第24回 哲学カフェ

人はなぜ物語がすきなのか?

2018年1月13日(土)

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カフェ・サンラファエルさまの入り口
カフェ・サンラファエルさま

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日 時: 2018年1月13日(土) 13:00~15:00

場 所: カフェ・サンラファエル

    (名古屋市西区名駅2-11-8 ファーストビル大樹1階)

     地下鉄「名古屋駅」1番出口より北へ徒歩5分

テーマ: 人はなぜ物語がすきなのか

進 行: 高橋秀和

参加費: 飲食代実費(440円~)

定 員: 13名

申 込:申込み受付状況: 受付終了

共 催: カフェフィロ

《ご案内》

 ひとは物語が好きなのでしょうか? 子供の時に親に物語を聞かせてほしいとせがんだり、大人になってこどもからお願いされた経験を持つ方も多いでしょう。 こんな話から微笑ましい親子の物語を想像したひとも少なくないのではないでしょうか。 何かを想像したり、妄想が始まった時点で物語が始まっているのかもしれません。 そう考えると、ひとは生まれながらに物語が好きなのではないでしょうか。 今回はなぜ人は物語が好きなのかについて考えてみたいと思います。初めての方も 歓迎です。どうぞお気軽にご参加ください。

 

~記録~

―開催報告―

なごテツ 第24回 哲学カフェ

《人はなぜ物語がすきなのか?》

日時: 2018年1月13日(土) 13:0015:00

会場: カフェ・サンラファエル(名古屋駅東口)

進行役: 高橋秀和        

 

今回は、2018年の初回となる哲学カフェです。

テーマは「人はなぜ物語がすきなのか?」

テーマのせいか、多くの参加者にお集まり頂けました。

 

以下に対話の一部をご紹介します。

 

 

 

  

・物語は心によく響くから分かりやすい。

・物語と文学の違い、スッキリするのが物語、不安になったりするのが文學  

    小説家の言いたいことは1~ 2行で終わるが、感動させたりしてココロを動かす

・物語は擬似体験、普段ではできない内容、新しい経験をさせてくれるから

・物語は最終的には自分自信の経験に引き当てて行くものだから

・純文学的なもの、エンターティメント、歴史的な物語がある

・物語を受け入れることで映画の主人公になってみたりできるから

・自分の中で物語を作っている、映画や本を見るとそれに上書きされる。常に自分の中で物語っている。

・モノを見た時に追体験する。自分のもってもので物語の感じ方が変わる。自分の物語を作っているから。

・体験を物語として話すと伝わりやすい。政治家が今の日本はどうこうというのも物語という。

・物語は理解しやすいから好き。

・自分の心に動きがあった時に物語がある。ココロ豊かな人は些細なことを物語にする。

・私達の身の回りで物語が多く使われている。はびこる物語。

・言葉でモノを語ると物語となる

・現実の自分に足りないものを補おうとするから

・ネバーエンディングストーリー、願いを叶えるために現実世界のことを忘れることができる、

 ファンタジアに行って戻れない大人がいる。

・ヒーローの物語、絶対勝ってくれる。結果は分かっているがそれを求めてしまう。安心感を求める。

・自分の中にタネがあって共感できると開花する。物語は共感を与えてくれる。

・神話が争っている。物語がそれぞれ競争している。例えば宗教。

・土壌として人間の意識がある ・結婚も1つの物語。

・現実をかたどることができる。現実をどのようにかたどるのよいか、自分自身が物語をつくている

・誰かの生き方を見てしまうと妄想してしまう。

・物語を感じる時はどういう時か。意味を探していてそれを感じられる時に物語を感じる

・自分が体験していない人生を体験できるから

・言葉は制限がある、自分の思ったことが相手に伝わらないので細かく説明する必要があるが  

    それでは相手が聞いてくれないので気持ちが載せて伝えることで相手に届く。

 

などなど、今回は参加者からの発言が絶えることなく続き、様々な観点から対話がされました。

 

おっと思うような観点からの考察もあり、驚きや笑いもあって、

参加者の皆様と楽しい時間を共有できました。

 

(作成: なごテツ世話人 荒井豊)


~参加者からのご投稿~

[ご説明] 哲学カフェでのやりとりを多くの皆さまと共有する場として開設します。

イベント終了後2週間程度を目安に、参加者の皆さまからのご投稿を募集します。

当日の感想や、後で気づいたことなどを気軽にお寄せください。

参加者同士のさらなる対話の場としてもご活用ください。

[ご注意] 「ホームページ」欄は、ご記入なしで構いません。

「名前」は匿名や変名でも構いません。(後で変更はできませんので、ご注意ください!)

ご投稿はなごテツが発行および許諾した印刷物や電子媒体で複製・転載する場合があります。

あらかじめ、ご了承の上、ご投稿をお願いします。

コメント: 12 (ディスカッションは終了しました。)
  • #12

    Mn3 (土曜日, 27 1月 2018 11:39)

    #11に考えさせられました。
    人間が生きていくために必須の言動の物語=文明の物語
    精神生活を豊かにするためのオプションの物語=文化の物語
    というふうに人間の活動を大別することができる、としたら。
    科学技術と一口に言うが、
    科学=文化の物語  (素粒子論、宇宙のダークマター研究、地球外生命体の観測etc..)
    技術=文明の物語  (発電所、工業製品の開発、食料の輸送方法、ダムの建設法etc..)
    に分かれる。(境界線の物語もあるが)
    他に列挙すると
    文明の物語=戦争、医学、政治etc...
    文化の物語=小説、スポーツ、囲碁将棋etc...
    別の言い方をするならば、
    「強くなければ生きてゆけない(文明の物語)、優しくなければいきていく資格がない(文化の物語)」だろうか。
    宗教は人のこころに訴えるので文化の物語っぽいが、
    それがもとで戦争にもなるので文明の物語の側面も持つからむずかしい。

    現代は民族紛争問題、環境問題、過度な経済偏重、格差問題など問題が山積しているせいか、
    文明の物語>文化の物語
    ということが目につく。
    大学でも文系あるいは教養学部の縮小など
    文明の物語>文化の物語、ということが現れている。
    生きてゆくために必須な物語=文明の物語、が文化の物語を圧倒しているのは、
    現代が危機の時代だからなのだろうか。
    もとが空腹を満たすためのものであるだけに文明の物語は強力だ。
    空腹を満たしたあとに来る自由という名の文化の物語は脆弱で、
    少しずつそれがなくなっていっても気づかれない。
    気づいたら文明の物語一辺倒になっていたというふうにならないだろうか。
    或いはまた、文化の物語を疎かにすると、
    文明の物語までも失ってしまうものなのかも知れない。

  • #11

    からす (金曜日, 26 1月 2018 10:39)

    人は誰しも自分の物語をもっているのか?

    あれをしたい、これをしたいなどの願望
    段取りや計画などの予定
    こうなりたいなどの夢
    まだ現実になっていないことは全て物語であり
    現実におきた過去も思い出せば物語
    誰しも物語を生きているとおもう
    その中には大切にしていることや
    自分では気がついていない大切な物語もある
    肯定や否定をされるだけで一喜一憂したり
    時には人に伝播して再生産や拡大を興す
    人は誰しも物語を持っていて
    人の集団もまた物語を持っている

    人はなぜ物語がすきなのか?
    自分自身が大切ですきだから

    物を食べることはすきだろうか?
    好き嫌いはあるかもしれないけれど
    食べることを否定することは難しい
    理性で考えてどうこうできるものでもない
    極度の空腹の解消の喜びは
    普段認識しているよりも
    本能に近いところの感情と出会いとなる
    その爆発的な激情の前では
    日常生活の中の自分などいなくなってしまう
    満たされたあとにやっと自分は戻ってくる
    すきかどうかを考える自分も一緒に戻ってくる

    もしこれが物語であったならば
    自由を取り戻すことになるのでしょうか
    それならば本や映画から探すのに苦労はなさそうです
    心が囚われた状態に同情して
    解放されるために足掻き、戦う姿に共感する

    人はなぜ物語がすきなのか?
    比較できないものに好き嫌いなど無意味で
    すきなどというものではないのかもしれない

    自分のことが嫌い?
    それはあなたの物語の始まりなのでしょうか

  • #10

    Mn3 (水曜日, 24 1月 2018 22:22)

    第二次世界大戦下、
    ある民族は自分たちこそ最も優れた民族であり、
    世界を支配しなければならない、という物語を信じた。
    そのためにまずユダヤ人のような劣った民族は絶滅しなければならない、
    という物語のため600万ものユダヤ人は露と消えた。
    別の民族は自分たちは神の子孫であり、
    東洋の覇者として、西洋の覇者=米国を打ち破らねばならない、
    そののち全世界をひとつの家にしなければならない、
    という物語を信じた。
    結末は8月6日と9日、数千度の熱線で罪のない人々が蒸発してゆくという、
    言葉で表すことのできない惨劇に。
    翻って現代、
    今も自分たちの物語を強要し、
    そのため文字通りの地獄を地上に出現させている、
    とニュースに溢れている。

    本当に物語はなくてはならないものなのか?
    本当に物語は必要なのか?
    本当に物語はひとを幸せにするものなのか?
    「物語に罪はない。誤った物語を実行しようとする民族がいるだけだ。」という人もいるだろう。
    しかし、戦いに勝った民族が、生き残った物語を全世界に信じさせているだけで、
    その現在認められている物語でさえ、
    もし敗者の物語であったなら、
    抹消されるべき物語に過ぎないのではないか?
    禁断の果実を口にした瞬間から、
    物語に囚われるのが避けられない運命であるのならば、
    自滅するのもまた、避けられない運命なのかもしれない。
    1962年10月を生き延びたのは本当に僥倖であったと認識するのも、
    「13Days」などの物語を見たりした結果だというのも皮肉なようだが、
    物語のちからが物語の力に打ち勝つよう願ってやまない。

  • #9

    からす (火曜日, 23 1月 2018 21:54)

    物語を否定されることとは?
    心を破壊されること
    たぶん、自分が自分でいられなくなること

    人はなぜ物語がすきなのか?
    新しい世界を覗く窓になるから
    たぶん、自分が自分らしくいられるようになること

  • #8

    Mn3 (土曜日, 20 1月 2018 10:18)

    彼の世界と彼女の世界とは異なる。
    彼は〈彼の物語〉を生きている。
    彼女は〈彼女の物語〉を生きている。
    二人は決して同じ世界を生きているわけではない。
    しかしである。
    歩み寄って二人は〈彼と彼女の物語〉を生きることだろう。
    それはまた終焉を迎える。
    〈新たないのちの物語〉を採用し、喜んで物語の主役から脇役にと退くことだろう。
    そののち〈新たないのち〉は彼も彼女も知らない〈新たな物語〉を生きていることを知るだろう。
    こんな物語を人類は延々と繰り返し、
    あらゆる生み出された小説、物語はこのヴァリアントに過ぎない。
    言い換えれば、私たちが小説や物語をすきなのはこの〈原物語〉を追体験しているから。
    今日もまた私たちは物語の世界に魅せられる。

  • #7

    からす (土曜日, 20 1月 2018 08:57)

    その店の前に来ると
    おいしい食べ物の味を思い出し
    嬉しくて踊りだしてしまう

    一応、物語の形はしていると思う
    経験をしたことを文字にすれば物語といえると思う
    その経験が聞いたものだったり観察したものでも成り立つ
    観察した場合には対象は物語りの中に居たといえる
    冒頭の物語は彼を観察したもの
    彼は自分を物語の主人公と思ったのだろうか
    それとも思わないのだろうか
    もし思わなかったとしても物語として成り立つだろう
    では彼が人間ではなく犬だったならば?
    犬は物語を理解することができないから
    観察者が物語と感じただけなのだろうか
    彼はそこで美味しいものを食べたことがあるのではしゃぎ
    猫がいたことがある場所だからといないか確め
    嫌いな犬がいたことがある場所で毛を逆立て
    動物病院を恐れ、全力で素通りしようとする
    それは本能ではなく彼が体験から学んで行動したこと
    相手に伝えたり、聞いたりしないことは物語ではないのか?
    もしこれが物語といえるのであれば
    人類は人類以前から物語を受け継いでいるのかもしれない
    群れで狩りをする狼のドキュメンタリーを観ていると
    シナリオを元にそれぞれが役割をもって
    獲物を追い詰めているかのようにみえる
    シャチやチンパンジーの群れの狩りでも観察されている
    作戦を立て遂行することと物語は違わない気はする
    動物が物語を理解していることに条件があるとするならば
    その条件をクリアできない人にも物語は理解できないことになる
    その線引きも物語の序章なのかもしれない

  • #6

    Mn3 (木曜日, 18 1月 2018 21:39)

    物語を認識するには高度な知能が必要だろう。
    1.まずここにはない5W1Hを本当のこととして理解する能力。
    2.次にそれが〈つくりもの〉であることだと理解する能力。
    3.最後に〈つくりもの〉を通してなにか〈ほんとうのこと〉を物語は語っているということを理解認識する能力。
    チンパンジーは第1レベルにはクリアー出来てもなかなか第2レベルまで進めない。
    人間でも小さな子供は同様だろう。
    だから小さな子供は物語が苦手だというケースが割と多いのではないか?
    〈虚構〉という概念は高等なのだ。
    お芝居を見てて怪物が出てくると小さな子供が泣き出すのは〈ほんとうのこと〉だと受け取ってしまうからではないか。
    この第2レベルまで進めば第3レベルまではあとほんのちょっとだ。
    このレベル(第3レベル)まで達しないと国語のテストで「この登場人物を通して作者の言いたいことは何か答えなさい」という問題に正解をもらえない。
    もしかしたら国語のテストが理由で物語が嫌いな人もいるかも知れない。
    「どうして言いたいことがあるならわざわざ虚構を通すなどという回りくどいことをするのか?」と文句を言いたい気分になったことはないだろうか?
    大人になると分かることだ。
    大人になっても突き詰めて考えなければ分からないことでもある。
    〈虚構〉が〈真実〉よりもより真実だという場合があるというのは真実ではないか。
    もしチンパンジーがこの真実を理解するようなら、人間も万物の霊長の座を明け渡す時が来たということなのかもしれない。

  • #5

    からす (木曜日, 18 1月 2018 18:32)

    物語の原点はなんだろうか?
    ・家系図か神話
    ・狩猟・採取の地図の原型
    ・狩猟・採取の時期の伝承
    ・道具の製作
    ・ラブソング
    ・ダンスミュージック
    ・死者の埋葬
    ・賭け事
    ・集団のルール
    ・暇つぶし

    適当に書き出してみましたが
    日常ではないことではないかと推測します。

    カラスの生態を集めた本に狩人への協力が書かれていました
    人間の猟師だけでなく、狼などの狩りをする動物にも協力するようで
    獲物になりそうな動物がいる場所を教えてくれるそうです
    もしそんな出来事に出会ったら
    誰かに伝えたくなるのではなかろうか
    これは承認欲求からくるものなのかな?
    物語をすきであることには
    物語を語るのがすきな場合(供給サイド)と
    物語を聞くのがすきな場合(需要サイド)がある
    同じ物語として考えを進めるべきなのか?
    とりあえず保留ですかね・・・

  • #4

    Mn3 (水曜日, 17 1月 2018 21:37)

    むかしむかしあるところに・・・・

    僕等はむかしの記憶が途中から遡れなくなるのが普通だ。
    2、3歳の頃の記憶が僕にはない、と思う。
    それは両親に守られ自分自身の記憶を働かせなくとも日々生きていけるから、だそうだ。
    それが期待できない環境で生きねばならない場合、赤ちゃんの頃から自分の記憶がはっきりしているという。
    例えばモーツァルト。
    彼の生まれた環境は過酷で、生まれた時からの記憶が有ったという。
    0歳の頃からの記憶と引き換えに幸福な日々はモーツァルトから縁のないものとなっていた。

    過ぎ去った時間はどこかに実在するものなのだろうか?
    失敗した人生を歩むとも知らずに赤ちゃんの頃の僕は母親の腕に抱かれ笑ったりするだろう。
    それを見て親も思わず微笑んでいる。
    静謐な時間が流れている。
    幸福な頃。
    そんな光景が今でも確かにどこかに実在していると思うと、たまらなくなる。

    むかしむかしあるところに・・・・

  • #3

    からす (水曜日, 17 1月 2018 17:48)

    むかしむかしあるところに・・・・
    これはわたしにとっては物語の原点なのだろうか?
    おはなしを意識したのがいつ、どんなものだったのか記憶にないので
    自分で本が読めるようになる前のことはあまり覚えていない
    図書館に行った記憶はあるので絵本も読んでいたと思うけれど
    そのころにどんなものを読んだのかはっきりしない
    エルマーとか探偵団の断片の記憶はあるけれど
    自分で読んだ記憶なのか読んでもらった記憶なのか
    もしすると読んであげた記憶なのかもしれない
    本を読むことがすきなので思い出そうとすることは心地良い
    あらたなる刺激を求めて本を読み散らしていたので
    記憶にある限りわたしは物語がすきなのだとおもう
    ではなぜすきなのだろう?
    すきになる前のことが思い出せれば言葉にできるが
    その記憶がないで比較ができない
    わたしにとって物語の記憶は本から始まり
    その時点で好ましいとおもっている
    自分の経験が今回のテーマの検証に有効なはずなのに
    データとして重要なところが欠損している
    これは欠損があるので有効ではないデータとすべきなのだろう
    しかしもうひとつ可能性が残っている
    物語をすきになったのではなく、物語がもともとすきだった場合
    すきであることが標準であり、すきになる前の状態は存在しない
    この場合には有効なデータとして考えてもよいのだろう
    どちらの場合でも記憶の中の原風景は糸口として有効ではない
    別の角度から探さなければいけないようです。

  • #2

    Mn3 (火曜日, 16 1月 2018 21:58)

    『問わず語り』と辞書で引いてみる。
    〈人が問わないのに、自分から語りだすこと〉とある。
    そうか、物語は人にせがまれて話し出すものなのか。
    Aさんが発言なさったように「物語は共感を求める」。
    つまり、その場で聞き手と話し手がいるという空間において反感も含めた『共感』は必須なのだろう。
     また、どなたかが発言なさったように「語る」と「騙る」の類似性。
    物語はどんなに精緻なものでも、どこか「つくりもの」という感が拭えない。
    物語の背後に控えている「ほんとうの世界」。
    しかし、その「ほんとうの世界」を表すにも「物語」というシェーマを通すしかない矛盾。
    「ほんとうの世界」自体をあらわすにも言葉を使わざるを得ない。
    私たちが、つかみたいのは言葉などではない。
    「ほんとうの世界」の筈だ。
    しかし、どうあがいても「物語」を甘受するほかない。
    絵本でも、映画でも、直接言葉がなくとも既に「物語」。
    理論も感情も「言葉」で切り取られて表現される。
    白いおしぼり自体を見たくとも、私たちに見えるのはおしぼりに反射した白い光。
    世界自体を感じたくとも、私たちに感じられるのは世界自体から派生した物語。
    しかし言葉がなければ世界自体はカオスのまま。
    光がなければ白いおしぼりも暗黒のまま、目に見えず。
    『創世記』の言葉を思い出した。
    〈神光あれと言たまひければ光ありき〉
    言葉は光なのだ。
    *    *    *
    鯨も歌を歌うらしい。彼らも「物語」を持っているのだろうか?彼らも世界を「認識」しているのだろうか?

  • #1

    からす (火曜日, 16 1月 2018 10:55)

    人はなぜ物語がすきなのか?のその前に
    人は物語がすきなのか?よりも
    物語とは?の定義は必要なのか?
    今回の哲学カフェの内容は物語とは?だった気がします。
    その中で物語がそこらじゅうに蔓延っている
    これは今回のイベントでの名言だったと思います
    個人的には人は物語にもれなく感染しているのではないかと思っていました
    もし約束を物語とするならば法律は物語である
    1という概念が物語であるならば
    数学好きな人以外にとっても数学は物語である
    株式のチャートだろうが成分分析表だろうが物語である
    人は生まれたあとに誰かに世話をしてもらわなければ生きられない
    その時点で扶養関係から物語に感染してしまう
    どんな表現をしようともその前提に物語が存在している
    物語を嫌いであると理由を考えた時点で物語を語っている
    これは物語が嫌いといえないのではなかろうか
    すきの反対は無関心だとしてもこれも難しい
    約束事が物語だとすると理論的であることは物語に浸かっている
    理論的に考えることから無関心でいる
    本能だけで理論も計算も用いずに生きることができるのだろうか
    物語は嫌いだけど道具として使用はする
    これは成り立ちそうな気はするが
    計画を立てて成功を喜ぶことも物語とするならば
    否定することは難しい気がする
    計画がなければ農業など成り立たなくなってしまう
    人類は物語から自由になることはできないのではないか?
    かなり強引な内容ですが純文学であろうと詩であろうと
    物語の引力から逃れることはできないのではないか
    などと思っていました。

第24回 哲学カフェ

人はなぜ物語がすきなのか?

2018年1月13日(土)

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