■ 第20回 哲学カフェ←Googleカレンダーに追加
日 時: 2017年9月9日(土) 13:00~15:00
場 所: カフェ・サンラファエル
(名古屋市西区名駅2-11-8 ファーストビル大樹1階)
テーマ: 老いるとは?
進 行: 寺井哲治
参加費: 飲食代実費(440円~)
定 員: 13名
申 込: 8月25日(金)夜からメールにて受付開始。←受付を開始いたしました!
staff☆nagotetsu.sakura.ne.jp(☆を@に変換してください。)
(定員に達しましたら締め切りますので、なるべく事前にお申し込みください。お申込みがない方も席に余裕がある範囲で先着順でお受けします。お早めにいらしてください。)
※定員に達しました。キャンセル待ちを受付中です。
共 催: カフェフィロ
《ご案内》
人は、誰でもいずれ自分の力の衰えを経験します。気力・体力・知力、それぞれにピークを迎え、その力が減っていく。自らが、あるいは、身内やペットなどの身近な存在がそのような状態になっていくことを目の当たりにする人も多いと思います。そのとき人は何を感じ、何を考えるのでしょうか?そして、それはなぜなのでしょうか? 「老いる」を通して《美しく生きる》ことについても考えてみたいと思います。
若い方も初めての方も歓迎です。どうぞお気軽にご参加ください。
[ご説明] 哲学カフェでのやりとりを多くの皆さまと共有する場として開設します。
イベント終了後2週間程度を目安に、参加者の皆さまからのご投稿を募集します。
当日の感想や、後で気づいたことなどを気軽にお寄せください。
参加者同士のさらなる対話の場としてもご活用ください。
[ご注意] 「ホームページ」欄は、ご記入なしで構いません。
「名前」は匿名や変名でも構いません。(後で変更はできませんので、ご注意ください!)
ご投稿はなごテツが発行および許諾した印刷物や電子媒体で複製・転載する場合があります。
あらかじめ、ご了承の上、ご投稿をお願いします。
Mn3 (日曜日, 01 10月 2017 19:45)
「老醜」ということばがある。
意味はそのまま、年老いてみにくいこと。
だから誰もが年はとりたくないと言う。
しかしそれは文化的社会的コードによるもので、絶対的なものではないのではないかとの思いもよぎる。一体どちらなのだろうか。
おせち料理のなかで欠かせない海老。あれは年を取って、腰が曲がるまで生きながらえることができますようにという願いを現しているという。
ということは腰が曲がった姿を嫌悪しているわけではなさそうだ。
男が悩む禿の問題。
江戸時代、男は敢えて頭を剃って禿げた(?)髪型が流行した。
ということは頭髪の問題は文化的コードによるもので、年だから即、みにくいというわけではなさそうだ。
が、しかしである。
外見で若い異性と、年老いた異性、どちらに魅力を感じるものだろうか?
聞くまでもなく前者だろう。
これは、文化的社会的コードを超越した真理のように思える。本当だろうか?
子孫を残す前提として若い人の精子、卵子にはミスコピーのDNAが少ない分、生物学的には若い男女に魅力を感じるように私たちはインプットされているのではないか。
縦えそうだとしても私たちニンゲンは意味に彩られたセカイを生きているわけで、本能=絶対的意味なのではないはず。
ただ社会的文化的意味を脱ぎ捨てた文脈では本能が命じるちからが絶大なるものとなるのも致し方ない。
けれどもニンゲンはいかなる時も意味を生きているというのも本当。人により本能と意味、どちらが大きく寄与しているかは、それぞれだろう。
結局、最初の問いには、ひとそれぞれという無難な答えに落ち着くか。
Mn3 (水曜日, 04 10月 2017 21:44)
「死にゆく者への祈り」原題『A Prayer For The Dying』という映画が心に残っている。
IRAである主人公は誤って子供たちの乗っているスクールバスを爆破。それから自身の最期まで罪の意識に苦しむ。が、神父の説得により神への許しを乞う言葉を口にしてから息を引き取る。
そんな内容の映画だった。
すべての老人はいわば「死にゆく者」だろう。そして私も老人だとは思わないが死を意識する年齢になった。
さすがに人を殺めるような罪は犯してないが罪の意識はある。自分が死んでゆこうとするとき、果たしてそばで「あなたの人生は無意味ではない。罪も許されている。」と祈ってくれる人がいるだろうか。気になる。
老人=死にゆく者は、無力で自責の念に満ち、悲しくさみしい。いつか、もう長くはない人を眺めた少年にも、今度は逆に同じような視線にさらされる番がやってこようとは。
これから永遠の眠りにつくまでに何をすべきか、何をしておきたいか、何ができるのか、……
死を意識すると雪の日のような厳粛さに覆われる。
Mn3 (日曜日, 08 10月 2017 01:00)
以前「この社会はIQ100の人を前提とした作りになっている。」と聞いたことがある。
ではこの社会は誰もがなると思われる「老人」が使用することを前提としたつくりになっているだろうか?
銀行のATM。PC。スマホ。百貨店の中のいろんな機能のついたトイレ。多種類飲むことになる薬。ネットショッピングの仕方。TV。ファストフードの注文の仕方。
若いうちは楽勝と思われることも、老眼、記憶力の低下、判断力の低下、たくさん抱える持病etc.により困難となることも多いだろう。
セキュリティ、個人のプライバシー上の問題が絡み他人(家族も含む)が介入しづらいことも考慮して、文字通り独りでしなければならないことも多いだろうから。
時に、流行をつくり資本主義を牽引してゆくTVは、皮肉にも若い人のメディアではないと言われる。若さ=価値かのような宣伝をしているメディアを最も視聴しているのは老人なのだが。
そのTVは若い人向けの番組が多いと嘆いているお年寄りの声を聞いたことがある。
そして、お金を動かさねば滞ってしまう資本主義。
収入の少ない、老人は何にお金を使えるだろうか?
医療費、馬鹿にならないだろう。
そしてこれから実用化されていくであろう話し相手としてのAI。
けれども、これらのお金は医療保険で賄われる割合も大きいだろうから、いったい誰の金なんだという若い人の声もあるのは確かだ。
保険がきかない、100%老人の資産からの出費はアンチエイジング、宗教のお布施、オレオレ詐欺に引っかかればそのお金、などだろうか。
しかし、科学技術の進歩により、次のようなものが出来れば老人にとってハンディをなくし、社会参加をより促すだろう。
口で何かしたいことを言うだけで、なんでもこなしてくれるPC。どこへでも連れて行ってくれる運転者不要の全自動の自動車。ウェアラブルの能力補完システム。etc.
それでも、老人の選挙の投票率は若い人より圧倒的に高いのに、老人が若い人より満足度の高い生活をしていないとしたら。
それは何に起因するのだろうか。政治力でなんでも解決できるというわけではないのだろう。
政治により構築されるシステムとしては老人第一のものになっているのだろうから。