第22回 哲学カフェ

「美しい」ってなんだろう?

2017年11月11日(土)

記録ご投稿


投稿受付中のイベント

お申込み受付状況:

事前申込みを締め切りました。

 



カフェ・サンラファエルさまの入り口
カフェ・サンラファエルさま

  ■ 第22回 哲学カフェGoogleカレンダーに追加

日 時: 2017年11月11日(土) 13:00~15:00

場 所: カフェ・サンラファエル

    (名古屋市西区名駅2-11-8 ファーストビル大樹1階)

     地下鉄「名古屋駅」1番出口より北へ徒歩5分

テーマ: 「美しい」ってなんだろう?

進 行: 荒井豊

参加費: 飲食代実費(440円~)

定 員: 13名

申 込:事前申込みを締め切りました。キャンセル待ちを締め切りました。

     staff☆nagotetsu.sakura.ne.jp(☆を@に変換してください。)

定員に達しました。お申込みがない方も席に余裕がある範囲で先着順でお受けします。お早めにいらしてください。

 

共 催: カフェフィロ

《ご案内》

人が美しいと言うとき、

その対象は絵画や宝石といったカタチのあるモノであったり、

美しい音楽や数式といったようなカタチのないもののこともあります。

ときには美しい人生といったような使い方もしますが、

私達はそれらの何を美しいと 言っているのでしょうか。

「美しい」について考える時間をもってみませんか。

 

 初めての方も歓迎です。どうぞお気軽にご参加ください。

 

~記録~

―開催報告―

なごテツ 第22回 哲学カフェ

《「美しい」ってなんだろう?》

日時: 2017年11月11日(土) 13:0015:00

会場: カフェ・サンラファエル(名古屋駅東口)

進行役: 荒井豊        参加者: 17

  

  さて、今回のなごテツのテーマは”「美しい」ってなんだろう?”です。

  今回も多くの方々が集まっていただき、活発に意見を交わし合うことができました。

  初めて参加されたかたも何名かおられましたが、積極的に対話に参加して いただきました。

 

  可愛いでもなくキレイでもない。美しいについての対話の始まりです。

 

    以下に簡単ではありますが、対話内容を記述します。

    • そのものを受け入れる気持ちがないと美しいと思わない。
    • 美しいともう対象と何らかの共通点がないとわからない。
    • 飛び抜けたものは魅力があるとは言うが美しいとは言わない。
    • 美しいものには、作者の美しい内面が現れるので美しく感じる。
    • キレイと美しいは違う。
      (ここらへんは、発言している方々も微妙にキレイと美しいを使い分けているので面白いです)
    • 対象を愛する気持ちがあるからそのものを美しいと感じる
    • 美しいはそれを見る人のそれぞれが持っている価値感によって変わる。
      特定のものを見て美しいと思う人もそう思わない人もいる
    • どんな美しいについても法則があるという人と、法則はないという人はいる。
    • その時その時の美しいがあるのであって、一貫したものはない。
    • 人が作ったものには生命的なものがある。(有機的)市販品のように工業的に作ったものは
      無機的でキレイだと思う。
    • 美しいもの背後には神秘的なものを感じてしまう。
    • 命のあるものについて美しく感じるのではないか、数学の美しさは無機的な美しさだが、
      有機的なもの無機的なものを超えた美しさがはあるのではないか。
    • 美しいものは、調和しているや循環がとれているもの。
    • 人間の価値観が美しいを作り出しているのではないか。
    • 本当の自然よりもアニメの自然のほうがキレイに感じてしまう。
    • 他者に対する評価ではなく自分自身の評価が美しいになる。自分の状態によって変わる。
      美しいとはいたって主観的なものだと思う。
    • 何かの体験の追体験、左右対称は美しいといったような刷り込みによって美しさは作られているのでは。
    • 雑草の生命力といった背景を知ると雑草も美しく見えてくる。
    • 見る人がいなくなったときにある花の美しさとはなんだろう。
    • 書道の草書でかかれた美しさは、文字としては意味がわからないがカタチとしての美しさがある。
    • 現代アートは我々が刷り込まれていてあまり美しいとしてみないものの中に美しさを見出している。
      (塗料の飛び散り方、廃材のサビ具合)
    • 美しいというのは個人個人が美しいと思うもの、それを他人に強制するから可怪しくなる。
    • 美の条件は比較するものによって変わってくるのではないか。
    • その人の人生観によってそのように感じる、経験によって美しいと感じるのでは。

     などなど、対話は続いていきます。

 

  美しさの本質のようなものがあるのか、それともそれぞれの美しさがあるだけなのか。

  参加者同士の熱い対話が行われ、2時間があっという間に過ぎて終了。

  結論は出ないのが哲学カフェですが、それぞれが楽しんでいただけたようです。

 

  最後に進行役の方が今回のテーマで語られた内容をまとめてくれました。

  参加者の方たちの積極的なご発言により、とても充実した場となりました。

 

  世話人一同。感謝の一言です

 

(作成: なごテツ世話人 荒井豊)


~参加者からのご投稿~

[ご説明] 哲学カフェでのやりとりを多くの皆さまと共有する場として開設します。

イベント終了後2週間程度を目安に、参加者の皆さまからのご投稿を募集します。

当日の感想や、後で気づいたことなどを気軽にお寄せください。

参加者同士のさらなる対話の場としてもご活用ください。

[ご注意] 「ホームページ」欄は、ご記入なしで構いません。

「名前」は匿名や変名でも構いません。(後で変更はできませんので、ご注意ください!)

ご投稿はなごテツが発行および許諾した印刷物や電子媒体で複製・転載する場合があります。

あらかじめ、ご了承の上、ご投稿をお願いします。

コメント: 11 (ディスカッションは終了しました。)
  • #11

    Mn3 (金曜日, 01 12月 2017 00:32)

    「うつくしい」と読む漢字はいくつああるが、最もポピュラーなのは「美しい」。
    字典には『成熟した羊の美しさを美といい…(中略)…犠牲として神に供える羊は、美しく完全であることが求められたが、その羊が美しいことを示すのが美である。』とある。
     完全である美しさは、もはや人間の世界に属さない。本当の美人と言われる人は神の領域のひとなんだろう。昔、生贄にされるような人はきっと、とても美しかったのだろう。だから美しい人には悲しみがまとうのか。
     今でこそミスコンはお祭りだが、昔は生贄を決めるようなものだったのではという想像もできる。それは神に供するためだけではなく、戦いに敗れた王が勝者に絶世の美女を貢物とするために行われたのが起源という可能性はないだろうか。
     「うつくしい」はまた「爾しい」とも書くそうだ。『死んだ婦人に邪悪な霊が憑りつくことを祓うために、✖形の入れ墨をあざやかな朱色で描き、その入れ墨のあざやかなことをいう。』
     巫女はこういった儀式をとりあつかう人の末裔で、うつくしいというイメージがある。美が悪霊の恐怖に打ち勝つのだ。
     最後に「好しい」。『女と子を組み合わせた形。もとは母親が幼児をかわいがること。母親の子どもに対する愛情の意味から、姿がうつくしいという意味に』
     ようやくおどろおどろしい世界から抜け出し、うつくしい者が持つ好ましい性格を表した漢字だという気がする。笑顔がよく似合う情景だ。
     字典をもとに「うつくしい」のイメージを少し書き連ねました。

  • #10

    からす (火曜日, 28 11月 2017 22:35)

    食事の作法の「美しい」と「汚い」の違いはなんだろうか
    美しいとされる食べ方は動物っぽくない仕草と推測される
    手掴み、塊に食らいつき食いちぎる、食べ散らかす、音を立てる
    手や口を汚す、食べ物(あるいは器)に顔を近づけるのは汚らしく見え
    食べ物を小さくして口元に持っていく(前かがみにならない状態)
    口を大きく開けず、歯を見せない、道具を使う(器や箸、フォーク等)
    手で食べる場合にはできるだけ指先しか汚さないなどに気を付けると
    綺麗な食べ方にみられやすい
    動物のような食べ方の野蛮人に対して文明人はマナーを知っている
    この図式は差別化ではないのか?
    美しい装飾品を身に着けることができるのは身分の証明
    自分たちの価値観の美術品や芸術品を共有できることも
    夕陽や山並みなどの風景を美しいと眺める余裕があることも
    自分達には理解できるがあいつらには判らないという
    グループ分けの道具ではなかったのか?
    美しさとは差別化の道具だったのではないか?
    穿った見方ではあるけれど美しさと虚栄心が関係ないとは思えないので
    そんな一面もあるのだろうなあと思うことにしました。

  • #9

    からす (火曜日, 28 11月 2017 22:33)

    美しいと美しといわれているものは同じで良いのか?
    他人が美しといっているものを美しいと思うとは限らない
    ひとそれぞれ好みが違うのでそんなものだと思う
    しかし美しと思えるものに触れたことがない人は少ないと思う
    なんらかを美しいと思ったことがある人が多数派ではなかろうか
    これはなぜなんだろう?
    ほとんどの人が感じるのだとしたら
    なんらかの意味があるはず
    生きていくのに必要な実用的な意味があるか
    有効なセンサーの副産物だったのではないか?

    フランクル 夜と霧の中に小さな植物の生長する姿を楽しみ出来ることが
    極限状態で生き残るのに心の慰めになったというような記載があったと思う。
    絶望的な状況に身を置いたことはないのですが仕事に追われている時に
    ふとした些細な出来事で心が軽くなったことならある
    人知れず咲く小さな花であったり、冬の空に向かって手を伸ばしているかのような
    落葉後の灌木の佇まいにこころが軽くなったことはある
    ゴッホの絵を判断するのに知識と感性のどちらを信頼すべきか自信はないが
    この小さな癒しの経験は少なくとも私のものである
    ストレスから少しの間でも私を助けてくれた感覚の延長線上
    あるいは同じカテゴリーに美しさがあるならば有用な機能ではないかと思う
    また、シンメトリー(左右対称)を美のひとつの形とするならば
    生物の繁殖には有利な可能性がある
    動物を正面から見たときに左右のバランスが良いことは
    運動性が高いことを見た目で判断する参考になる
    もし左右のバランスが明らかに違うならば走る場合に不利になる
    生き残ることが最重要だったであろうご先祖様にとって有用だったと思う
    他にも小さな違いに気が付くことができる観察能力は
    木の実を取る採取、獲物を追う狩猟、作物を育てる農業において有用であり
    天敵のいる環境では敵の居場所を知るのにも有利となる
    それは仲間から尊敬を集めるに値する能力だと思う
    美しさが単体で発達したのではなく
    優れた観察力によって得られる情報の一形態なのではないか
    大多数が気がつかないなにかに気がつく能力が必要とされ
    そのひとつが美しさだったのではなかろうか

  • #8

    Mn3 (日曜日, 26 11月 2017 15:57)

    どうして美しさと恐怖は親和性を持つのだろうか。
    ホラー映画でやけに美しい音楽が流れてくるとき、とても恐ろしい場面だたりする。カフェでも意見が出たように、空襲のさなか、落ちてくる焼夷弾がとても美しかったりする、らしい。
     個人的にはとても美しい夕焼け空を見ていると、何故か地震雲なのでは、と感じてしまうときがある。また超個人的にはギーガーのエイリアンは美しいと思わないでもない。
     恐ろしいと感じるとき密かに次に何かが起きることを期待してしまう。それが身の破滅をもたらすものであっても。その時の感情がなぜか美しいと感じるものと親和性をもつ。
     美しさと恐怖は感情の姉妹か。お互いがお互いを強め合う。美学は恐怖学でもあるのかもしれない。人間の感じる情動のうち最も強いものではあるのだろう。
     動物も恐れを持つ生き物だ。だが彼らには美しさが分かるのだろうか。
     研究が進みいつの日か恐怖を司るDNAと美しさを感じるDNAが近い場所に存在するのが発見されるかもしれない。
     

  • #7

    からす (日曜日, 26 11月 2017 10:00)

    美しいとはと考えると思い至ることに
    普通、あるいは大半は美しくなく
    一部の特別な範囲を美しいと判断することがある
    普通ではないものの中から悪いものと理解できないを除く
    ただし悪いものの中でも外見、価値観、内面など
    求めている側が見たいあるいは見ていることにより
    相反する側面を持つ場合がある
    内面は醜いが外見が美しい
    外見は美しいが価値観として許されないなどフォーカスする場所が
    どの側面なのかによって複数の選択肢がありそうです
    またあまり美しくないものという範囲があるとすると区分に迷う
    あまりと付いているので美しくないともいえそうですが美しくない訳ではない
    平均に比べるれば美しいに近い、あるいは美しいに準ずる
    足りない点はありそうですが美しいの範囲なのでしょうか?
    これら消去法で美しくないものを外していけば美しいものだけ残るのか?
    理論的には正しそうですが美しくない理論ではありそうです。

  • #6

    Mn3 (金曜日, 24 11月 2017 22:45)

    美しさについて語ろうとすると、どこか奥歯にものが挟まったような、面映ゆい思いにとらわれる。男性が最も美しいと思うもの、それは美しい女性にほかならないからだ。
     美しい女性への真の思い、それは自身の本能、性衝動であるといっても過言ではない。だから公の場で、美しさについては語りにくい。それをオブラートで幾重にも包み、公衆の面前でも声高に語れるようにしたもの、それが「芸術」だ。
     裸婦も描かれたものであれば、それについて語るのも白眼視はされない。男性はどんな女性を美しいと思うかを、学問的に追究した場合も罪を免れる。
     しかし所詮美しいと感じる心は性衝動に由来するもの。生物の最大の本能が子孫の繁栄にあるのなら、美しいと感じるこころはどれほど強く悩ましいものか言を俟たない。
     美しさを前にしての、この上ない喜びと苦しみは他を圧倒する。
     先日新聞を読んでいたら、金賢姫の写真が載っていた。百人以上の犠牲者をだした大韓航空機爆破事件の実行犯である。事件当時彼女の映像が配信されるとそれを見た韓国の多くの男性から「こんなに綺麗なら是非結婚したい」というコメントが殺到したという。
     美しければ百人以上を死に追いやっても許されるのか、と思った人も少なからずいただろう。美しさの力と怖さ。
     歴史を紐解けばこの何十倍何百倍もひどい美女のはなしに事欠かない。それだけ男性の女性の美しさへの憧憬というか渇望は果てしないということ。
     だから「女性を外見で差別してはいけません」というフレーズがまことしやかに膾炙してるのも無理はない。ミスコンでも外見よりも内面を審査する風潮が多くなってきたと言う。
     これを人類の進歩と見るか、無駄なあがきと見るかは喧喧諤諤だろう。美しさについての議論はパンドラの箱かもしれない。

  • #5

    からす (火曜日, 21 11月 2017 09:59)

    美しさとは共通性のあるものの中での希少性なのでは?
    木の葉の中で美しいものを探そうとすると
    おそらく一番整った物を探すことになるのかとおもう
    珍しい変な形の木の葉は希少性はあるが美しいとはなりにくい
    何々のようで美しいと他からの引用はあり得るが
    それは美しい木の葉とは言い難い
    たぶん一番木の葉らしくバランスの取れているものが選ばれる
    これを人間の顔に置き換えるとどこかに論文がありそうです
    日本人の美的感覚にある一番整ったものは面白くないので少し外すことも
    もとになっているものは整ったものなのでこの仮説の延長線上にあると
    判断しても差支えはないかとおもいます
    また夕陽が美しいという場合の希少性は時間軸ではないかと
    綺麗な夕陽が見れる条件と時間は限られていていつも見れる訳ではない
    桜の花やもみじの紅葉もその時にしか見ることができない
    シンメトリー(左右対象)の美しさも希少性と思われる
    自然界には完全なシンメトリーはなかなか無い
    富士山への憧れはこのカテゴリーでしょうか
    では鍾乳洞などの神秘的な美しさは?
    えっと・・・
    説明に苦しみそうです
    希少性はあるがしっくりこない
    まあ、こんなものなんでしょうね!
    野生動物、雄大な風景、理解できないのに目が離せない美術品
    圧倒されるような存在に対して動く気持ちを考えると
    理由など取って付けたようなおまけに感じてしまう
    それらも美しさの範疇なのだろうか?


  • #4

    Mn3 (土曜日, 18 11月 2017 17:03)

    「きれい」は外面的なものへの評価で、「美しい」はそれに加え内面的なものをも含めた評価という気がする。
     だとしたら、いわゆる「ミリタリーファッション」に対して、どう向き合えば良いのだろうか。
    「ミリタリーファッション」はその内面性を一切排した、純粋にその外面だけをアピールしたものと言われる。人を殺す、とかの軍事的な要素と関連付けられることを一切拒む。別の言い方をすれば、内面性ゼロなのである。
     もし鉤十字のファッションがあったらどうだろう。鉤十字のマークの純粋に造形美だけを問題とするファッションだ。もし「ユダヤ人に対する犯罪を連想させる。ユダヤ人を愚弄するものだ。」と文句を言う人がいたとしよう。
     するとそのファッションは「そんなことは関係ない。純粋に外面の問題だ。もしユダヤ人が怒っても、怒る方に問題があるのでは?」という内面を主張していることにならないか?
     「ミリタリーファッション」はクールさを内包するものだが、着ている人がどれだけ意識しているかは、ともかくそれは軍事性から由来しているものだろう。かと言って着ている人が皆、戦争賛成なわけでもない。それくらいの趣味は認めてもいいだろう。
     では件の鉤十字ファッションは?これはあまりにもアピールが強すぎてただの「ミリタリーファッション」では済まない気がしてならない。それを敢えてファッションだと言い切る人の内面性を嫌でもさらけ出してしまうだろう。
     「ミリタリーファッション」はきれいではありえても美しいとは言えまい、とだけ言おうとしたらこんなふうな結論になってしまったのだが。

  • #3

    からす (金曜日, 17 11月 2017 19:07)

    もし未知の物に出会ったときに美しいと感じることはできるのか?
    美しいと感じた時に「~のような」とか「~よりも」など
    なにかと比較して判断しているならばそれは未知の物でない可能性がある
    比較するものなしに判断できたとするならばそれはなぜなのだろう?
    また美しいと思えたとしてそれは他の人と共有可能なのか
    共有することができず他の人から拒絶されたとしてもそれは美しいのか?
    美しいと思った理由を理論的に記載することも
    美しくないと思った理由を理論的に記載することも容易
    しかし理論をもとに反対の側に移らせるのは容易ではない
    もちろん理論を主張する側に権威があれば容易なケースも考えられる
    自分の考えよりも権威を信じる人が多いことは想像できるが
    このケースを美しさを考えるために使用することには抵抗がある
    他人の価値観で美しさを判断材料にして選ばれる美しさの基準は根拠になるのか?
    商業的に成功している美術品や観光地の風景のボリュームを考えると
    世に溢れる美しいと言われているものを否定することになりかねない
    とはいえ伝承されてきた美しさの価値観は否定できるものでもない
    自分が美しいと感じるものと世間で美しいといわれているものが相反する
    これは美しさについてではなく持っている価値観が問われている
    美しさも価値観のひとつではあるが
    自分の価値観に沿わないものを美しいと感じることはある
    美しいけれど正しくないことと正しいけれど美しくないこと
    美しさは矛盾を容易に飲み込んでしまう言葉ではあるようです。

  • #2

    Mn3 (水曜日, 15 11月 2017 23:05)

    自分の頭で考えることを放棄しないため、辞書を引くのは最小限にとどめたい。
     しかし「美しい」を電子辞書で引いてみると、意味の本文の前の説明文が興味深い。
    (美しいは)『肉親への愛から小さいものへの愛に、そして小さいものの美への愛に、と意味が移り変り、さらに室町時代には、美そのものを表すようになった』
     多少トートロジーぽいところには目をつむるとしても、なるほどど思った。
    「美しい」は、主観的な自分のほうにあるもの、から時代を経て、分析的な対象のほうにあるものへと重心を移していったようだ。
    その動きを突き詰めていけば、現代の美術が心を排した、即物的なマテリアル勝負なところへと行き着いたのも合点がゆく。
     だが「美学」という、理性で「美」を理解する学問の土台が、「愛する」という理性では捉えられないもの由来のものである以上、その試みがどれだけ成功するのだろうと疑問に思う。
     なぜこの味を愛する(美しいと思う)のか、は説明しがたい本能的なものだろう。なぜこの人を愛する(美しいと思う)のか、も説明しがたいが全く理由を言えないわけでもない。いや、ほとんど本能的とも言えるが、ほんの少しスパイスとして理性が加わり、「この人を美しいと思う」が成立している。
     しかしこのスパイスが重要なのかもしれない。だからこのスパイス=理性の学たる「美学」が存在するのだろう。現代の美術と理性が親和性をもつから、美学は現代美術の分析に成功している。ただ一般大衆には、「どこが美なんだ?」となるシェーマ(図式)が成立する。

  • #1

    からす (水曜日, 15 11月 2017 10:35)

    美しいとは?
    目に見えるものが対象で人(主に女性?)や風景、動植物、構造物等々
    視覚による情報が元になっていると思われるが
    聴覚による音にも適応可能
    また目に見えない心や思想などにも範囲は広げれると思われる
    他にも所作やスポーツなどの動き方や機能性も範囲内
    数学の公式やプログラムの美しさと言われるものは
    茶道の所作などの立ち振る舞いの美しさ等と同じカテゴリーなのかな?
    違う気もするが適応範囲を考えるのにひっかかりになりそうな気がします。
    視覚と聴覚以外の感覚には合わない気がする
    嗅覚、美しい香りは使えそうですが微妙な気がする
    もっと官能的なことがオープンにできる文化ではありそう
    触覚、美しい感触も上記につながりそう
    味覚、美しい味、三流のグルメレポート等
    理性で考えることが優先の視覚と聴覚の感覚的なことに美しいは使用可能で
    元々感覚的な嗅覚や触覚、味覚には適応しない
    あるいは他人との共有が簡単な視覚や聴覚に適応
    美しい香りのような共有可能な情報は使用可能だが
    使用事例が少ないので微妙な感じがしてしまう
    パブリックな情報には使用可能で
    プライベートが元になる情報は共有する経験が少ないので使い難い
    まだ新しい対象のスマホの操作感のサクサクやヌルヌルなども
    将来的に(存在し続けるなら)美しい操作感となり得るのかな?

第22回 哲学カフェ

美しさとは?

2017年11月11日(土)

記録ご投稿