第4回 哲学カフェ なぜ私たちは「自分は何者なのか」と考えるのか

2016年7月9日(土)

記録ご投稿



■  日 時: 2016年7月9日(土) 13:00~15:00
   場 所: カフェ・サンラファエル

     (名古屋市西区名駅2-11-8 ファーストビル大樹1階)

      地下鉄「名古屋駅」1番出口より北へ徒歩5分

テーマ: なぜ私たちは「自分は何者なのか」と考えるのか

進 行: 井下賢一

参加費: 飲食代実費(440円~)

定 員: 13名

申 込: なるべく事前にお申込みください。

     (定員に達し次第、締め切ります。お申込みがない方は席に余裕がある範囲で先着順でお受けします。)

     お陰様で申込みが定員に達しましたので、事前受け付けを終了致しました。

申込先: staff☆nagotetsu.sakura.ne.jp (☆を@に変換してください。)

主 催: なごテツ

共 催: カフェフィロ

備 考: ① 100円程度のご寄付をお願いしています。(強制ではありません。)

   ② 写真撮影と対話の録音をさせて頂いております。NGの方はお申し出ください。

 

《ご案内》

多くの人が一度は「自分は何者なのか」と考えたことがあると思います。年齢、性別、健康状態、職業、能力、性格、嗜好、周囲との関係や評価など、様々なことを手がかりにして答えを求めようとしたり、あるいは、何者であるか自己規定して問うことを諦めたりします。そのようにするのは、なぜなのでしょうか。
いつものように自己紹介・自己開示不要で、ともに考えていきます。初めての方も歓迎です。どうぞお気軽にご参加ください。


~記録~

―開催報告―

なごテツ 第4回 哲学カフェ なぜ私たちは「自分は何者なのか」と考えるのか

日時: 2016年7月9日(土) 13:0015:00

会場: カフェ・サンラファエル(名古屋駅東口)

進行役: 井下賢一        参加者: 18

 

前回に引き続き、定員を超える参加申し込み。今回は初めての方も多く、どんな対話になるかスタッフもドキドキです。

最初に進行役より、どういうときに自分は何者なのかと考えたのかを教えてくださいとの問いかけがありました。

ちょっとの沈黙のあと、参加者の皆さまから、大学を選ぶとき、仕事を選ぶとき、結婚のときのような節目のときに考えるとの発言をいただきました。それに対し、何者なのかと言う時の何かに決めてしまうのには違和感を感じるという発言も。男らしい、大人らしい、社会人らしいという言葉に共感できない。そんなに決められるものなのでしょうか。あれとも違い、これとも違う、いったい自分とは何。とならないでしょうかと続きます。

仕事とプライベートで自己紹介で話す内容が違います。どれが自分でしょうかとの発言があり、このように問うときには条件があるのではないでしょうかとの発言が続きます。その条件とは、現状に不満を持っている/自分にはまだポテンシャルがあると思っている/経済的・時間的に余裕があるという時に考えるのではないかと。

 

それに対し、私は、自分が何者なのかと考えたことはありません。どういう時に考えたか教えていただければ答えられるとの発言がありました。

失敗や挫折したときにのように、自分について振り返る時に、こういう問いは自然と沸いてくるものではないのではないかとの発言も。また、自分から自発的に問うているのではなく真似をしているだけ、例えば流行やトレンドの自分探し、ファッションのようなものではないかとの発言もありました。

 

それに対して、人が生まれて、成長していく中で、他人とは違う自分というものに気づくときに必ず沸いてくる思いとして自分とは何だろうという問いがあるのではないかとの発言があり、それが自我の確立というものではないかとの発言がありました。

それに続いて、いくつかの節目で自分を確立していくことがあるということで、例として、長男として生まれて自然と弟に対する責任を感じている。弟の身に何かあれば会社を休んでも何とかしなければと思うと、自身の体験を語っていただくひと時もありました。

その後、絶対的に孤独の時に自分とは何者なのかと考えるのではないか、自然と対峙したときに自分とは何者なのかと考えるとの発言。

また、自分の実家はお寺で、次男なので継がなければならないわけではないが気にかかっていて、そういう時に自分とは何者なのかと考えていた。だが、自分のやりたいことがはっきりしてからは考えなくなったとの体験を語ってくれた方もいました。

その中で、はたして、こう考える前提は何なのだろうとの問いが発せられて、こういう前提を問うというのもよいとの進行役からの一言。

ここで休憩時間に入りました。

 

さて、対話再開の冒頭、進行役より、いくつかのテーマの中から選択して対話を行う提案があり、挙手により選択。

自分とは何者なのかと問う前提について対話することに。

 

すべてを取り去ってもこの自分という何等かのものがあるという実感はとりさることはできない、この沸いてくるようなものが前提としてあるのではないかとの発言に対して、私というものはない、そんな実感はないという発言があり、ここからは、われ思う故にわれありというデカルトの言葉が聞こえてきそうな活発な対話がなされましたが、いつものごとく
意見は収束することなく時間切れとなりました。

 

今回の対話では、いつにも増して哲学的な掘り下げがされていたように思います。

その後、2次会でも延長戦が繰り広げられ、それぞれに満足できたと思われる哲学カフェとなりました。

 

(作成: なごテツ世話人 荒井豊)


~参加者からのご投稿~

[ご説明] 哲学カフェでのやりとりを多くの皆さまと共有する場として開設します。

       イベント終了後2週間程度を目安に、参加者の皆さまからのご投稿を募集します。

       当日の感想や、後で気づいたことなどを気軽にお寄せください。

       参加者同士のさらなる対話の場としてもご活用ください。

[ご注意] 「ホームページ」欄は、ご記入なしで構いません。

       「名前」は匿名や変名でも構いません。(後で変更はできませんので、ご注意ください!)

       ご投稿はなごテツが発行および許諾した印刷物や電子媒体で複製・転載する場合があります。

       あらかじめ、ご了承の上、ご投稿をお願いします。

哲学カフェから約2週間(+1週間)が経過しましたので、ご投稿の受付けを終了致しました。

ご投稿、大変ありがとうございました。

コメント: 35 (ディスカッションは終了しました。)
  • #1

    からす (月曜日, 11 7月 2016 20:52)

    「自分は何者なのか」と考える時点で自己否定をしている
    表現を変えながら何度か出てきたと思います
    人生がうまくいっている時には考えないこと
    しかしあまりに余裕がなくとも考えないことかもしれません
    考えることができる人はまだ恵まれてのではないかとの意見も出ていました
    この意見にはどんなに余裕がない状況であろうとも
    考えてしまう人は僅かながらにいると思っているので
    ほとんどの人がというのならと条件付きであれば賛成です
    また、個人的に気になったのは出した結論に深い浅いがあるらしいことです
    わたしは自分の意見が「浅い」と判断されることを恐れてしまうので
    よく発言した後で後悔するのですが
    この問いに対しての評価をすることを正直怖いと感じました
    円熟の域に達した人物の思慮深い答えと
    盗んだバイクで走り出してしまった答え
    どちらが正しいかを判断することは容易ですが
    その人生を賭けてしまう選択は浅いとしまってよいのでしょうか?
    また最も重い答えのひとつは自分とは何者でもあってはいけない
    つまり自殺になってしまうのでしょう
    誤った答えと片づけてしまうことは容易なのですが
    40代の友人が出した結論であると気持ちの持っていく場所に困ります
    人生のどのタイミングかでの問いなのか?
    同じ人が同じ答えを出したとしても
    全く違う意味を指す内容なのかもしれず
    他人には理解できないだけで
    文字通り人生をかけたことばなのかもしれない
    もちろんそんな言葉に出会うことは滅多にないのでしょう
    でも後々になっても思い出してしまう言葉とは
    そんな言葉なのかもしれません

  • #2

    Mn3 (火曜日, 12 7月 2016 23:54)

    昔、知り合いのカウンセラーに問うたことがある。
    「いちばん重いクランケはどんな人ですか?」、と。
    「それは、自分の生の意味を問い続けてる方ですね。」と知らされた。
    わざわざカウンセリングにまでかかって自分の生きている意味を探究し続けるひと、
    私は顔に出さないように内心『随分、高尚な趣味ですね』と思った。
    というよりは、その人はそう問い続けることで、ようやく生きていくことが出来る、そんな人なのだろう。
    やはり私は、そのクランケに軽蔑と字義通りの意味での「尊崇」の念を覚えるのに禁じえなかった。
    私は、生きていることに真剣な人を尊敬してしまうのだ。
             *         *         *
    中原中也の遺した言葉がある。
    「芸術家には二種類ある。地獄を見れる奴、と地獄を見れねえ奴。
    地獄を見れねえ奴。こいつは、はなっから、たいしたことのねえ奴だ。
    問題はここからだ。
    なぜなら、地獄を見ると、人はそこでおしまいだからだ。」
    この中也のことば。私はまだ、よくつかみかねている。ただ、
    芸術家は己を極めたと思った瞬間、もう一歩も進めない。
    かと言って戻ることもできない。まさに無間地獄、、、、と感じるしかできない。
             *         *         *
    自分が何者かは、自分だけが自分の生で試してゆくしかないと思う。
    深く掘り下げて行こうと思えば、どこまでも深く、それこそ地球の地殻を掘り抜いて
    地獄まで達してしまう。
    私には、そんな能力もなければ勇気もない。

  • #3

    からす (木曜日, 14 7月 2016 23:49)

    失敗をしたり
    同じ失敗を繰り返したりすると
    自分はいったいなにをしているのかと考えてしまう
    現状にいたたまれないので
    過去の出来事を並べて自分を正当化しようとするが
    砂の城にすらできないでいると
    なぜ自分のいる理由を再構築しようとするのかに興味が出る
    試験勉強の最中に掃除を始めるのと同じように
    肝心なことから目をそらしてしまう
    そんな時には普段面白くないことが楽しかったりします
    高尚な理由で考えを深めれる人たちのことは判りませんが
    酒の席で自分の華々しい過去を語る人たちの姿は理解できます
    「自分は何者なのか」と考えるのは人生がうまくいかない時?
    うまく行き過ぎた時にも自慢話で過去を語るのかもしれません
    Mn3さんの書かれたいちばん重いクランケのひととは
    自分の過去を適当に構築することを許せず
    途中で投げ出して誤魔化すこともできない人なのでしょうか
    なんとなく人生を過ごせなくなったら
    こころをすり減しながら生きていくのでしょう

  • #4

    ミラー (土曜日, 16 7月 2016 22:31)

    人は60兆個の細胞からできているといわれているそうですが
    一年も経てばすべて違う細胞に置きかわっているそうです
    物質としては全く違った自分、
    、、じゃぁ、我思った故のわれ
    、、、、、何者?

  • #5

    Mn3 (土曜日, 16 7月 2016 22:53)

    自分は何者か、と考えてしまう時
    私は真剣に人生をふりかえるだろう。
    その時、敢えてこういった公共の場で避けてきた話題がある。
    それは「自分で自分の生を終わらせること」だ。
    こういった話題は取り扱いがデリケートだから迷惑な投稿かもしれない。
             *         *         *
    からすさんの#3において
    >「自分は何者なのか」と考えるのは人生がうまくいかない時?
    >うまく行き過ぎた時にも自慢話で過去を語るのかもしれません
    というところの
    「自分は何者なのか」→「自分は死んだほうがいい」
    自慢話で過去を語る→「自分は死んだほうがいい」と考える
    と置き換えても意味が通じるかもしれません。
             *         *         *
    自死について過去のひとはどう考えてきたか?
    まず、A.ビアス。あの『悪魔の辞典』を書いた人です。
    アメリカはやはりキリスト教の国、『悪魔の辞典』の中には【自殺】の項目は見当たりません。
    ちゃんとした、ことわざ辞典を紐解くと、【自殺】の項に、『勇気が試されるのは、死ぬことにはなく、生きることにある』ーイタリアの諺。
    ショウペンハウエルの『自殺について』の中からは古代ギリシアのストパイオスとかいう人が引用した句として、『善人は不幸が度を超えたときに、悪人は幸福が度を超えたときに、人生に決別すべきである』というのがあります。
             *         *         *
    自分の人生に絶望し死刑になりたくて人を殺した、という若い人の犯罪、まだ記憶に新しい。
    彼らは実は全く逆、自分の人生はもっと楽しいものである筈だ!という希望があるからこそ犯罪に手を染めてしまったのではないだろうか。
    今の若い人には多少とも共有する心理では、との思いもかすめるのだが。だからといって正当化はできませんが。
            *         *         *
    自殺とは関係ないが、立花隆の言葉で『頭がいい人と悪い人がいても、チンパンジーと人間ほどの差はないわけで。誰かにできることは自分にもできると思って間違いないです。』
    というのがある。なんとも励まされる言葉ではないか。

  • #6

    からす (日曜日, 17 7月 2016 16:02)

    毎晩眠りについた私と
    朝目覚めた私は同じ私なのだろうか?
    私は自分のことを把握しているのだろうか?
    お腹が減ることをコントロールすることすらできないし
    内臓器官に指示を出すこともできない
    100Mを何秒で走れるかも知らない
    そもそも100Mを走ることができる体力があるかすら知らない
    私は左右の視力が違うもで距離感が判らないらしい
    球技が苦手で避けてきたので日常生活には困らないが
    なんとなくしか距離感をつかめていないらしいが
    飛んでくる物をキャッチするのが
    なぜうまくいかないのか40年間知らなかった
    ダンスのまねごとをしてみればイメージ通りには動けない
    魅力的な女性を見ると体も心も反応してしまうことを止めれない
    魅力的な男性を見ても同じようには体も心も反応しない
    これは私の
    体の反応なのか
    心の反応なのか
    文化的な後天的反応なのか
    意識すれば変更が可能なのか?
    私が私と思っているものの中でどれだけに支配が及んでいるのか?
    内臓は勝手に動いているし
    手足だってなんとなくしか動かせない
    感情も湧いてくることを制御できない
    集中して考えることも思い通りにならない
    食べ物を変えれば感情の起伏も変わってしまう
    この思い通りにならない体と私と思っているこの思考
    どちらが私の同居人なのだろうか?
    我とは体の寄生体に過ぎないのかもしれない

    私は自殺ということを尊重する
    大事な友達が選んだ最後の選択を否定することを
    どんな感情に巻き込まれても私は自分に許したくない
    でも
    もしそんな考えから離れられなくなったなら
    全てを捨てて逃げてほしい
    大切な物も
    大切な人も
    大切にしている考え方も
    大切にしている環境も
    自分だと思っている性格も
    そんなものはあなたの全てではない
    全てを捨て去ってと思ってもあなたはあなたでしかない
    あなたに会えて良かったと言ってくれる人が
    今まで知らなかったあなたを教えてくれる
    悪くない自分に出会えたら
    それを自分にしてしまえばいい
    今までのあなたを知らない人は
    あなたはそんな人だと思ってくれる
    自分なんて環境で簡単に変わってしまう
    常識?
    そんなものに殺されるくらいなら
    捨ててしまえばいい

    自分は何者なのか?
    知らないんだから
    知りたいし考えたい

  • #7

    Mn3 (月曜日, 18 7月 2016 09:28)

    #4のミラーさん #6のからすさん のヴァリエイションですが。
     自分のちからの及ぶところを自分の中、とするなら
    私の中にもわたしの外はあり
    私の外にもわたしのなかはある。
     突き詰めて言うと、わたしとは脳なのだと他人は言う。
    でも条件反射で火傷から体を守ってくれたのは誰の命令?
    ならば他人はさらに言う、わたしとはDNAなのだと。
    でも一卵性双生児は同じDNAを持ちながら別人格ではないか。
     『なぜ私たちは「自分は何者なのか」と考えるのか』というタイトルに騙された。
    それはどういうことかと言うと、『わたし』とは何か、という定義である。
    『自分』のちからの及ぶところのある者が、『自分』では、睡眠中の者や植物状態の者には『自分』がないということになってしまう。
    (植物状態の人からは臓器摘出ができるように、限りなく『自分』が無いとされてはいるが)
    生き生きとした実感を感ずることができるものを『自分』と呼んでみても上記の理由で整合性がない。
     カフェの終わりの方でどなたか『自分とは』について発言していたと記憶してますが、この『自分』=『わたし』=『己』とは何か、というのは実は大難問ではないでしょうか。
    もう答えのないもの。アポリア。
    私が感じてる青の色とあなたが見ている青色が同じだと証明しろ、というのと同じような難問です。
     もう『私』の定義を各自、挙げていくしかないと思われます。
    『私とは全世界の創造者であるとともに全世界の破壊者であるもの』
    これがわたしの現段階での『私』の定義です。

  • #8

    からす (月曜日, 18 7月 2016)

    Mn3さんの言われる「私」の定義を読みました
    しかし今回のテーマは
    『私とは全世界の創造者であるとともに全世界の破壊者であるもの』
    という答えを導き出すことではなく
    『私とは全世界の創造者であるとともに全世界の破壊者であるもの』と
    なぜMn3さんが考えるようになったのか知りたということかと思います
    この答えにたどり着いたMn3さんは
    なぜ『私』の定義を考えたのでしょうか?

  • #9

    Mn3 (月曜日, 18 7月 2016 10:53)

    #4のミラーさん より
    >、、じゃぁ、我思った故のわれ
    >、、、、、何者?

    #6のからすさん より
    >毎晩眠りについた私と
    >朝目覚めた私は同じ私なのだろうか?

    ここのところから今回のテーマを根源的に考えていこうとすると
    「自己同一性」というキーワードからは避けて通れないと思ったので。
    もし『私』が幻想ならば今回のテーマが危機に陥ってしまうのでは?という杞憂がわたしの中で生じたからです。

  • #10

    からす (月曜日, 18 7月 2016 10:54)

    「自分は何者なのか」と考えることは知的好奇心の追及なのだろうか?
    知らないことを知りたいと思う欲求の一部なのか
    それとも「自分は何者なのか」と考えるために知識への欲求が生まれるのか
    科学は神を知るために発展したと考える人がいますが
    知りたい神の意志の中でなぜ自分は創られた?のかは
    発端として大きな比重を占めているのではないかと考えてしまいます
    他の知識は客観性を持つことができますが
    自分のことは感情が伴うため客観性を持つことが困難です
    神はなぜこのように考える自分を創ったのかと考えることは
    客観的に考えるためには有効な方法な気もします

    また、「自分は何者なのか」と考えるための方法として
    自分で考える
    人に話して考える
    人に教えてもらう
    これらの組み合わせになっていくとおもうのですが
    自分史を人に話すことはお酒の席でエンドレスになりやすいことから
    快楽の一種なのかとは思われるものの
    強制され評価されるとなると恐怖に近くなる
    人に教えてもらうことも占い関連が事業として成り立つのですから
    お金を払ってでも知りたいといえるのでしょうか
    これもお酒の席でエンドレスで語られる姿を確認できるので
    人に定義されることも人を定義することも快楽なのでしょうか
    稀に関係が循環していることもあるようですが
    一方的な展開が多く見られる気はします

    自分は何者かと考えることは快楽なのでしょうか

  • #11

    Mn3 (月曜日, 18 7月 2016 11:07)

    >もう『私』の定義を各自、挙げていくしかないと思われます。
    としたように「各自」と記した通りわたしはこのように思いますが
    他の方はどう思いますか?という意味です。

  • #12

    からす (月曜日, 18 7月 2016 17:05)

    『私』の定義に相違があった場合において
    なぜ私たちは「自分は何者なのか」と考えるのか
    という問いに矛盾が出るのか?
    自分という存在に複数の仮説が立てられたとしても
    その仮説を立てている私はひとりしかいないと思います
    多重人格で体をシェアしている場合においても
    しれぞれに思考すると思いますから矛盾は発生しないと思います
    「自分は何者なのか」という問いであるならば
    「自分」の定義が重要になると思います
    しかし今回は「」の中の定義ではなく
    「自分は何者なのか」の「」の中を考えてしまう理由です
    Mn3さんにとって私が中にある場合と外にある場合で
    『なぜ私たちは「自分は何者なのか」と考えるのか 』は
    違う問いになるのでしょうか?

  • #13

    Mn3 (月曜日, 18 7月 2016 20:08)

    <なぜA(の複数形)は「Aは何者なのか」と考えるのか>
    という文について、Aの意味が定まっていないと、この一文は意味を成さない。
    つまり正しい疑問にはならないのでは?と思ったからです。
    逆にAがはっきりと定まっていなくとも意味が通じるなら、それは何故か?と考えたわけです。
    言葉を変えて言うと何故Aを含むものが不文律になっているのか?
    そこに興味が湧いたのです。

  • #14

    からす (月曜日, 18 7月 2016 20:54)

    Mn3さんの疑問は解決したようですね!
    よかったです。

  • #15

    ミラー (月曜日, 18 7月 2016 21:41)

    いろいろ巡ると 自分は結局
    何者であるかを言葉や形に表して
    自分の存在を自覚したい、人に認識して欲しい
    という
    稚拙で俗っぽい動機のようなきがしてきたUstg

  • #16

    からす (火曜日, 19 7月 2016 20:03)

    酔っ払いの戯言に出てくることは
    その人が普段、心に隠していること
    実は大事なことなのではないかと思います
    これを意識的にうまく活用している人を
    モチベーションの高い人と呼ぶのではないでしょうか
    商業ジャンルでは自己啓発セミナーとなり
    自分に自信のない人たちが大量に流入して
    主催者たちの懐を潤している
    対価にお金が発生しない内容を高尚で深い話とするならば
    この問いは該当しないのでしょうか
    しかしこの問いの影響が広いと思うのは
    自分を考えるために他人と比較することだと思います
    いじめの問題なんかも
    自分と違う人を許容できないことが根っこのひとつだとするならば
    この問いのすぐ近くに潜んでいそうな気がします
    『なぜ私たちは「あいつは何者なのか」と考えるのか』
    の答えのバリエーションの気がします
    <自分の存在を自覚したい、人に認識して欲しい
    という
    稚拙で俗っぽい動機>
    このことを自覚してしまうと
    恥ずかしくて夜も寝られなくなるような・・・
    「なにやってるんだろう」という
    エンドレスな問いから逃げるために人に攻撃になってみることは
    「だからあいつが悪い」と心を誤魔化すのに有効な手段になる
    自分の中にもある見慣れた感情なので
    なんとか見ないようにしたいと思ってしまいます。

  • #17

    からす (水曜日, 20 7月 2016 18:47)

    電車の中で強烈に汗臭い人に出会う
    すると自分の中におそれが湧きはじめる
    自分は臭くないのか?

    下世話で浅い話に拘ると怒られそうですが
    自分自身を問うときに前向きの状況はあるのでしょうか?
    こんなにうまくいくなんて俺って天才!
    などと考えている時に自分とは何者なのかとは考えない気がします
    冒頭の問いに対してならば自分のことは判らないので
    人に聞くしかないのですがこれも難題です
    汗臭くない?と聞ける相手などとても限られます
    それくらいなら薬局に行って匂い消しを探しに行く方が楽です
    もうひとつの方法としては私とあいつは違うと強力に念じること
    私は自分が汗臭くないはずの理由を探し集め
    これだけの正しい選択をしたのだから自分は該当しないと暗示をかけます
    ついでに汗臭いひとは正しくない選択をしたのではないかと
    そのひとの存在を否定したくなり
    自分とは違う存在であるとしたくなります
    あいつは自分とは違うと表現するには
    自分は何者なのかを定義して正当化する必要がでてくる・・・

    高尚な話からはますます離れてしまった

  • #18

    からす (金曜日, 22 7月 2016 16:00)

    なぜ私たちは「自分は何者なのか」と考えるのか?
    やるべきことをやってこなかったと自覚しているから
    やるべきことは知っているのに
    目を逸らしていること
    考えることを放棄して現実を見ないこと
    堕落している自分を直視できなくて
    本当の自分が別にあると想像する
    ありのままの自分の姿など怖くて見れないから
    過去を繋ぎ合わせて物語をつくり
    自分を構成するものと思い込ませることで辻褄を合わせる
    「自分は何者なのか」と考えることは
    都合のよいことだけ見ている状態なのではないかと思う

  • #19

    ミラー (金曜日, 22 7月 2016 22:53)

    都合の良いことだけをみているーー実は都合の悪いこともあるということを知っているということかな?
    何者か考えてしまうのは
    自分を知りたいから、、、
    答えは1番単純な事かも

  • #20

    からす (土曜日, 23 7月 2016 12:35)

    自分に都合の悪いことがあることは知っていても
    見ないようにしてなかったことにしたい
    自分を知りたいと思ってはいるが
    都合の悪いことは知りたくない
    自分のことを知りたいという欲求はあるが
    本当に自分のことを知りたいと思っているのでしょうか?
    実は自分の思い描く自分を知りたいだけで
    思い描く自分以外は見たくない
    もちろん思い描く以上に褒めてもらえるのは受け入れるけれど
    他人が思い描く自分が自分の思い描く自分と違うときにも
    なぜ私たちは「自分は何者なのか」と考える
    あるいは考えるかわりに相手の意見を否定する
    意見ではなく相手自体を否定することもあります
    否定することで自分のことは思考停止でき
    見たくないことを考えなくてすむ
    他人が思い描く自分が自分の思い描く自分と違うときに
    ネガティブに感じる時には反発や怒りの感情が
    ポジティブに感じる時には涙が出るような感動が沸き起こる
    これも知りたいという欲求と同じように
    予測は可能でも止めることも制御することもできない
    感情レベルの条件反射が考えることの引き金とは思いますが
    なぜその内容が引き金になるのかは
    その発生元を辿っても単体では答えにはならない
    いくつもの発生源が重なって火種となるものと
    あるタイミングで出会うと感情が爆発して
    考える始める切っ掛けにはなるが
    それは「自分は何者なのか」と考えるのか?の答えにはなり得るのか?
    ここまで書いてみましたが答えとしては弱いですね・・・

  • #21

    ミラー (土曜日, 23 7月 2016 15:52)

    理想とする自分も
    理想とする自分とかけ離れた自分も
    認めて、受け入れる
    そうなれるように
    自分が何者であるかを考えているともいえるかも
    哲学的な話しから外れてしまって申し訳ありません

  • #22

    からす (日曜日, 24 7月 2016 13:12)

    「理想とする自分とかけ離れた自分も認めて、受け入れる」のでしょうか?
    本当に認めたいと思っているのでしょうか
    見たくない自分を肯定的に思わせてくれるものを探すのは
    インターネットの普及で容易になり
    スマホでプライベートを確保され
    安心して身を委ねれるようになったと思います
    見たくないものを遠ざけ、自分を肯定してくれるものを集める
    ネットゲームなら同じ価値観を持ち
    同じ目標に向かう仲間を一度も顔を合わすことなく持つことも可能です
    「自分は何者なのか」と考えるのは現実逃避であり
    考えたつもりになっているだけなのではないのか?
    考えたつもりで考えていないのだとすれば
    今回の冒頭の発言の
    「私は、自分が何者なのかと考えたことはありません」の
    引力からの脱出が困難になってくる
    自分では考えたと思っていることが
    思い込みによる幻想にすぎないかもしれない
    正しいと思っていたことの根拠を自分で疑うことは難しい

    私たちは「自分は何者なのか」と考えているのでしょうか?

  • #23

    Mn3 (月曜日, 25 7月 2016 23:37)

    自分は何者なのか?
    に対する答えと
    そうは言っても、自分だけが知っている本当の自分
    の間には「差」が生じてしまう。
    どうしてでしょうか?
    自分を肯定的に受け止める自分がいるのは、なんとなく分かりますが、
    どうしてひとは自分のことを自虐的なまでに捉えてしまう時が、あるのだろうか?
    そんな作業をしても自分を改善するよりも、再起不能になる確率が高い。
    文字通り再起不能=自死、までの距離は
    思ったよりも近い、というべきか、
    すぐそばなのだが、自死にたどり着くには高いたかい壁をこえなければいけない、
    という事実に守られ、あとは惰性で生きている、生きられる。
    私たちが、「自分はなにものだろうか?」と問う時、
    なんとなく今まで見えなかった自分に出会える期待感とともに、
    自死の魅力に知らないうちに取り憑かれている、
    ことがないだろうか?
    ふつうひとが「自分はなにものかとは考えたことがない」というのは
    生命体として安全なやり方だと思う。
    自死を選べば「良い」という訳ではないが、
    むかし、作家が自死を選ぶことが稀ではなかったのは、「自己の追求の最終的行為」としてではなかったのか、という気がしてならない。
    「自分はなにものかとは考えたことがない」というひとを責めるべきではないし
    その結果、自裁に及んだ人には哀惜の念を、
    遺された人の分まで。

  • #24

    からす (木曜日, 28 7月 2016 11:04)

    自分だけが知っている本当の自分とは
    本当に自分なのか?
    これも面白いテーマですね
    他人が知った時点で該当しなくなりますが
    知っているけれど言葉にしないことは多いので
    他人には知られていないと思っている自分は
    隠しているけれど他人から丸見えになっていたりする
    お互いに知らぬふりをしていることも多そうです
    実は自分よりも相手の方が事実を知っていることも多々
    またどこまで厳密に一致すれば知っているとなるのか
    この基準も難しそうです
    完全に一致とするならばすべての自分像が
    自分しか知らないとなるので問いの意味が怪しくなってしまう
    「なぜ私たちは」を同意できなければ問いが成り立たなくなる
    個人的な興味でいえば「本当の自分」というものに
    執着をしてしまうのはなぜなのか?も面白そうです
    自分が思っている自分と他人から見た自分が違っても
    それ事態にはなにも問題はないのですが
    受け取る側に反応する何かがあると感情が湧いてくる
    希望とか望みとか理想とか期待とか
    なんらかの形があるとおもっているものがあるので反発する
    他人から良く見られたいという願望は
    自分からも巧妙に隠してしまっているので
    意識することは難しく、認識したと思っている内容には
    更に別の理由が隠れていたりもする
    恐らく探索は無限に続けることが可能で
    辿り着いた事実と思っていることにより新たな物語がつくられ
    探せば探すほど同じような内容を繰り返す
    では探すのを止めれるかというと止められない
    宗教などの修行とか呼ばれるものはこの迷いから抜け出すための方法ですが
    もちろん万能の解決策にはならない
    より大きな悩みに遭遇すれば飲み込まれてしまう
    では無意味なのか?
    なにもしなかった場合に比べれば巻き込まれにくくなり
    逃れることができる可能性も増える
    悩んであがいてみる価値は十分あると思いますが
    保証もないし予測もできない
    しかも結果が出るのには時間が10年単位で必要なのに
    因果関係は証明できない
    なにもしなくても解決したかもしれない
    万能の解決方法がひとつはあります
    時間はすべてを解決してくれますね!
    1000年もすれば関連することはなにも残っていない

  • #25

    Mn3 (木曜日, 28 7月 2016 23:35)

    この私たちをとりまく、社会が比較的、安定してる時
    敢えて「私は何者なのだろう」と問う、必要性は低いかもしれません。
    一方、社会が安定した成立困難な状況
    例えば日本が戦争になるとか、AIにわたしたちが支配される、といった状況ではどうでしょう?
    私たちはいやでも「自分は何者なのか」と考えさせられる。
    それとも毎日の糧を確保するのに精一杯で、そこまでの余裕はない、となるでしょうか?
    たとえ少数派であったとしても、「自分はなにものか」と考え、立ち位置を確かめなければなりません。
    足場がない世の中に基盤を作り、明日へと前進しなければ、ならないのでは?
    「私とは何者か」という最も個的な問いが
    社会、世の中といった、常識的には対極にあると思われるものに
    とても深く、左右される、基礎づけされる問いであること。
    つい私たちは忘れがちなのですが。

  • #26

    からす (金曜日, 29 7月 2016 09:52)

    Mn3さんの書かれていることは正しいと思いますが
    なぜMn3さんは「私は何者なのだろう」と問う時に
    社会のことを考えるのですか?
    結論に至る過程に興味を覚えますが
    どのような考えから
    【「私とは何者か」という最も個的な問いが
    社会、世の中といった、常識的には対極にあると思われるものに
    とても深く、左右される、基礎づけされる】
    この結論にたどり着いたのでしょうか。

  • #27

    Mn3 (金曜日, 29 7月 2016 13:09)

    封建社会において、「私は何者か」という問いが、たとえば農奴に許されていたでしょうか?
    彼らは領主の方から「お前はわたしの土地を耕し、年貢をわたしに納める者だ。それ以外の何者でもない。」
    と一方的に宣言され、居住地、職業、の選択の自由を奪われ奴隷のごとく生き死んでいったでしょう。
    来る日も来る日もそんな毎日が続く中、彼らに「私は何者か」と問う気力が残っていたとは考えにくいです。
    あるいは、「あなた方が何者かは、すべて神様がお決めになっている。ただ祈るのです。」
    と中世ヨーロッパにおいて民衆が説教されたら、それに異を唱えるのは罪でした。
    現代においても、日本人が、ある共産党一党独裁の国を訪れたときのことです。
    「ところで、ここで働いてるひと達に、何か問題はないのですか?」
    とその邦人が通訳に尋ねた。
    それ以降この日本人は、当局に要注意人物として、帰国まで秘密警察の尾行にあったとのこと。
    その国で国民は不満が一切ない、党は無謬だ、というのが不可侵の大原則の国。
    そこで現状に少しでも疑問や葛藤があると思われても仕方のない問い=「私は何者か?」
    は発することのできない、考えてはいけない問いである。
     うって変わって現代の日本。ある意味「私は何者か?」は自分探しという資本主義のコマーシャル・メッセージにもとれる。資本主義下のゲームプレーヤーと認められて、個性的であろうとすることは
    新しい様々なニーズを呼び起こし資本主義を牽引してゆくことに。
    という一面がある。
    勿論、宗教的に哲学的に、この「私は何者か?」を真摯に深めてゆくひとが少なからずいるのは事実で
    しょう。ただ転んでもただでは起きない資本主義です。すべてのことを貨幣経済にリンクしていこうと資本主義=私たちにほかならない、
    が虎視眈々と狙い、成長していくという念が頭をよぎるのです。自分の糧を得るための労働が、資本主義から見れば体制を維持し、さらに資本を増大させるものとして喜ばしく見られてゆくように、
    「私は何者か?」の問いも喜ばしく見られてゆく。
    からすさんの疑問の答えになっていないかもしれませんが#25はそんな意味です。

  • #28

    からす (金曜日, 29 7月 2016 16:48)

    農奴について述べることができる知識はありませんが
    定義が曖昧なので地域も年代もかなり広く考えられるので
    数千人から数十億人が対象となるかと思います。
    仮に1億人としたとして誰ひとり問いを持たなかったと
    Mn3さんは推測されるのでしょうか?
    それはMn3ならば考えないということなのでしょうか?
    それとも誰かが考えなかったと言っていたことなのでしょうか?

    中国において人が消えることがあるそうです。
    たぶんMn3さんの書かれているようなことが原因でしょう。
    ではなぜその人は消えてしまったのでしょうか?
    本人は理由を知らずにいたのでしょうか?
    私は知っていて活動をしていた人が含まれていると思います。
    どんな環境であっても歩みを止めない人はいます
    Mn3さんならばどう考えて行動するのですか?

    資本主義では?
    私はポケモンGOの人気を利用して利益を出せないのか
    ビジネスとして関わっています。
    ゲームに夢中になることと
    「私は何者なのだろう」という問いは
    コインの裏表だと思っています。
    問:なぜ私たちは「自分は何者なのか」と考えるのか
    答:資本主義下のゲームプレーヤーとして成功するために
    この関係は成り立つと思っています。
    Mn3さんの資本主義において
    「自分は何者なのか」と考える答えはどんなものですか?
    なぜその答えにたどり着いたのかが今回の問かと思いますが
    Mn3さんはその過程でどんなことを考えたのですか?

  • #29

    Mn3 (土曜日, 30 7月 2016 08:39)

    中国においても
    資本主義下の日本においても
    わたし個人とすれば
    農奴のごとく哲学する
    農奴が考えるように「自分は何者なのか」と思考します。

  • #30

    からす (土曜日, 30 7月 2016 09:05)

    農奴が考える「自分は何者なのか」とはどんなものなのですか?
    わたしには農奴という仮想の存在のことが判りません。
    Mn3さんの考えを記してもらえませんか?

  • #31

    Mn3 (土曜日, 30 7月 2016 13:39)

    からすさんが#28で
    >仮に1億人としたとして誰ひとり問いを持たなかったと
    >Mn3さんは推測されるのでしょうか?
    >それはMn3ならば考えないということなのでしょうか?
    >それとも誰かが考えなかったと言っていたことなのでしょうか?
    と述べられていたことから
    からすさんは農奴でも「私は何者か?」と考えたことのある人が居るのだ、と主張しているように
    思いました。ならば、その考えたことのある人(ある農奴)と同じように、わたしも考える、
    私はその水準ですよ、という意味です。

  • #32

    からす (土曜日, 30 7月 2016 13:57)

    「ある人(ある農奴)と同じように」とはどんな考えなのでしょうか?
    私は存在したか存在しなかったかの判断しか考えていません
    Mn3さんが同じように考えれるのはとても興味深いです
    それはどんな内容なのでしょうか?

  • #33

    Mn3 (土曜日, 30 7月 2016 15:21)

    「私はAと考える人が存在したと判断します。
    しかしAとはどんな内容なのか判りません」、
    ということですか?

    #27~#32まで、辿ったところをみると、からすさんも何らかのAをイメージしているかと思います。
    もし、そうでなければ、私が何かAとはこんな感じでは?とコメントしたとき、それに反発する材料はどこにあるのですか?
    それともこの#33の私のコメントを見て即インスピレーションが湧いてくるということですか?

    もしかしたら純粋にただ私のコメントが見たい、ということであるとしたら、なんとも面白くないものですが以下のようなものです。
    「俺はこのまま終わってしまう人間なのかなぁ~」
    ねっ!面白くないでしょ。

  • #34

    からす (土曜日, 30 7月 2016 20:05)

    たしかに面白くないようです。
    ありがとうございました。

  • #35

    ミラー (土曜日, 30 7月 2016 22:34)

    とても興味深いと思いました



第4回 哲学カフェ なぜ私たちは「自分は何者なのか」と考えるのか

2016年7月9日(土)

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