第62回 哲学カフェ

【演じるとは?

2024年4月13日(土)

記録ご投稿



カフェ・サンラファエルさまの入り口
カフェ・サンラファエルさま

対面

 ■ 第62回 哲学カフェ←Googleカレンダーに追加

日 時: 2024年4月13日(土) 13:00~15:00

場 所: カフェ・サンラファエル

    (名古屋市西区名駅2-11-8 ファーストビル大樹1階)

     地下鉄「名古屋駅」1番出口より北へ徒歩5分

テーマ: 演じるとは?

進 行: 荒井 豊

参加費: 飲食代実費(440円~)

定 員: 15名

申 込: 受付前

内 容: 日常生活のなかで、演じている自分を意識したことはありますか?

     自分がなりたい姿になろうとする時、人は演じ始めることがあります。

     服装や言葉遣い、考え方や仕草まで、思い描いた姿を演じることから始まり、

     いつの間にかそれが自分の一部になってしまいます。

     演じる前と演じている自分、また、他人が演じた自分も自分なのでしょうか。

     今回は演じるということについて深く考えてみたいと思います。

     初めての方も歓迎です。どうぞお気軽にご参加ください。

 主  催:   なごテツ(https://nagotetsu.jimdo.com/)

 共  催:   カフェフィロ(http://cafephilo.jp/)


今回のテーマは「演じるとは?」です。

 

実は少し似たテーマで、「仮面」というテーマでの対話を過去に行ったことがありましたので

今回はどのような展開になるのかと楽しみです。

 

では、対話内容の一部を以下に紹介します。

 

・良い父親、良い上司になりたいと思ったが、そのままだとそうならないので、セリフを考えてそのように

 振る舞った.

・ある時からメタな自分に気づいた、いま、この場でもこの場に合わせた自分を演じていることに気づくよ

 うになってしまった.  

 自宅でラクに振る舞っている自分ではなく、その場その場で違う自分を演じていることに気づいてしま

 い、気づいていない頃には戻れないのでしんどいなと思う.

・メタ認知は中学生の頃からあったが、それに抗う自分もあった(客観的に恥ずかしい)、もっと自由に振

 る舞いたいと感じた.

・学生時代に、ちょっとカッコつけてみたいに過剰に演じることで本当の自分と違ったキャラクターを見せ

 てみた。

・自分が憧れている人の真似をしてしまう.

・演じるを英訳してみると、play:遊ぶ・Act:俳優・Perform:パフォーマンスといった意味の言葉になる ・強大な力や神秘的な力を自分の中に取り込みたいという思いが演じるにはあると思う。

 ラスコー洞窟の壁画のような.自分自身がそういうものになりたいという思いが祈りのような形に現れて

 いる.

・会社の飲み会で偉い人が来ると同じような挨拶が繰り返される。

 そのような場が形成されて同じような姿を演じてしまう.

・お婆ちゃんにいいこだねと言われていたため、いい子を演じていた.

 演じようとすると心が辛くなる.

・日本人は演じるのが得意な国民.普段の生活の中で、私は日本人を演じているという感覚がある.

 海外は学校教育の中で個性を活かす感覚が強いので 、自分の意見を主張しても変な目で見られないし調和

 を乱すとも言われないが日本ではそうでないので、自分をつくってみせる必要がある.

・理想な〜を演じている時は本当の自分と理想の差を埋める必要があるが、理想は社会によって求められて

 いる姿なので、自分ではなくて社会に期待されている姿を演じさせられているのではないか.

・自分が選んでそうなるのと、作られた仮面をかぶるのがあるように思う.

・フランスのカフェのウェイターは過剰に皿を拭くというのを聞いたことがある.自分はウェイターという

 職業の仮面を被っているのであって本当の自分ではないという思いが表出しているのではないか.

・素の自分を演じる(脱力している状態)

・プラスの方向に行く場合に辛いけどちょっと頑張ってみようとする状態が演じるだと思う.

・何かを目指して努力している状態が私にとっての演じている状態

・意識して良い方向に演じる部分と意識てしていないで、本当は嫌だけれど強いられて演じさせられている

 ものがある。(自分から演じると、周りから強いられて演じさせられるがある)

・(演じさせられるというくだりから)個性が軽視される日本というのは良くないのでしょうか?

・フランスは自分の意見を表現して公言することが良いと思われている社会。

 教育制度が、自分の意見をいかに理論的に話すかを重視する。

 個性が意見の元なので、子供達の個性が大事にされ、個人主義もそれで成り立っていると思う。

 日本は、個性を出すよりも調和を考えて空気を読みながら生きていく社会という、全く別のあり方なの

 で、それを快と感じるか不快と感じるか大事で、不快と感じるのであればちょっと変えてみてもいいと思

 うが、だからと言って個性を強く打ち出せば良いということでもなく、人によって違うのではないかと思

 っています。

・南北アメリカは個性中心、日本は自分の意見を言うと虐められるということから、調和を大事にしなけれ

 ばならない社会であるということを学んだ.

 社会的背景、地理的条件、歴史が違うということがものすごく関係してくる話だと思う.極論で言うと個

 性重視はトイレが汚れる.後で使う人のことは考えないので、ゴミもどこでも捨てる。

 日本人は周りの人のことを考えるのでゴミを捨てない。そういうことを考えるとどちらが良いと一概には

 言えない.

・日本は型を重視する.型を守るから型を破り型を離れるとなるが、問題はそこまでいかない場合だと思

 う。自分の場合は臆せずに言えばなんとかなっていた

・先に思ったことを言ってしまえばなんとかなると思ったが、後からあの時こう言われてたよと言うような

 ことを人づてに聞くと本音と建前のように、その時は受け入れてくれたように演じただけだったと言うよ

 うなことを見分けるのが難しい。フランスの場合は自分の意見と違うとはっきり言うので喧嘩になること

 もあるが、後でこうだったと言うことがないので見分けるのが大変と感じる.

・守破離の話で、まだ破るべきではないのに破ってしまう場合が多い。

 日本の徒弟制度はまず師匠を真似るところから始まり、一部の人だけが破ったり離れたりというところま

 で行ける。多くが破る段階まで行けず、その前に破ってしまう人がいる。

 調和というのは、真似ている状態の人が多いからではないのか。

・動物は演じることがない、本能のままにしている.人間は意識でコントロールしている.つまり演じてい

 る.

・集中していたり、リラックスしているのも演じているのでしょうか

・理想のリラックス像があるのではないか、その姿を真似している。

・少し先の未来のメリットになるような時に演じることをしているのでは。

・演技することはいいことか、役割のない社会はあるのか。

 自分のやりたいようにだけしていてはモンスターになる。

 その時に、その役割で縛られることで良かったと後から考えると思えることもある。役割期待もストレス

 だが悪くないと思える。

・頑張ってリラックスする、動物のように純粋にリラックスできない。  

・家でテレワークすると仕事が進まない、出社することで周りの目があるのと、頑張って仕事している自分

 を演じる必要があるため仕事が進む。(役割を果たす自分を演じる)

・その場その場に合わせて演じるスイッチが自動的に入るのを感じる。友達に会う時にも、その人と出会っ

 た時の関係性に応じて演じる感覚はあり、それが時にしんどく感じる。素の自分がわからなくなる。

・疲れる役を強制される相手とは付き合わなければ良い。

・人に合わせて自分を切り替えるのは疲れるのでそれを辞めた、素の自分を受け入れてくる人を大事にする

 ように切り替えた。

・〜している自分とラベリングできるのであればそれは演じている自分である。そう考えるとほとんどのこ

 とは演じていることになるのでは。

・子供は親の望む姿になりたいと思いながら育つ、親は子供のためにと言いながら理想を押し付ける。先ほ

 どの良い上司と言ったような社会的に求められる上司像があることで、そうあらなければならないと思わ

 せられるので、自分の主体性がないと演技させられている自分という苦しさから逃れられない気がする。 ・役割と押し付けられると苦しいが、自分が主体的に演じることで苦しくなくなる。

・目的を定めてそのために必要な自分を演じることは楽しい。

・楽しめる人と楽しめない人がいる。どんなに良い目標を立てても楽しめない人は楽しんでいる自分をつく

 っている。

・チームの目的のために役割と演じることを強制していたのではないかと思った。

・素の自分というのは存在しているのか。家族・会社というような役割自体に自分が存在しているのではな

 いか。

・演じるが2種類あり、右脳的に演じると左脳的に演じるがあると思う。 論理的に考えると演じる役に没頭

 できない。ビジネスの時に見せる自分の演じ方とアーティストととして見せる自分の演じ方は異なる。 左

 脳的な演じるは演じている自分との距離が作れるが、右脳的に演じると役と自分の距離が近いので演じた

 後に疲れる。

・ロジカルな視点とリリカルな視点。インプットの段階ではリリカルなものが自分というものを通過してい

 く段階でロジカルになったりする。

 自分の中での処理の仕方を調節することで、先ほどの辛さのようなものをコントロールできるのではない

 か

・曖昧でないことは演技できないのではないか、数学のように答えが決まっていることは演技できないので

 はないか。

・英語が喋れないけど英会話が好き、余裕がないので他のことが考えられない。必死なので自分を演じてい

 る余裕がない、それを楽しんでいる。

・一人で外国の満員電車に乗る。逃げ場がない状況で質問すると相手も答えてくれる。その時の自分は演じ

 ている余裕はない。ホームステイした時に、その家のマンマが赤ちゃんに接するように、色々と教えてく

 れるので、自分はまるで赤ちゃんのように対している。その時の自分は演じているがリラックスして楽し

 んでいた。

・演じるは余裕があって一歩引いてみていられる時の言葉で、必死で余裕がないのは演じるではないのでは

 ないか。

・アクティブな方は演じることを肯定的に捉えているように思う。そうでない場合は演じることを強いられ

 ているという捉え方になっているように感じる。前に話があった「良い子」を強いられる場合、身近な人

 からあなたは「良い子」と言われるとそれに応えなければならないと思って演じてしまう。

 本当は「普通の子」しかいないのに無理をしてしまうから辛くなってしまう。活発に意思表示できていれ

 ばそうならなくて済むが難しいと思う。

 自分も本当に苦しい時に、身近な人に言えるかと考えると難しいのではないかと思う。

 話すのが難しい方の話を静かに洞察し、少し距離をとって聞くという温かい姿勢が必要なのだと思った。 ・演じている自分ということにピンと来なかった。〜のフリをするということがそうかなと。フリをするこ

 とは不誠実なこと嘘のように感じていた。

 今日の皆さんの話を聞いて、変わって行こうとする時の前向きな意味での演じるがあることや習慣をつく

 っているようなイメージがあることがわかった。

 それは悪くないイメージの演じるだと思った。

・お土産をもらった時にちょっと強めに嬉しい自分を演じると、相手もちょっと喜んでくれたる、それで職

 場も良い雰囲気になった。優しい嘘は多様な社会では大事なこと。

・演じることは人間が社会で生きていくうえで適応して身につけた生存戦略のようなものかと思うようにな

 った。

・本当の自分でいる時は成長がない、あるべき自分を演じることで成長する。嫌いなことでも無理してやっ

 ていくと、それが習慣になって変わった自分が好きになれる。

 今は習慣になったので無理はしていない。

・演じるには下心がある感覚。

・この社会で演じるという場合には、周りに自分がどう映るかを気にするから下心を感じるのだと思う。

・理念的なことをみんなで達成しようとする時は大きな嘘が必要(共同幻想)。そのフィクションを信じる

 ことをみんなで演じて、いつかは達成するのを目指すことがあっても良いのではないか。

・みんなで演じること。貨幣経済、宗教のようにみんなで信じるがある。社会的に善と思えることをみんな

 で信じていることを演じるのは大切なことと思った。

・シナリオは語り継いでいく、どう演じるかはそれぞれ。

 

これで時間となりました。

 

対話の全ては網羅できませんでしたが、

参加者のそれぞれに体験にもとづくお話もあって良い対話の時間となったのではないでしょうか。    

 

                              (作成: なごテツ世話人 荒井 豊)                                  

第62回 哲学カフェ

【演じるとは?

2024年4月13日(土)

記録ご投稿