎ ビブリオバトル公式サイトの説明

◎ 名古屋ビブリオバトルの会の説明

 

 


~記録~


~参加者からのご投稿~

[ご説明] 哲学カフェでのやりとりを多くの皆さまと共有する場として開設します。

       イベント終了後2週間程度を目安に、参加者の皆さまからのご投稿を募集します。

       当日の感想や、後で気づいたことなどを気軽にお寄せください。

       参加者同士のさらなる対話の場としてもご活用ください。

[ご注意] 「ホームページ」欄は、ご記入なしで構いません。

       「名前」は匿名や変名でも構いません。(後で変更はできませんので、ご注意ください!)

       ご投稿はなごテツが発行および許諾した印刷物や電子媒体で複製・転載する場合があります。

       あらかじめ、ご了承の上、ご投稿をお願いします。

イベント終了後、約2週間が経過しましたので、ご投稿の受け付けを終了いたしました。

今回も多数のご投稿をいただき、大変ありがとうございました。

コメント: 6 (ディスカッションは終了しました。)
  • #1

    からす (日曜日, 25 9月 2016 20:41)

    当日にテーマを選定する
    参加者で意見を出し合ってその場でテーマを決めることは
    何度目になるのだろうかと考える
    これはこれで面白い
    テーマが決まってしまうことが残念に思うこともある
    キーワードを出しあい、そこからテーマを組み立て、多数決で決まる
    今回は多数決のことを考えていました
    どれに投票するのかを決めるための情報を持っているのか?
    挙げられたテーマについて理解したうえで選びたいが
    理解しているとはいい難い
    なんとなく良さそうだと思ったテーマに投票するが
    自分の思っているテーマへの理解はこの場の共通認識なのか?
    そんな訳はないので自分の認識で考える
    そして投票して決まるわけなのですが
    今回は「作品と作者との関係はなにか」に13票中の6票の多数決で決まる
    多数決とは便利な道具ではあるのですが
    6人の賛成と7人の反対と見ることもできる
    効率的に選ぶ正解ってなんだろうと思いながら
    選挙とか民主主義を公正にというのは
    難しいことなんだろうなぁと考えてしまいました。

  • #2

    Mn3 (水曜日, 28 9月 2016 20:38)

    文章の意味と、作者の意図とは必ずしもイコールにはならない。
     暗号。これは多くの人には、意味不明。しかし作者の意図は仲間に確固たるひとつの情報を伝えること。伝わってしまえば、裏を探る必要はない。ひとつの意味が作者の真意。それ以上の判断は参謀など上級の者が行えばいい。解読者はまずその解読した意味、に満足しなければならない。
     法律。これは誰が判断してもひとつの意に解されるように書かれたもの。これに複数の解釈があると法体系が混乱してしまう。ただ、暗号と違って実際はひとつの法に複数の解釈が存在するのが事実だ。たとえば日本国憲法第九条。日本はあらゆる武装を禁じられているゆえ、自衛隊は違憲と解釈する学者もいる。いっぽう、日本国も自衛のための軍隊は否定されていない、とよむ学者のほうが多数を占める。
     実際そのへんは、いかようにも取れるように作ってある。しかして当時、憲法を作った人の意図、真意は如何に?
     小説。よく入試にあるように「この文の作者の意図は?」という問題がある。入試は受験者をふるい落とす為のものだから、案外難しい。多くのひとが正確に作者の意図を読みきれない作品を書いた作家の意図はいかに?
     また、小説家は自分の信念と真逆のことを書いてパロディー仕立てにして、読者に訴えることがある。
     貼り紙。「この道、私道につき、通り抜けするべからず。」という文。作者の意図は読んだ如く。しかし、不逞の輩は「ということは少なからぬ人がこの道を抜け道に使っている。ならば俺も。」と作者の意図とは真逆の結果になる場合も。(真似しちゃダメですよ!)
     遺書。自分が自ら命を絶とうとした理由を遺すのだが、実際、なぜ自分が死を選ばなくてはならないのか、自分でもはっきりと分かりかねる、という場合もあるだろう。遺された人でさえ遺書を「解読」するのが困難を究める場合も多い。まして、死の恐怖に打ち勝つように錯乱した頭でひねり出された文章は、書いた本人でも真意、意図はわからないのではないか、と言ったら言い過ぎか?
     そうして、やっとのビブリオチャンプ本=エチカ。
    神を説く書=究極のニヒリズムの書としてのエチカを、どう読み解けばいいのか?スピノザの真意とは?
     私は未読なので結論をだす資格が無い。読了するには根性がいりそうなのでまだ読み始めてもいない。申し訳ない。

  • #3

    からす (木曜日, 06 10月 2016 11:30)

    「作品と作者との関係はなにか」
    物語には衝撃的なラストシーンがあります。
    豊かな自然のなかで祖父母の愛情に包まれて暮らす少年は
    自分たちが迫害され差別されていることを身をもって体験していく
    自らも3世であり、愛情をもって物語を語るストーリーテラーが
    実は差別をしている側の人であり実際に手を下したこともあった。
    このラストシーンは本を閉じた後に起きたことであり
    読者が自ら手を伸ばさなければ知ることはない事実である。
    とても好きな本であっただけに最初は信じられず
    心が軋んで引き裂かれる感じをまだ覚えています。
    この話をまだ知らない読者と共有するべきなのか?
    作者は作者でありフィクションの作り手でしかないのだから
    どんな人物であろうとも物語とは関係ない。
    これは正論なだけで心に届く言葉ではないと思う
    頭で考えている壁をすり抜けて心に到達してしまうものに対して
    私はなにも抵抗できず、後から気づくことになってしまうのだが
    そんな体験を求めて新たな本を探してしまうことも
    書き手を想像して理想化してしまうことも
    仕方ないことなのかな。

  • #4

    Mn3 (木曜日, 06 10月 2016 21:24)

    フィクションを排して、事実だけを用いてある人を貶めようと、マスメディアがターゲットを定めたら、これを逃れるのは至難の技だ。だからマスメディアは第四の権力とよばれる。今ならネットを通してターゲットを自殺まで追いやることもわけないだろう。
     なぜマスメディアが権力を持つかといえば、「マス」メディアであるからにほかならない。私たちも、それを通じることにより拡散した責任をもっている。だが、われわれの誰も殺人罪で訴えられることがない。
     とにかく目立たないよう、ターゲットにならぬよう読みきれない空気を読んで生きていかねばならない。そうしなければ、誰もがターゲットになる可能性を持っている。まさしくスケープゴート。そのことを自覚して(加害者にも被害者にもならないよう)マスメディアを使うリテラシーの獲得が急務である。
     プログラミングのスキル習得ほど経済にはコミットしないかもしれないが、もっと生存の根底に関わる大問題である。自分は叩かれても一切ホコリのたたない人間であると自信を持って言える人がどれだけいるだろうか?
     たとえ事実無根のことを書き連ねても、火のないところに…というように多くの人が事実だと思うようにマスメディアは仕向けることもできる。
     ネットが、個人が社会で対等に発信することを可能としたとして評価する向きがある。それは否定しない。だが我々は気軽に殺人を起こす「権力」をも手に入れたことは注意してもし足りないことだと思う。そしてこの「殺人」には首謀者が事実上いないということ。
     いつからか『すばらしき未来社会』というようなディストピアが現実に到来しても気づかない恐れが、或いはもう既に?
     匿名性の持つ白と黒のちから。悪魔も元は天使だったのは聖書だけの世界であって欲しい。
     管理社会と呼ばれる現代社会、自分の情報がどのように蓄えられていても触れることもできない。ビッグデータとは経済最優先の謂。そこにはお天気雨のように明るい不気味さが、二重三重にも姿を隠して微笑んでいる。
     現代以降はコメディを無邪気に笑うことも許されない。

  • #5

    からす (金曜日, 07 10月 2016 23:02)

    「作品と作者との関係はなにか」を考える上で
    致命的ともいえる問題点がある。
    相手のことを判断するということは
    自分のレベルまでしか計ることができない。
    相手がどんな素晴らしい人であっても
    判断する知識や経験がなければその意味することを
    理解することはできはしない。
    他人が評価していることを参考にするのも同じことで
    その評価が正しいかどうか判断する力を必要とする。
    そして自分の考えの方向性にも強く影響を受けてしまう。
    悩ましい限りです。

  • #6

    Mn3 (土曜日, 08 10月 2016 00:40)

    わたしは油絵やテンペラ画、フレスコ画を描いたことがない。もちろん人体解剖などしたこともない。
    なのにミケランジェロやボッティチェッリに感動するのは何故だろう?
    ダ・ヴィンチの人体解剖の絵に感銘を受けるのはなぜだろう?
    わたしは戦争に行ったり人を殺したこともない。
    なのに戦記物を楽しんだりユーゴーに魂を揺さぶられるのは何故だろう?
    わたしは死んだことがない。
    なのにレフ・トルストイに息を凝らすのはどうしてか?
    わたしは五線が読めない。楽器も出来ない。
    でもマーラーやプロコフィエフに感動してしまう。
    わたしはアインシュタインやマルクスの頭に比べようがないほど思考力が劣っている。
    だが彼らのエッセンスを面白くおもう。
    わたしはニーチェやウィトゲンシュタインとも断絶している。
    けれどもその著書のスゴさは感じられる。
    不思議なことばかりだ。



第7回 ビブリオバトル×哲学カフェ コラボ・イベント

2016年9月24日(土)

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